カリジャミの痴話喧嘩に巻き込まれるアズールのおはなし「しばらくここに置いてくれ」
そう言って深夜の2時に押しかけてきた友人に、アズール・アーシェングロットはメガネの奥の瞳を三回瞬かせた。
冷え始めた夜の空気の中を、薄手のTシャツ一枚でここまで歩いてきたんだろうか。ジャミルは小刻みに震える身体を抱きしめるように右手を左腕にまわし、苛立ちを含んだ瞳でアズールのことを見つめていた。
豪華な装飾で飾られた玄関扉を押さえるアズールは、驚きという感情はあるものの快くジャミルを自宅へと招き入れる。それから、ジャミルをリビングへと案内しながら手元のスマートフォンで操作をして暖房の温度をあげた。
はじめの一言以来なにも言わないままのジャミルは、おとなしく案内をされるままアズール宅のリビングへ足を踏み入れ、無遠慮にもソファへと腰を下ろした。革張りの上等なソファがギシリと悲鳴をあげる。
「えっと……どうされたんですか? ジャミルさん」
自分のために用意をしておいたお湯でジャミルのための紅茶を入れつつ、キッチンから問いを投げかけるアズール。ジャミルはするりと滑らせるような視線でアズールを見やると、苛立ちを隠しもせずにグッと眉根をひそめた。
「……」
「こんな深夜に、いや、別に、嫌だとかそういうことではないんですけどね?」
「……」
「ただまぁ、めずらしいな、と思いまして」
アズールは、ジャミルと「友人である」という自負がある。だがまぁ悲しい哉、ジャミルの方はそうではないようで、こんな深夜に「ちょっと来てみました」をするほどアズールに心を開いてくれてはいない。悲しいことだが。
だからこそアズールは、驚いていた。そして同時に、喜んでもいた。
そんなアズールの心境を読み取っているんだろうジャミルは、あいも変わらず不機嫌で無遠慮な様子で黙りこくるばかりだ。
「……カリムさん、のことですか?」
紅茶を運ぶためにキッチンを出て、ジャミルの前にそれを差し出しながら、アズールが問いかけたその一言でジャミルはピクリと瞼を揺らした。
その反応、そして訪れた無言の時間が意味をするのは「イエス」だった。
「僕でよければお話お伺いします、が」
ジャミルの隣に腰かけ、アズールはうながす。真黒い髪をしな垂れ落としてうつむくジャミルは、それから十分後、ようやくその重い口を開いた。
「……なるほど」
まぁ、要約をするのであれば「痴話喧嘩」だった。
ジャミルの話は「大学の追いコンに参加をしたカリムがなんの連絡もなしに日付を超えてから帰宅をしてきて、あっけらかんと笑っていたからムカついた」というものだった。
神妙な面持ちでジャミルの話に相槌を打っていたアズールは話が進むのに合わせてその表情から深刻さを滑り落としてしまいそうになり、慌てて表情を作り直した。それほどに、まぁ、正直なところ、くだらない喧嘩内容ではあった。
「アイツの能天気さにはもううんざりだ」
だが当の本人のジャミルからすれば、これはきっと積もりに積もったチリが山となり噴火を起こしたかのような大事件だったんだろう。ここは友人として、真剣に取り合わなくてはいけない。そう思い直したアズールは、こほん、と一度咳払いをした。
「そうですね……確かにカリムさんは昔から、そういったところがありますからね」
「そうだ、アイツは昔っからそうなんだ。俺の気も知らないでヘラヘラヘラヘラ……! ああ、思い出したらムカついてきた、アズール、ちょっと一度殴らせてくれないか?」
「なぜ?」
ジャミルからの理不尽なパンチを避けて、アズールはホクロが特徴的な口元に手を当てて黙り込む。さて、どうしたものか。恐らく今のジャミルは怒りが勝っていて、カリムと冷静に話し合おうという思考を持ち合わせてはいないだろう。このまま話を聞いているだけでも満足はしてもられるかもしれないが、やはりアズールとしては「友人」として、ジャミルに有益なアドバイスの一つでも送りたい。
そんな打算まみれの思考をこねくり回し、アズールはジャミルへかける言葉を探す。紅茶を飲み干したらしいジャミルはかちゃんと音を立てて皿の上にカップを戻すと「だいたいこの間も――……」と先週のカリムのムカつき事件についてをつらつらと語っていた。
「……えっと、その、でもカリムさんも」
「なんだ」
「きちんと理由をお伝えして話せば、わからない方ではないでしょう?」
諭すような口調で言えば、ジャミルは唇を内側にしまって黙り込む。そう、そうだ。カリムはお気楽で能天気ではあっても、人の真摯な意見には耳を傾け、話を聞くことができる。正真正銘の馬鹿ではない。
きっとそれを一番わかっているのはジャミル自身だ。それを見越して言ったアズールの言葉は正解だったようで、ジャミルは耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さな声で「まぁな」と同意をした。
「ジャミルさんが、その、心配をしたんだ、と伝えればきっとカリムさんも真摯に向き合ってくださいますよ」
「……」
「車でご自宅まで送りましょうか?」
「……いや、それはいい」
ジャミルは手元のスマホにちらりと視線を落とし、それから顔をあげてアズールの提案を断った。ジャミルはアズール宅へやって来てから三十分。その間中ずっと震え続けていたジャミルのスマホは、数分前にピタリとその震えを止めていた。
「……くる」
ジャミルが小さな声で言った。
「え?」
「くる」
「は?」
「カリムがここに、くる」
そう言ったジャミルは、深く深い、ため息をついた。
「ジャミル〜! 俺が悪かった! 帰って来てくれ‼︎」
数分後、アズール宅の玄関前。
そこには、涙交じりの声でジャミルの名を呼ぶカリムの姿があった。ジャミルの宣言通りアズールの自宅へ押しかけて来たカリムは、今が深夜だということも忘れてしまっているのか、通り中に響く情けない声で「ごめん」と謝罪を連呼している。
あれ、もしかしなくとも僕、相当面倒なことに巻き込まれてます?
カリムの声を聞きながらも、頑としてソファから腰をあげないジャミルを横目に、アズールはそんなことを思った。
「あの……いいんですか」
「なにがだ?」
「カリムさんですよ」
「ああ、お前には聞こえるんだな。俺には何も聞こえない」
ああ、これは面倒なことに巻き込まれた。
その確信を得たアズールは、重々しくため息をひとつこぼすと、ご近所中に響き渡る泣き声を迎えるために玄関へと足を向けた。
「ジャミル、俺が悪かった、本当に、本当に!」
「ふぅん、何が悪かったと思ってるんだ?」
「えっと、帰りが遅くなったこと……?」
「なんだその疑問符は」
心安らぐ唯一の場所であるはずの自宅リビングで繰り広げられる、まごうことなき「痴話喧嘩」。アズールはカリムのための紅茶を用意しつつ、曇りゆくメガネをおもむろに押し上げた。
ああ、早く帰ってくださらないかな。
つい数十分前まで打算ははるか彼方砂漠の向こうへ。右へ九十度曲がった時計の針を見やり、アズールは重いため息をついた。
友人と友人の痴話喧嘩ほど、立ち会いたくないものはこの世にはあるのだろうか。ジャミルの膝にすがりつくようにして困惑顔を浮かべるカリムを横目に、アズールはそっと静かに紅茶をテーブルに置いた。
「どうしたら許してくれるんだ?」
「その空っぽの頭にぎっしりと脳みそを詰めてくるなら許してやる」
「脳みそを……詰める? 俺もう、脳みそは詰まってると思うけど」
カリムさん、それは嫌味ですよ。そう言ってしまえたならばどれほどいいだろう。アズールは所在無げにリビング中をうろうろと歩き回りながら、心の中でカリムにそんなことを言った。
「もう帰り遅くならないようにするから! ちゃんと連絡もする!」
「はぁ……どうせお前は、どうして俺が〝そうして欲しい〟って言ってるのかわかってないだろ」
「……? どうしてって、それは、えっと」
心配してるんですよ、カリムさんのことを。そう言ってしまえたならばどれほどいいだろう。五周目になるリビング周回をしながら、アズールは心の中で盛大なため息をついた。
「なぁジャミル、とりあえず一旦ウチに帰ろう?」
「嫌だ」
「ジャミルゥ……」
カリムの情けない声がリビングに木霊するのは、なんとも居た堪れない。アズールの気分はどんどん落ち込んでいく。気まずい、居心地が悪い、あれ、ここは僕の家のはずなのに。
六周目の周回に出発するアズール。
「帰ろうって、なぁ」
「嫌だ」
「ここにいたらアズールも困るだろ? な? アズール」
うわ、勘弁してください。唐突に話を振られて、アズールは周回の足を止める。これは、相当慎重に返事をしなくては、今後のジャミルとの関係に影響が出る質問だ。だが正直なところもう寝たい。なんとかオブラートに包んでその意図を伝えなれないものか。アズールは考える。だが次の瞬間。
「俺が友人の家を訪ねるのを、お前にとやかく言われる筋合いはない」
アズールのその思考は吹き飛んだ。
メガネを押し上げようとした指は着地点を誤り、頬へと押し付けられる。え? ジャミルさん、あなた今、なんと。
「それはそうだけど……でもこんな夜中だし」
「深夜だからなんだって言うんだ、友人なら時間なんて関係ないだろ」
グサリ。もう一度、アズールの心臓にジャミルの言葉が突き刺さる。言葉の内容がとんでもなく自分勝手なものであることは気にもせず、アズールの中の内なるアズールはゆるゆるとその頬を緩めていった。
友人、友人、友人!
眠気はどこかへ吹き飛んだ。
「なぁ? アズール」
そんなアズールの心境を全て見透かしたかのようなジャミルの視線がアズールへと流される。アズールは小躍りでも初めてしまいたくなるのをぐっとこらえ、頬に突き刺さっていた指でメガネを押し上げ直した。
「もちろん! 僕はいつでも大歓迎ですよ!」
アズール・アーシェングロットの夜はまだ、終わらない。