オメガバ狂聡11
曲調に合わせてちかちかと色彩を変えていたパーティーライトが、ひとときカラオケボックス内を紅色に染める。本日何度目かの咆哮を聞き流しながら、岡聡実はグラスに刺したストローに吸い付いた。マイクを握る成田狂児が、十八番である紅を気持ちの悪い裏声で熱唱している。先程提案したメロディキーを1オクターブ下げる事で彼の音域に合わせる戦法は、一度は歌ってみた結果、どうやらお気にめさなかったようだ。
しょうもな。
せっかく考案した打開案を無下にされた聡実は、やさぐれた気分でストローの先端を齧りつく。狂児の『紅』への思い入れは強い。それは自分が何をしても無駄なのでは? と思わせる程で、聡実はすっかり拗ねてしまっていた。
狂児のあほ。歌ヘタ王になってまえ。
苛立ちを奥歯に込めて、柔らかなストローを思い切り嚙み潰す。聡実が鋭い視線で睨みつけてみても、悦に入って歌う狂児には届かなくて。まるで、自分がいらない存在だと彼に言われたような気さえして、情緒が降下していった。
……あかん。
ひどい被害妄想に、我がことながら引いてしまう。しかし、今日の聡実にはネガティブになってしまうだけの理由があった。
聡実はストローから口を離すと、制服のポケットにねじ込んでいた紙を取り出す。幾重にも折りたたまれて厚くなったそれをゆっくりとひろげた後、そこに並ぶ文字に視線を落とした。プリントの表題は、第二性別検査結果通知表。次いで森丘中学校三年二組岡聡実と個人情報が続き、レーザーチャートとその項目を説明する細かな文字が羅列する。そして右下には『判定結果:Ω』と、他とは異なる大きなフォントが印字されていた。
この国に生まれついた子どもは、中学三年生になると第二性別検査をすることが義務付けられている。義務教育終了を機会に行われるそれは聡実にも課せられる義務で、先月頭に一斉検査が行われて、今日はその結果が返却されたのだ。
聡実に下された結果は、オメガ性。
予想の範疇ではあったが、聡実をネガティブにさせるには十分な理由だった。
くそが。
むしゃくしゃした気分で、先程の折り目に倣ってプリントを細かく畳む。名刺大まで小さく折ってから、それを合皮ソファの土台とマットレスの隙間にねじ込んだ。
「聡実くん。ゴミはゴミ箱に捨てなあかんよ」
すると、目ざとい狂児がマイクでエコーさせたままの声で注意してくる。
「なんや、赤点でもとったん?」
紅を歌い終えてすっきりしたのだろう。L字ソファの聡実が座っていない一方に腰を下ろした狂児は、ハンカチで顔に浮かんだ汗粒を雑に拭いつつ、朗らかな声で尋ねてきた。
「なんや、赤点って」
ふんすと小鼻を膨らませながら、再びストローに歯を立てる。いつだって狂児の小言は癪に触って、反抗的な態度ばかりとってしまう聡実なのだ。
聡実の不機嫌に触れることなく、狂児がえっ! と驚いたような声をあげる。
「……中学は、赤点ないんか。そうか、義務教育やもんなぁ」
数拍の後、しみじみとした口調で狂児が言った。彼はなるほどなぁと繰り返し頷いて、隈に染まった目元をふっくりと浮かべて優しく微笑む。そして、聡実の方へと手を伸ばしてきた。
「っ!」
突然の接近に、あからさまに肩が跳ね上がる。不遜な態度に怒ったのだろうかと、聡実の脈拍は一気に速度を上げた。
狂児は検索をすれば『指定暴力団』とでる組織に所属する、どこにだしても恥ずかしくないヤクザだ。気分を害してしまえば、聡実をコンクリート浸けにして道頓堀に沈めるかもしれないし、身に覚えのない借金を背負わせてくるかもしれないし、落とし前つけろと指を切られてしまうかもしれない。恐ろしくてたまらない人種のはずなのに、聡実は度々その事実を忘れてしまう。聡実が迂闊なだけ、という説も大いにあるが、狂児の喋り方、相槌をうつ時の視線の動きや間の取り方が、警戒心を解してしまうのだ。
あかん……っ!
狂児がこちらに手を伸ばしてくるのを見とめた聡実は、左手の小指を右手で覆い隠しながら、身を竦める。胸ぐらをつかみあげられるのか。はたまた、顔面を鷲掴みにされるか。戦々恐々としながら、聡実はその時を待った。しかし、狂児の節くれだった指先は、怯える聡実には触れる事はなく。それは聡実の頸すれすれを通り過ぎ、ソファの隙間へと吸い込まれていった。
「捨てたらあかんよ。何点とってもええんやから、お家のヒトにちゃんと見せとき」
先ほど聡実がねじ込んだプリントをすらりと引き抜き、そのままこちらへ差し出してくる。小指を隠したままの聡実は、プリントと狂児とを交互に見比べた。狂児は穏やかな瞳をして、急かすでも押し付けるでもなく、聡実は受け取るのを待っている。普段通りの彼に聡実の緊張は一気に緩み、ほっと吐息がもれた。
「……親には郵送でいくから、捨ててええんです」
そもそもテスト違うし、と加えてから、聡実は噛み潰してぺしゃんこになったストローに吸い付く。緊張で張りつめていた喉を潤すオレンジジュースの冷たさが気持ちよかった。
「ほな、それ何よ?」
聡実がプリントを受け取るそぶりを見せないからだろう。困ったような笑みを浮かべながら、狂児が問いかけてくる。聡実はストローから口を離さないままに、顎をしゃくって彼を促した。
「見てええの?」
頷きを返すと、狂児は小さく折りたたまれたそれをひらきはじめる。その様を目にした聡
実は、そこでようやくまずいことをしたのでは? という疑念にかられた。
アルファ性。ベータ性。そして、オメガ性。三種で成り立つ第二性別は、第二次成長期に準じて表出する。男性、女性といったひと目で判別できる第一性別と異なり、それは極めてパーソナルな情報だ。教師たちからは『家族以外に教えてはいけません』と厳しく指導されていて、両親にだって『友達が教えてくれたからって、聡実は教えたらあかんよ』と言われている。そんな情報を他人でありしかもヤクザである狂児に見せるのは、善くない事ではないのだろうか。自分は、してはいけない事をしてしまったのではないだろうか。
「……」
聡実は、ちらりと視線をあげて狂児の様子を伺う。目線の高さでひろげられたプリントに阻まれて、彼の表情は見えない。判別結果を見た狂児は、どんな表情をしているのだろうか。幻滅した顔? 同情した顔? それとも、無関心な顔だろうか。
「ぼ、僕の名前、聡実やないですか」
恐ろしくてたまらない気分になって、聡実は狂児が口をひらく前に口火を切る。
「おん。聡実くんやね」
プリントの向こうで、狂児が相槌をうった。
「兄ちゃんが正実で、お父さんが晴実。おじちゃんは明実で、じいちゃんは克実言うて、」
そこまで話したところで、ジョイサウンドにお越しの皆さん、楽しんでますか? と個室内に響いていたタレントの明るい声が途切れる。顔をあげてみれば、いつの間にかプリントを卓上に置いた狂児が、デンモクを操作して画面の電源を切っていた。その横顔からは感情が汲み取れなくて、聡実は尚の事追い詰められてしまう。
「ほんで?」
落ち着いた声で、続きを促される。しんと静まったカラオケボックスで引っ込みがつかなくなってしまった聡実は、とにかく口を動かすしかなかった。
「ひいじいちゃんは佳実いうて、オメガやったんです。佳実のじいちゃんは4人の子どもを産んで、その内3人がアルファだったんやて」
卓上に放られたプリント。そこに印字された『判定結果:Ω』という文字をじっと見つめながら、聡実はつづける。
「だから、ウチの男はみぃんな実の一文字をつけんねん。アルファやベータだったら人生の大成しますよに。オメガだったら子宝に恵まれますよにって。しょうもな」
世界を牽引してきた偉人達は、皆アルファ性だったと言われている。そんなアルファ性を産む事が出来るのは、オメガ性でも限られた存在で。だからこそ聡実の家系には、オメガ性を望むような名づけのしきたりがあった。オメガ性をアルファ性製造マシーンとでも思っているかのような、時代錯誤のくだらない伝統だ。
「しょうもなくはないやろ、ええ名前やん」
狂児の慰めみたいな言葉をくれる。そんな言葉がほしいわけではなかった聡実は、更に言葉を紡いだ。
「ウチは、オメガがでる家系なんです。それで僕は、自分がオメガかもしれんって、小さい頃からずっと思っとって、」
「何かされたん?」
瞬間、L字ソファの聡実が座っている方のシートに腰をずらして、狂児がずいと距離を詰めてくる。
「え?」
至近距離で問いかけられて、聡実は思わず後ずさる。
「狂児さんに言うてみ。誰に、何されたん?」
「しょ、小学校の頃、平次くん言うバリ足速い子がおったんですよ」
にこりともせずに質問してくる狂児に圧倒されるようにして、聡実はこたえた。
「僕は長距離はいけるけど短距離はアカンかったから、リレーで走る順は平次くんの後やったんです。ほら、大差がつかんように、速い、遅い、速い、遅いって配置されるでしょう? あれ、ホンマに嫌やなかったですか?」
少しおどけてみても、狂児からの反応はない。言葉なくただ真っ黒な瞳で見つめてくる様は誤魔化しや嘘を許さない厳しさがあり、聡実の気持ちは焦るばかりだった。
「それで、平次くんはホンマに足速くて。赤組と白組のバトンはほとんど同時やったのに、ぐんぐんスピードあげて、どんどん白組を引き離して」
瞼を閉じれば、今でも思い出す。対抗チームを引き離し、トラック半周時点でほぼ独走。影さえ踏ませない平次くんの走りを見て、小学生だった聡実は恐怖した。ここでバトンを落としたら、社会的に終わる。そんな焦りで有り得ないほど心臓が騒いで、手のひらにじんわりと汗が浮かんだ。聡実の胸中などしるよしもない平次くんは、最終コーナーへすべるように走り込み、バトンパスの為に助走をつけようとした聡実に向かって『岡!』と叫んだのだ。大声への驚きに足を竦ませる間に、聡実の前まで駆けてきて平次くんはその場でピタリと足を止めて。そして。
「急がんでええよ、てバトン手渡してきたんです」
飴か何かを手渡す時のように、手のひらに優しく置かれたバトン。落とさないよう配慮されたそれに呆気にとられてしまった聡実だが、ハッと我に返って走り出したのだった。
「か、」
聡実の話しを聞いていた狂児が低い声をおとす。
「っっっこええなぁ~! 少女漫画みたいや」
もったいぶるように数拍間を置いた後、狂児が興奮した様子で言った。普段通りの陽気な雰囲気の彼をみて、聡実は内心安堵する。
「お母さん達もそう言うてました。僕的には、普通に渡せやぼけ、って感じでしたけど」
「聡実くん真面目やしなぁ」
いつも通りの軽い掛け合いを交えながら、話しをつづける。
「平次くんはおとんがアルファやったから、平次くんもそうやろって言われてん。そんなら、こんなされる僕はオメガかもしれんなぁって」
声量が尻すぼみになっていく。
聡実はかなりはやい段階で、自分はオメガ性だろうと思っていた。それは第二性別の知識を得た時からの直感で、根拠もないのに深く絶望した夜もあったし、根拠がないのだからと楽観した朝もあった。おおいに悩んだ日々を経て、聡実はひらきなおったのだ。オメガ性として前向きに生きていこう、と。
そうして聡実が選んだのが、合唱のソプラノパートだった。
赤ん坊を前にすると、思わず声を高くして喋ってしまうことがある。これは聴覚機能が未熟な赤ん坊の興味をひくためのマザリーズという行為で、女性やオメガ性が特に多くもつ特徴だ。その為か、男性オメガ性の声変わり率は低い。つまり、声楽における男体性のソプラノパートはオメガ性の独壇場と言えた。自分の性別を受け入れた聡実は、オメガ性として生き残れる部門を
選んだのだ。
「でも……」
そこから先は、言葉がつづかない。
ある日突然訪れた、声変わり。少しずつ掠れてきた声に、聡実は戸惑いながらも、結局は歓喜していた。オメガ性だと早合点して、悩んでいたのが馬鹿ばかしい。自分は、アルファ性かベータ性だったのだ! そんな思いがあったからこそ、ソプラノパートを諦められそうだったのに。
「結局オメガやて。しょうもな」
吐き捨てるようにつぶやく。ソプラノも失って、検査結果もオメガ性。まったく、やっていられなかった。
「……なぁ、聡実くん」
幾拍かの沈黙の後、狂児が口を開く。
「捨てんねやったら、俺がもろてええ?」
卓上に置いた検査結果のプリントをひらりと掲げて、そう尋ねてくる。こんなものをもらってどうするつもりなのか、聡実は訝しげに彼を窺った。狂児はいつもの通り飄々と、つくりものみたいな笑顔を浮かべている。
「なぁ、ええやろ?」
更に強請られて、聡実は考える。もう、知られてしまったのだ。今更あの紙切れ一枚を惜しんだところで、なにも変わらない。そもそも、狂児はヤクザ者だが、聡実のそれをみみっちく利用して悪事を働くとは到底思えない。その程度には、聡実は狂児を信用してしまっていた。
「悪用せんのやったら、別にええけど……」
「おおきに」
嬉しそうな声で礼を言った狂児は、検査結果のプリントにちゅ、と口づけをひとつ落とした後、折り目に沿って小さく折りたたむと胸ポケットへ仕舞い込む。
……へんなやつ。
そんなことを呑気に思いながら、聡実はフードメニューを引き寄せて、チャーハン食べたいと狂児にねだったのだった。