病も薬もお前から『潔くん。冴ちゃんのことよろしくね!』
アパートの廊下に木霊したピロンという着信音。
このフロアにある唯一の扉の前で佇んでいた潔世一は、慌てて尻ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを手に取った。部屋の中にいる人物に気づかれたかと一瞬肝を冷やしたものだったが、防音設備の行き届いたこのアパートにおいてその心配は無用。
潔は乱れてしまった呼吸を整えながら『了解です』と短く返信した。
──さて、これでもう逃げることはできないぞ。
この部屋の前に着いてから既に15分。「はぁー」と零れたため息はウン十回。幾度となく帰路につきかけた身体は折り重なった心労ですっかり萎びてしまっている。
潔は目の前に鎮座する漆黒の扉に向かって、「帰りてぇ…」と“らしくない”泣き言を吐いた。
『冴ちゃんの様子を見てきてほしい』
オフシーズンに突入し、ドイツの自宅リビングで束の間の休息を味わっていた潔世一は、昨日課されたばかりのミッションを遂行するため、ここマドリードの地を訪れていた。
潔に連絡を寄越したのはジローラン・ダバディという男。彼は長きに渡って複数のプロアスリートのマネージャーを務めてきたベテラン中のベテランだ。通常ならば担当する選手の身の回りの世話、ましてや『様子を見てきてほしい』などという曖昧な業務を他人に押しつけるような真似は絶対にしない男なのである。通常ならば。
ではなぜ彼が潔に対してそんな連絡をしてきたのかというと、答えは単純明快。彼の担当する選手、レ・アールの糸師冴が潔の恋人だからだ。
ジローランに詳細を尋ねたところ、どういうわけか、かの恋人は「体が重い」と言ってここ3日間の仕事を全てキャンセルして自宅療養しているらしい。
潔はスマホ片手に首を捻った。だって糸師冴はプロだ。常日頃から体調管理を怠ることはなかったし、少しでも己の身体の異変を感じればすぐにその道のエキスパートを頼るはず。
それに彼は外仕事に対して嫌悪感を抱いているとはいえ、一度引き受けた仕事をドタキャンするような人間ではない。高校を卒業したばかりの潔にスポンサーとメディアの有用性を懇切丁寧に説いてくれたのは糸師冴ご本人なのだから。
ジローランは潔が抱いた疑問と全く同じことを思ったのだという。優秀な彼のことだから、きっとこちらに連絡を寄越す前にも冴に対してあらゆる手を尽くしてくれたはずだ。でも結果は振るわなかった、というよりむしろ悪化しているのかもしれない。
『こんな出来事は初めてだ』と嘆き節のジローランに、潔は「そうですか…」と小さく返すことしかできなかった。少し前までの自分なら「俺がなんとかします」と意気込んでいたのだろうが…今は全く気乗りしないし、ぶっちゃけ顔すら見たくない。
なんてったって件の恋人とは絶賛大喧嘩中なのだ。1ヶ月経った現在も音信不通だし、ともすればあっちはもう俺のことを恋人とすら思っていないかもしれない。
過去の修羅場を思い起こしてふつふつと怒りが再燃してきた潔は、どうにか理由をつけてジローランの頼みを躱せないかと頭を回してみた。が、隠しきれない疲労を滲ませた声で「潔くん。申し訳ないんだけど…」と懇願されてしまえば、潔に為す術はない。それに「冴とは喧嘩中なんで!」と明け透けな断り文句を投げつけられるほど肝は据わっていないし、もうそんな子どもじみた言い回しができるような年齢でもないのだ。
潔はプロとしての在り方を教えてくれた男に心の中で恨み節を垂れながら、「わかりました」と渋々首を縦に振ったのだった。
「…よし。行くか」
頬を両手で叩き、ようやく覚悟を決めた潔はしばらく使う予定のなかった合鍵を使ってゆっくりと錠を回した。
なるべく音を立てないよう入り込んだ部屋の中はしっかりと空調が効いていて潔はホッと胸をなでおろす。熱中症でぶっ倒れていたらどうしようかと思ったが、その心配はなさそうだ。
玄関のスペースの端にそっと靴を寄せた潔。忍び足、忍び足と慎重に歩を進める。バスルームの扉を越えたあたりで潔はある違和感を覚えた。現在の時刻は午後2時。いつもならばリビングで試合映像を流しながらiPadに表示されたデータを眺めている時間だ。なのに今は物音一つしない。数メートル先に見えるリビングのドアは開けっ放しの上、部屋の中は真っ暗。本当に人が住んでいるのかと思うほどの静けさだ。
潔はそそくさと寝室に向かって突き進む。体調が悪いのならベッドに転がっているはずだ、と。潔は目当ての扉の前で立ち止まり銀色のドアノブに手をかける。幾度となく己の裸体を曝してきた場所にそっと足を踏み入れた潔は、若干の気まずさを視線に宿して目の前のキングサイズのベッドを見据えた。
こんもりと山を作った掛け布団。一歩歩み寄ろうとした潔がぎっと床板を鳴らした瞬間、真っ白な布が勢いよく宙を舞った。
お、よかった。生きてる。
両膝をついてこちらを射抜く鋭い眼光。侵入者だと思ったのかベッド脇に置いてある護身用のナイフに手がかかっている。すっかり臨戦態勢の恋人の姿を見て、潔は安堵の息を洩らした。
「勝手に入ってごめん。とりあえず、ナイフ置いてくんね?」
「っ!!……お前…何しに来た」
視線がかち合って、切れ長の瞳を見開いた糸師冴はナイフを手放しながらそう問うてきた。廊下の照明に照らされた美しい顔は常よりも青白く、眇められた目の下にはくっきりと茶色いクマが浮かんでいる。それに頬も心做しか痩けているような…総じて、現役のフットボーラーとは思えぬほど不健康な出で立ちであることは間違いない。
「体調崩してんだって?」
開け放ったドアの前から一歩も動くことなく問いかけた潔。だが冴は「お前には関係ない」と言って、再び布団を被り直してしまった。潔は無意識に眉を寄せる。
遥々ドイツからやってきたというのに。そんな見返りを求めるような愚痴が浮かんでしまうほど荒んでしまった心に、潔は無理やり蓋をした。冴の無事は確認できたものの、ジローランが最も気にしていた現在の病状については何一つ情報を得ていなかったからだ。
それに、この部屋の惨状も潔は見過ごすことができなかった。ベッド下に脱ぎ散らかしたジャージ、口の開いた鞄から飛び出した使用済みのタオル、淀んだ部屋の空気はここ数日換気すらしていないのだろう。綺麗好き(潔癖寄り)であるこの男が【清潔】を投げ出して不調を訴えているこの状況に、潔は得も言われぬ危機感を覚えた。
…よほど症状が酷いのだろうか。不安は募るばかりであるが、布団にくるまってしまったその顔色を窺うことはできない。かと言ってそばに行くこともしたくなかった潔は一言も発することなく、その辺に落ちていた衣類を拾って寝室を出た。
「おいおい…マジかよ」
勝手知ったるなんとやらで洗濯機を回し、リビングを訪れた潔は、キッチンに放置されていたゼリー飲料の残骸を見て表情を曇らせた。ゴミ箱はキッチンのすぐ隣に置いてあるというのに、それすらも面倒だったのだろうか。…つうかこの感じ。アイツ、この3日間ゼリー飲料しか口にしてないな。あの草臥れた顔面を見るに、おそらく風呂にも入ってないはず。
潔は一度天を仰いだあと、お得意の世話焼きスイッチを自らオンにした。そして、今にも人間を卒業しそうな男を“糸師冴”に戻すため、せっせと手を動かすことにしたのである。
「もっとお前のことが知りたい」
俺と糸師冴との関係は、そんなどストレートな口説き文句から始まった。…まぁ口説き文句といっても、あくまで【フットボーラーとして】だけど。
「ドイツに飽きたらレ・アールに来い」
「俺のパスを受ける資格がお前にはある」
U20W杯の祝勝会で終始潔の隣を陣取っていた男は怜悧な顔面を崩すことなく、甘美な言葉を囁いた。これまでの冷えきった言動が嘘のようにペラペラと口を動かすその姿に戸惑いながらも悪い気はしなかった潔は、話の流れのまま冴と連絡先を交換したのである。
冴のことを勝手に筆不精だと決めつけていた潔であったが、今思えば渡欧したばかりの頃、最もメッセージのやり取りをしていたのは他ならぬ冴であった。スランプとも言えない微かな不調の相談から、海外生活における不安の吐露まで。サッカーを介してのみ行われていたやり取りに、プライベートの話題を差し込むようになってからは、それまで以上に連絡を取り合うようになり冴との距離は一気に縮まったように思う。
僅かに与えられた余暇が合えば、迷わず己の時間を差し出すくらいには好意を持っていたし、俺たちは互いに相手のことを信頼していた。
そんな関係を1年近く続けたある日のこと。
歯に衣着せぬ物言いが常だったあの糸師冴から「お前のことが、好き、かもしれねぇ」と告げられたのだ。ミュンヘンの中心街に位置するオープンテラス。初夏の陽光を淡く反射させた小豆色の髪、気まずそうにそらされた双眸。潔はニッコリと微笑んで「たぶん俺も」と返した。
こうしてぬるりとスタートした冴との交際は思いの外順調で、もうすぐ5年が経とうとしていた。なんとなくキリがいいということで無事に記念日を迎えた暁には、冴があっと驚くようなサプライズプレゼントでも用意するかと意気込んでいたのだが…現状はご覧の通り、大喧嘩の真っ最中である。
喧嘩のきっかけは、冴の熱愛報道がネットニュースに載ったこと。とはいえ証拠となる写真も掲載されていない薄っぺらなゴシップ記事であったため、世間の話題に上ることなく噂は収束していった。
冴の熱愛報道なんてこれまで何度も目にしているし、最近では『まーた話題作りに使われてる』と一種の慣れすら感じていた。…はずだったのに、なぜか今回に限ってスルーすることができず、潔のモヤついた心はいつまで経っても晴れることはなかったのだ。
冴の熱愛相手は今回も当然のように綺麗な女性だった。それに付随するように掲げられた【美男美女のお似合いカップル】【結婚前提のお付き合い】という文言。
潔は冴とともに過ごした5年という歳月を振り返った。俺たちはドラマや映画のような大恋愛をしてきたわけでもないし、胸を焦がすような情熱的な愛の言葉を交わしたこともない。年頃を迎えた知人たちが結婚・出産を経て次々とライフステージを駆け上がっていくなか、ゆらりゆらりと穏やかな波に身を任せて、今日まで平穏な交際を続けてきた。
残酷ではあるが、同性同士の恋愛に『次のステップ』は用意されていない。だからこそ5年という節目を前にして、2人の今後について今一度話し合うべきなのでは?という考えが頭を過ったのかもしれない。
本音を言うなら別れたくはないし、将来の話題を振ることもしたくはない。が、ふと彼の将来を思うなら…と自ら身を引く選択肢が頭に浮かんでしまった以上、どんな形であれ話し合いの場を設けるべきだろうと潔は決心したのだ。
それからしばらく経った逢瀬の日、潔は冴に件の熱愛記事について問いただした。「これ、何?」と。すると冴はこちらを一瞥して「そんなゴミみてぇな記事に時間を費やすな」と言った。まぁそう返してくるだろうなと予想はしていたし、顔を逸らして強制的に会話を終了するのも想定内。以前までの自分ならここで大人しく引き下がっていたと思う。だが、今日の目的は別のところにあるのだ。潔は伏し目がちに手元の小説を眺める恋人に対し、努めて冷静に言葉を重ねた。
「一応さ、冴の恋人として聞いとかなきゃなって思ったんだよ」
「………」
「ほら、【結婚前提のお付き合い】なんて書かれてたから気になっちゃっ」
「マジでくだらねぇな」
その吐き捨てるような言葉尻に潔はひゅっと息を呑む。そして、悔しそうに奥歯を噛み締めた。遠回しに話題を振ろうとしたこっちも悪いかもしれないが、もう少し取り合ってくれてもいいだろうと。しかし、無言の圧を送り続ける潔の視線に気づいているのかいないのか、不機嫌を全面に押し出した横顔はこちらを向こうともしない。潔はこの交際をスタートさせてから初めて、恋人に対する苛立ちを覚えた。
「なぁ、その態度はちょっと不誠実すぎると思うけど」
「………」
「恋人を安心させてやろうとか思わないわけ?」
今すべき質問はこれじゃないとわかってはいても、一度回り始めた口は簡単には止まってくれなくて
「冴って俺のこと好きなんだよな?」
「そういうお前はどうなんだよ」
ぱたん、と本を閉じてこちらを射抜くその視線は、潔と同様明確な苛立ちを滲ませていた。
『ボタンの掛け違いが始まっている』
そう頭ではわかっていたはずなのに。こちらに向けられた冷ややかな眼差しと気だるげなため息が潔の血管をぷつりぷつりと切断していく。
「質問に質問で返すのは卑怯だろ」
「なんだ。答えらんねぇのか?」
「もう…その話は後でいい。俺が言いたかったのは」
「あんな捏造記事ごときに一喜一憂すんじゃねぇ。ったくお前まで俺を疲れさせるなよ」
「………んだよそれ」
ぶ厚い前髪に隠された額にびきりと青筋が浮かんだ瞬間、潔はこれまでの冴の熱愛報道を烈火の如く責め立てた。冴はそんな潔を睨みつけ「器の小せぇ男だな」と煽り倒した。
今思えば、これが俺たちの初めての喧嘩だった。これまで【目玉焼きに醤油かケチャップか】のような些細な争いすらなく平穏に過ごしてきた俺たちは、恋人との正しい喧嘩の方法もその解決法も知ることなく愛を育んできた。それゆえに、一度燃え上がった喧嘩の火種は時間を追うごとにどんどん肥大していき、ついには互いに手をつけることができないほど燃え広がってしまったのだ。
──冴って俺のこと好きなんだよな?
──そういうお前はどうなんだよ
相手の質問に対する答えは一択のみ。ただ一言「好きだよ」と言えばよかったのだ。でも、できなかった。
凄まじい罵倒の応酬の末、「出てけ」と見限られた潔は悔し涙を滲ませながら自らの鞄を引ったくる。そして、「お前なんか大っ嫌いだ」と吐き捨てて家を飛び出したのだった。
「飯、食える?」
湯気の立った土鍋と一杯の水を乗せたトレーを持って再び寝室を訪れた潔は、ひょこっと布団から飛び出した小豆色の頭に問いかけた。
「いらねぇ」
間髪入れず返ってきた拒絶の言葉を無視して、潔はベッド脇まで歩を進めた。
「大人しく俺に世話されとけよ。サッカーできなくなってもいいのか?」
「自分のことは自分でなんとかする」
「その骸骨みてぇなツラでよくそんな台詞が吐けたもんだぜ」
潔はぽすんとベッドに腰掛ける。この男が意地を張っているのはわかっているし、恋人の胃袋を掴んでいる自信があった潔はスプーンで粥をかき混ぜてふわりと卵の匂いを立たせた。すると、しばらくして背後からもぞもぞと布団が擦れる音がする。
「…お前、本当に何しに来たんだよ」
体力が落ちているのかその声に覇気はない。でも俺が作ったお粥に興味を示しているのは確かなようだ。背中に感じる弱々しい視線に、潔は胸を締めつけられるような猛烈な母性を覚えた。おそらくこれは冴が俺に対して感じているという庇護欲なのだろう。…ったく大喧嘩の真っ最中だっていうのに、この5年間ですっかりコイツに絆されてしまったようだ。
「さぁ?何しに来たんだろうな」
「…用がないならとっとと帰れ」
ジローランに頼まれたからと可愛げのない真実を述べても良かったのだが、未だ意地を張って止めない男に潔は少しだけ意地悪を言ってみる。
「なに。理由がないと来ちゃいけないわけ」
「…そんなことねぇけど」
その一言を受けて潔はほっと身体を脱力させると、ベッドサイドテーブルにトレーを置いて、振り返った。
「汗かいてるっぽいけど熱あるの?」
「熱は、ある」
「だったらなんで病院行かねぇんだよ」
「…自力で治すからいい」
「自力でって。ドクターに相談は?」
「必要ない」
視線を逸らしてのらりくらりと質問を躱す姿に、潔は双眸を尖らせた。その隙にしれっとトレーに伸びていた腕をがっしりと掴み、問い詰める。
「じゃあ聞くけど、その“病”とやらはいつ頃治る予定なわけ」
「…そのうち」
「ふーん。原因はわかってんのか?」
「………さぁ」
「俺の尊敬する糸師冴は自分の病状も説明できないようなアマチュア野郎じゃねぇはずなんだけど」
恋人としてではなく、フットボーラーの潔世一として問い詰めたのが功を奏したのだろう。冴は「はぁ」と全てを諦めたようなため息をついて、事の真相を語り始めた。
「これは…知恵熱だ」
「知恵熱?」
考えすぎて熱が出るっていう、アレのこと?と問うと、冴は「そうだ」と力なく返してきた。医者にかかることも憚れるような未知の病だったらどうしようかと思っていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。
潔はすとんと肩の力を抜いたあと、冴の発言について思考を巡らせた。知恵熱は本来赤ん坊がかかる病。冴のような大人の知恵熱の場合は、主にストレスが原因で発症することが多いらし、い、け…ど。
そこまで考えが至ったところで、潔は大きな瞳を瞬かせた。
「…もしかして俺との喧嘩が原因、だったり?」
「………」
じとりと睨めつけてくるその視線が、その答えは是だと雄弁に物語っていた。
「…本当に俺のせいなのか?」
「お前が俺のことを「嫌い」なんて言うからだろ」
「う、ごめん。あの時はついカッとなって」
「本心じゃないならいい。俺もムキになって言い過ぎた。ごめん」
その瞬間、心にのしかかっていた重りがすーっと軽くなった気がした。それと同時に冴に対して抱いていた怒りも急速に収まっていく。
「えっと…これは、仲直りしたってことでいいんだよな?」
「そうじゃねぇと困る。これ以上長引いたら全身に蕁麻疹が出ちまうぜ」
「喧嘩で蕁麻疹って。どんな病気だよそれ」
「潔不足」
「ッ………冴ってさ」
結構俺のこと好きだったりする?と聞こうとしたのに、それは叶わなかった。目の前の誰かさんがするりと指を絡ませてきたせいで。
「なぁ潔」
「…何?」
「どうやら俺はお前に首ったけみたいだ」
「くびっ、え?」
目を見開いて絶句する潔に対し、冴は絡ませた指を堪能するようにニギニギと力を込めてくる。
「なんだよ。首ったけの意味知らねぇのか?」
「んなわけねぇだろ!」
「ふっ悪いわるい」
「…もう」
…最初っからそう言ってくれればいいのに。という恨みの言葉を飲み込んで、潔はこれまでずっと溜め込んできた不安を恐る恐る吐露してみた。
「あのさ、俺まだ冴の恋人でいていいんだよな?」
互いに別れたつもりはないにせよ、あの大喧嘩を経て冴の気持ちに変化があったかもしれない。考えたくはないが、今後別々の道を歩む選択肢が消えたわけではないのだ。
冴に握られている手が小刻みに震えだして、潔は心のなかで自嘲した。「なんだ俺、めっちゃ冴のこと好きじゃん」と。
「恋人だからお前はココにいるんじゃねぇのか」
「そうだけど…これから先、はどうなるかわかんない…っていうか…」
歯切れの悪い言動を繰り返す潔を見かねて、冴は流れるような仕草で潔の震える手を掬い取った。
「恋人以上をお望みなら今すぐにでも叶えてやるぞ」
ちゅっと強張った指に口づけられて、潔は言葉を失う。だって、額面通りに受け取っていいなら今の言葉は──
「それっ…本気か?」
「あぁ今決めた。俺はお前にそっぽ向かれたら生きていけねぇみたいだし」
これまでの病人面が嘘のように生気の宿った恋人の表情。陽炎のようなねっとりとした熱を感じる瞳に射抜かれて自然と潔の頬は赤らんだ。
「あのこういう時、なんて言えばいいんだっけ…?」
「答えがYESならなんだっていい」
「えっと、じゃあ。よろしくおねがいします…?」
その瞬間、冴はがばっと勢いよくTシャツを脱いだ。うん、肉体は衰えていないようで何より。
「口約束は好きじゃねぇ。風呂入ったら出かけるぞ」
「…うん。わかった」
この期に及んで「どこに出かけるんだよ」なんて野暮な問いかけはしない。
そうこうしているうちにずかずかとドアに向かって歩いていく広い背中。もしかして昼間からおっぱじめるつもりなのか?と一瞬身構えたけど、どうやら俺の勘違いだったらしい。潔はある一本の指に己の神経が集中するのを感じて、ふにゃっとした笑みを溢した。
「おいそこのニヤつき野郎。さっさと風呂に入るぞ」
「?なんで俺まで入る必要があんの?」
「この状況でてめぇの嫁を抱かねぇやつがいるかよ」
「ッ?!よ、め…てか体調はっ?」
「もう治った」
あっけらかんと完治を宣言した冴は、ずりずりと後ずさる潔の体を横抱きにして意気揚々と寝室のドアをくぐったのだった。
─終─