君の二番目になりたい ライダーとして戦うようになった魅上くんと、伊織くんと。偶然見つけたカオスワールドの扉に三人で入ったまではよかったのだけれど、扉をくぐった先は木々の生い茂る山奥のような場所で、僕たちは早々に魅上くんとはぐれてしまった。
というか、僕が足を滑らせて転がり落ちたのを伊織くんが気付いて助けようとしてくれて、一緒に転がっていった感じだ。ただの足手まといである。僕は扉の外で待機しておくべきだった。申し訳ない。
魅上くんの声は聞こえてこない。気付かずに先に進んでしまったか、運悪く戦闘中か。早く戻るべきなのだろうが――。
「あー……これは、やっちまったかな……」
「断崖絶壁というか、壁走らないと登れない感じだよねこれは。伊織くんでもさすがに無理があるか……魅上くんが来てくれるのを待つしかないね」
本当にごめん。土と葉っぱにまみれた膝を三角座りで抱きしめながら、隣にいる伊織くんに軽く頭を下げた。
「でも、怪我がなくてよかった」
「ありがと。伊織くんが庇ってくれたから」
落下中に咄嗟に変身した彼は、装甲もあって落ちた程度では無傷だ。これがもし僕だったら、落下に驚いて慌ててリングを取り出そうとしてリングも放りだしてしまって大惨事になる未来が見える。
「才悟が気付いて戻ってくるかもしれないし、少しこのままここで待つか。駄目そうだったら迷わないように少しずつ周辺確認かな」
「そうだね。この感じなら少し歩けば川があると思うし、飲み水はなんとかなりそう」
一日以上このカオスワールドから出られなかったりすると、食事の心配が出てくる上、ここを作った人のカオスの完成度も気になるところではあるのだけれど。魅上くんは先行できているのは幸いだ。
立ったまま周囲を見渡していた伊織くんが、変身を解いて座り込む。
「寒くない? 火でも起こす?」
「寒くはないけど……このカオスワールドに動物っているのかな? いるなら動物除けに火があった方がいいかもしれないね」
「わかんないな……。とりあえず、おれの着といていいから」
寒くないと言ったのを聞いていたのかいないのか、伊織くんはジャケットを脱いで僕の肩にかけてくれた。突入時にニットなんか羽織っていたせいで、落下中に枝に引っ掛けて破いてしまったのだ。
「ありがとう。伊織くんは大丈夫?」
「へーきへーき」
僕で暖が取れるかは謎だけど、せめて、彼の方に身を寄せる。伊織くんが少し身じろいで、それから会話が一瞬、途切れる。
「……静かなの、伊織くんひょっとしてあんまり好きじゃない? 何か話をしていようか」
「え、あ、好きじゃないっていうか、うーん……でも話はしたい」
「何の話にする?」
「そうだな……あ、そういえばこの間カフェで婚約者の話になっただろ。レオンさんが珍しく机に激突してきて話途中になっちゃったけどさ」
彼が言うのは二、三日前の話だ。ただの雑談をよく覚えているものだと感心しながら、頷く。
「二年くらい音信不通とかなんとか……? 財閥クラスのでかい家の事情、おれよくわかってないんだけどさ、それで回るもんなの?」
「そうそう。わりとどうとでもなるものなんだよね。ていうか実は僕も何年か引きこもってて」
「え、なんで? って、訊いても大丈夫なやつ? いじめとか……」
「ああ、ぜんぜん。僕が情けなかっただけの話だから」
婚約者の話になると、やっぱりどうしてもそういう話になってしまう。レオンがあの日わざとらしく転んで、運んできた飲み物をテーブルにぶちまけたのは、僕を守ろうとしてだったんだろう。
「あんまりおもしろい話じゃないかもだけど、いい?」
「おれには話せる過去がほとんど無いからな。たまにはきみの話も聞かせて」
とはいえ、今さら話をしたくらいで気分が落ち込んだりはしない。レオンはちょっと僕に対して過保護なのだと思う。
「僕の婚約者は、五つ年上だったんだけどね」
伊織くんの上着の襟に頬を傾けながら、話し始める。
本当はその人の兄と婚約する話もあがっていたのだけれど、さすがにそれは、と父が止めた――らしい。僕はこれで一人娘だったし、なにより、兄の方は僕からすれば十五も歳が離れているのだ。
それで婚約が正式に成立したのは僕が十歳のころで、相手方に顔合わせに連れていかれてもまだいまいち状況がよくわかっていなかった。
大人になったらこの人と家族になるのだ、ということだけは分かっていて、今から仲良くしなきゃと思っていた。
その人は、大人の話を黙って聞いているだけだった僕の手を取って、大人たちに一緒に遊んできてもいいかと訊いてくれた。そうしてその人の部屋に二人で入って、その人の手で、内鍵が掛けられた。
「えっと、それって……監禁とかそういう」
「ううん、終わったら解放してもらえたから」
「終わったら?」
「あー……その、そういうこと、的な」
首を傾げた彼に苦笑して、ベッドに引きずり込まれたんだよ、と続けた。
「あのとき、婚約のこと僕まだよくわかってなくて。自分より五つも年上の人が、自分たちが結んだ約束事はそういうものだって言うから、僕も鵜呑みにしちゃって抵抗しなかったんだよね」
幸いというか、初潮前だった僕はそれ以上の惨事にはならなかった。ゴム無しを試してみたかったとか言っていたから、あちらとしてもその方が都合がよかったんだろうと思う。
僕が顔色ひとつ変えずに世間話のノリで話している横で、伊織くんはどんどん顔色が悪くなっていく。
「じゃあ、引きこもってたっていうのは」
「自分が何されたのかもよく分かってなくて、やっと意味が分かったのが三年後。それから何年か引きこもってたね」
「……ひょっとして、男みたいに振舞ってるのも?」
「レオンがね、外に連れ出してくれたんだ。男の子として」
僕を想ってのことかどうかは、よくわからない。レオンは僕より父の方がきっと大事なのだろうと思う。そりゃあ父の後釜に収まる予定の僕のこともその次くらいには大事に思ってくれているだろうけれど、父がレオンに遺したエージェントに関する業務と比べて等価値と言えるだろうか。それはきっと否だ。
エージェント業は、男性とかかわりを持つことが避けられない。男として生きることでエージェント業を支障なく引き継げるなら、レオンもまた、僕がどう思ったかは二の次で同じ話を提案したことだろう。
結果的に僕はレオンの提案によって閉じこもっていた暗い部屋から抜け出せて、今こうして、ここにいる。
「男が、怖いとか、ないのか?」
「とくには……僕の対応がまずかっただけだし。それに、伊織くんや皆のことは怖いと思ったことないな」
「きみは悪くないだろ」
「いや、僕の落ち度だ」
落ち度など、挙げていけばきりがない。十歳にもなって婚約の概要を知らないのは良くなかった。実際あの年齢差では抵抗はできなかったにしても、言いくるめられた内容そのままを信じ込んで調べもせず、周囲に訊きもしなかったのもまずい。年上の男性にそういう目を向けられた恐怖で言い出せなかった……というならまだしも、恐怖どころか疑いもしなかったのだ。契約の内容を確認しないなんて将来的に家を背負うことになる人間がやっていいことじゃない。
もちろん軽く口止めされてはいたけれど、巷に聞く性被害の話にありがちな、写真や動画を撮られたりはしていなかったし、何かで脅されていたわけでもなかったのだから。
そして三年後、気付いた時に声を上げようとも戦おうともせず、逃げてしまったのもまずかった。
伊織くんから借りた上着がずり落ちそうになって、襟ぐりを掴んで引き寄せる。お日様のにおいがする。
「それにあの人が言ってたことだけど、なんか僕、その気がなくても誘ってるみたいに見えちゃうんだって」
ごくり、と伊織くんの喉が鳴るのが聞こえた。そろそろ飲み水を調達しに行ってもいい頃合いかもしれない。
その気がなくても気があるみたいに見える、というのは何も僕だけの特殊パッシブスキルというわけではなくて、それを武器にしている職業の人だっているし、それこそ伊織くんも誰にでも優しい人だからきっと勘違いする女の子はたくさんいるだろう。平凡な見た目の僕とは違って、伊織くんは見た目もかっこいいから余計にそういう苦労をしてきていそうだ。
「だから勘違いさせたりしないように、こういう格好をしてるって意味合いのが大きいかな。伊織くんにはバレちゃったけど、今後も男の子として接してくれていいからね」
伊織くんにバレた経緯も僕がうっかりしていたからで、本当に僕はどうしようもない人間だ。男友達だと思っていた相手のいる部屋に入ったら女の身体に男友達の顔面がついてて絶賛着替え中だったなんて、よく気味悪がらずに変わらず接してくれていると思う。良い人だな、つくづく実感する。
「ごめん。おれ、そんな事情があったの知らなくて……ひどいこと言った、かも」
伊織くんがへにょ、と俯いた。いつでも元気印の彼に気を遣わせてしまったことが、僕の方の罪悪感もつついてくる。
「ううん、大丈夫。伊織くんが気にすることないよ。僕も変な話聞かせちゃったね、ごめんね」
「その……、上着、嫌か?」
「え? 嬉しいよ、まあ逆に伊織くんが寒くないかなとは思うけど」
「じゃあ、おれとこうしてるのは?」
隣に座る彼の肩が、僕に触れている。伊織くんが少し遠慮がちに、僕の方へ寄りかかってきた。
「平気。男の人がいやになったわけじゃないから。一時期はやけになって死にたくなったりもしたけどね、今はぜんぜん」
「そ、っか……」
軽く話したつもりが、死という言葉は彼の表情をかたくさせるだけだった。今は本当になんでもないのだと、むしろ男としてふるまうことで気兼ねなく彼らのサポートができることが嬉しいのだと、うまいとこ伝えられればいいのだけれど。
「使命を終えたら家のことがあるし、そのときはちゃんと改めて誰かをそういう対象として見なきゃいけないのはわかってるし。そうするつもりだよ」
だから今は、軽々しく命を絶とうという気は起きない。僕の立場は、そういうものだから。
「まあ……でもこういう状況だし、いつ何が起こるか分からないから。いざってときは死ぬ覚悟だって――」
話の流れで口をついて出たその言葉に、自分でふと、気付いてしまう。
……死ぬ覚悟がある、んじゃない。
きっと心のどこか片隅で、一点にだけ染みついた死へのあこがれはまだ、消えていなくて。
結局のところ、死んでも許される場所で、死にたいんだろう。僕は。
無責任な死を誰にも非難されず、逃げが逃げとして扱われない、人のため使命のための死という形で。
誰かを愛することから、逃げたいんだ。
気付いてしまった。そしてそれを、自分の言葉に動揺してしまったその一瞬を、おそらく――目の前の彼にも、悟られた。
伊織くんが、僕の肩を掴む。
「きみは、死にたいって今も……思ってる?」
あの日僕の上にのし掛かってきた男の、大きな手を思い出す。
……ああ、ぜんぜん違うな。高い体温も、かたい指先も、真っ直ぐに僕を見つめる瞳の真剣さも。
この人なら。
僕の最初のひとりが、そして最後のひとりが、この人だったら、よかったのに。
「今は、ね」
木々に隠れて日差しなんか届かない崖下で、その眩しさに目を細める。
「伊織くんならよかったのにって、思ってる」
息が触れる距離に、伊織くんの顔が近付いてきて――そのまま、瞼を閉じた。
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「なあ、おれが立候補するって言ったらどうする?」
立ち上がってぐっと伸びをした伊織くんが、僕を振り返らずにそんなことを口にした。
「え? ええと」
「きみの……パートナーに」
パートナー。この状況で、さすがに戦友とか相棒とか、そういう意味で使われているんじゃないことくらいは分かる。
あんなことをしてしまったけれど、伊織くんと僕の関係はライダーとエージェント。家族でもなければ恋仲でもなく、上下関係もない――企業でいうところの現場勤務者と庶務担当みたいなものだ。伊織くんの中での僕が仲間とか、友達とか、そのあたりに位置付けられていれば嬉しいな、というくらいの。
「でも僕ペット枠なんでしょ?」
「あ、地味に根に持ってんな」
「一家に一台ね、一匹ですらないやつ」
「悪かったって」
そのままストレッチを始めた伊織くんを見上げながら、僕は掛けられていた彼の上着を羽織り直した。
正直なところ、ペットも悪くなさそうではある。伊織くんが、僕のご主人様になる……うわあ、これはちょっと想像しちゃだめなやつかも。考えなかったことにしよう。
「うん……そうだね。逆の立場ならよかったなとは思う、かな」
「逆って?」
「伊織くんが財閥の後継者で、僕が伊織くんに嫁ぎに行くの」
僕の言葉に、伊織くんが不思議そうにこちらを向いた。
「変わらないだろ?」
「いや、僕は二号さんくらいがちょうどいいかなって」
……僕はきっと、僕自身のことを気持ち悪いと思っているんだろう。
だから、そんな女を彼が一番の特等席に座らせようとするのは許せなくて、でもなにもかもを手放して彼のものになるという甘い夢が頭から離れない。
僕の希望だけを言うなら、できれば、君の二番目になりたい、が最適解なのだと思う。
「なんだよそれ」
彼が唇を尖らせて、あからさまに拗ねた表情をした。
「けっこう贅沢言ってる方だと思うけど」
「二号さんってやつが? 嘘だろ?」
信じられない、という顔で目を見開いて、それから呆れたように肩をすくめる。伊織くんの反応はいつも裏表がなくて分かりやすい。
おひさまみたいなひとだ、と思う。
どんな困難を前にしても立ち止まることなく、諦めることもなく、ただまっすぐに光のもとを生きている。ありふれた不幸でありふれた挫折を味わって、テンプレのような希死念慮を抱いている僕なんかと違って。
分からないだろうな。こんな、何もかも完璧なかっこいい人からすれば、僕みたいなだめなやつの考えることなんて。
「……泣きたいなら胸くらい貸すし、いくらでも泣かせてやりたいけどさ」
起き上がれずにいた僕に、伊織くんが手を差し伸べる。木々の合間から差し込む光が、彼の背で逆光になった。
「もう、ちゃんと泣けるころをとっくに通り過ぎてんだな」
その手を取ると、強い力でぐっと引き上げられた。よろけた僕は伊織くんに抱き留められて、礼を言う前に抱き締められる。
「もっと早く、会えてたらよかったな」
「だとしたら僕、伊織くんに忘れられちゃうんじゃない?」
「あー」
この人が置かれている状況は、まるで物語のようだ。伊織くんは、みんなは、大きな運命の渦の中心に居る。
「僕は、良かったと思ってる。男の子のふりをしていることも、今の立場も含めてぜんぶ」
「そんなこと」
「君と会えただけで、これまでの良くないこと全部清算できるよ。なんならお釣りがくるくらい」
君にとっての僕なんか、本来その他大勢がいいとこのはずだったんだよ。
今はこの使命が、ほんの少しでもみんなの、君の助けになることが、僕の生きる理由のすべてだ。
どちらからともなく、触れあっていた身体が離れる。それから、お互いの指先が絡んだ。
「歩ける?」
「大丈夫」
「きつかったら背負ってくから、遠慮するなよ」
これがひとつの物語なのだとして、たとえ僕自身になんの役割も与えられていなくとも。
「手を繋いでいてくれれば、それで」
君の理想を叶えるための、奪われてしまった君の幸せを取り戻すための戦いだと思えば。それが、ずるずると生きのびてしまった僕の人生の意味になるのなら。
僕の持っている残りの全て、投げうってしまっても構わない。
そう思う、くらいには、君を。