「この辺りで少し休みましょう」
ぽつぽつと小雨が降る森の中で馬から降りてそう告げれば、聖騎士に抱えられている幼い主君は静かに首を縦に振った。
女王イレニアに王子アレインを託されてから、敵に追いつかれぬようひたすらに馬を走らせていた。しかし城を出てから暴雨の中を一度も休まず、何時間も駆け続けた馬に疲れが見えたので、休息を与えるべきだと判断したのだった。一刻も早く港に着いてパレヴィア島に向かいたい気持ちもあるが、これ以上を求めるのは酷だろう。
抱えていた主君を下ろしてから近くの木に馬を繋ぎ止め、よくやったと首周りを撫でて労われば、誇らしげに鼻を鳴らした。
ふいに腕を遠慮がちに引っ張られる感覚がしてそちらに視線を向ければ、アレインが馬の方を指差していた。
「ジョセフ、僕も撫でていいか?」
「ええ、勿論です」
彼の手が馬に届くようしゃがみ込んでもう一度抱き上げようとしたが、途中で伸ばした腕を引いた。馬の方からアレインに近づき、頭を下げたのだ。
(……賢いと思ってはいたが、これ程とは…)
顔には出さなかったが、この行動にジョセフは内心息を呑んだ。この馬はジョセフが騎士団長に選ばれた折にイレニアから賜ったもので、高貴な血を引き継ぎ丁重に育て上げられた名馬であった。若い頃共に駆け抜けた馬は、昔のジョセフに似て気性が荒く乱暴で、ジョセフ以外の人間を覚えようとすらしてなかったが、やはり名馬ともなると乗り手の主君が誰なのかも瞬時に分かるのだろうか、とぼんやり思った。
「え、えっと…」
「触れるのは初めてですか」
近づいた馬に戸惑ってあたふたしてるアレインに声を掛ければ、こくりと頷いた。
「うん、遠くから見たことはあったけど…。こんなにも大きいんだな」
「思いを込めて優しく接すれば、必ず応えてくれますよ」
緊張で少し震えてる手になるべく優しく触れ、そっと馬の頬へと導き、離す。
「よ、よし、よし…お前がたくさん頑張ってくれたから、僕たちは生きてるんだ……本当にありがとう。よしよし…」
ぎこちなく、恐る恐る動かしていた手は、やがて慈しむような手つきへと変わり、撫でられている馬は気持ち良さげに目を細めた。
(このお方は、こんな状況でも周りを思いやる優しさを持ち合わせておられるのだな)
女王から託されたときもそうだった。逃げなければ死ぬという状況で、自分のことはいいから母の力になってほしいとこちらに頼んできた。親と故郷を失った今も涙一つ流さない彼の聡明さと強さは、尊いものだと思う。
…ただ、たった七歳の子供が不安すら見せない様子に、痛々しさと申し訳なさを覚えてしまうだけで。
「……ジョセフ、どうだった?ちゃんとできてたか?」
撫で終えたアレインに声をかけられ、ハッとして薄暗い考えを振り払う。
「はい。とてもお上手でしたよ」
「本当?よかった!!」
褒められて嬉しそうに満面の笑みを浮かべたアレインの子供らしい姿に、ジョセフは内心で安堵のため息を吐いた。
「…そろそろ私たちも休みましょうか。アレイン殿下も長い時間馬の上で揺られてお疲れでしょう」
立ち上がって馬から少し離れた木の下へと誘導すれば、アレインは大人しく木に寄りかかった。
「肌寒いでしょうからこちらもお使いください」
雨除けに羽織っていた外套を脱ぐ。外套、といってもただの布なのだが、無いよりはましだろう。そう思ってアレインに羽織らせようとしたが、何故か困惑したような表情を浮かべられた。
「殿下?如何されましたか」
「…一緒に入ればいいじゃないかと思って。ジョセフの方こそ疲れてるんじゃないか?」
「お心遣いは有り難いですが、私は殿下をお守りする身です。これしきで疲れなどいたしませんので、ご安心を」
「……でも、寒いだろ。一緒にいた方が、暖かいし…」
「鎧は冷えてる上に硬くて、心休まらないでしょう。駆け続けたお陰で追っ手から離れているだろうとはいえ、海を越えるまでは安心できないので脱ぐわけにはいきません。ともかく、ご心配には及びませんし、目の届くところにおりますので」
「や、やだっ、駄目だ!」
離れようと歩きかけたが、アレインに全力で抱きつかれて足が止まる。とはいえ所詮は子供の力。やろうと思えばすぐにでも離れられたが、縋るように回された子供の腕を振り解く真似は、できなかった。
「……殿下、一体これは…」
「いや…いやだ…。冷たくても、硬くても、ジョセフが隣にいてくれる方がずっといい…。……一人は、いやだ…」
急に幼い駄々っ子のようになり、震えて泣きそうな声を聞いて、思わず力強く抱きしめる。彼は、アレインは、自分が考えていたよりも更にぎりぎりのところで、只管耐えていたのだ。
城を出てからのアレインは一度も泣かなかった。声を上げたら敵に見つかるからと、迷惑がかかるからと、恐らくそう考えて、母が自分のために死にに行った悲しみを抑え込んでいたのだろう。
泣くか泣かないかで訊かれたら、当然泣かない方が主君を抱えながら逃げる騎士としては助かる。それでも、そんなことを気にせず泣いたって咎めなどしなかった。寧ろ、泣いてほしかった。たった七歳の子供なのだから、周りのことなど考えなくてもよかったのに。
「……承知致しました。では、お隣に失礼しても宜しいでしょうか」
「!う、うん……。でも、本当にいいのか?迷惑じゃない?」
「そんなこと、ある筈がございません。殿下から信頼され、頼まれるのは、騎士にとって…いえ、私にとって無上の喜びです」
外套の中へと迎え入れて二人で木に寄りかかれば、アレインは嬉しそうにくすくすと笑った。
「鎧、痛くはありませんか?」
「全然!」
城から飛び出した時の暴雨と比べれば随分止んできたとはいえ、雨が降り曇天で光も見えぬ中でのアレインの無邪気な笑顔は、聖騎士には眩しく映った。
泣いてもいいのだと、その歳で悲しみを、傷を堪える必要などないのだと伝えたかった。ただこの話をしても、僕は大丈夫だからと躱すような笑みを返されるだけのような気がした。今すべきなのは、堪えていることへの、彼の努力への否定ではないのだろう。
「…殿下、もう少しです。もう少しで、島に着きますから。……それまでの、辛抱です」
必死に抑える行為を受け入れるのは、正直に言えばあまり心地いいものではない。本当はその悲しみごと肯定して、それでも前に進もうと言いたかったが、それを言えるのはもう少し先の、島に着いてからの話なのだろう。
「……分かった」
主君の肩に手を置き、そっとこちらに寄りかからせれば、赤い瞳が安心したように閉じた。
突如として城を襲った暗雲はいずれコルニア全土を覆うだろう。いつか光が差すのか、この傷が報われる日は来るのか、それすらこの闇の中では分からない。
それでも、己に寄りかかる小さな灯りが押し潰されぬようにと、ジョセフは主君の肩に添えた手に力を込めた。