悪食 しゃらり。不意に輝きが網膜を焼く。わたしを呼ぶ、レディー・キラーな甘ったれた声。視線を向けた先、まばゆいネオンライトに照らされたターコイズブルーに深みがかかって見えて、鮮やかな色彩が途端に怪しげな雰囲気をまとっていた。
「ね、小エビちゃん……オレと一緒にイケナイコトしよっかぁ……♡」
◇◇◇
わたしの人生の半分は不運でできている。
一番の不運はこの奇妙なツイステッドワンダーランドとかいう場所に飛ばされたこと。次の不運は魔法という不思議パワーが当たり前のように生活のそばにあって、けれどわたしにはその不思議パワーはなかったこと。不運は続いて、なぜかトラブルに巻き込まれやすい体質だったこと。なのに、わたし自身は秀でたところはなく、むしろ少し要領が悪いと言われるくらいだった。
学生のときはその要領の悪さもちょっとした愛らしさとして許されていたけれど、社会人という責任を負わされた立場ではバカにされる要因にしかならない。
今日も今日とて、その要領の悪さのせいで残業——のはずだったのだが。
独特の喧騒が鼓膜を揺らす中、手元のグラスの縁を濡らすように口をつける。たっぷり入った氷のせいでほとんど水のようになったレモンサワーを喉に流し込んでこっそりとため息をひとつ。
横には楽しげに談笑している同僚。その目元はギラついて見えるほどシャドウは濃く、アイラインはキリッと跳ね上がっていた。くっきりとした目元が狙うのはその隣に座った男だろう。わたしには関係ないが、と目の前の大皿から残っている揚げ物をひとつ攫う。すっかり冷めてしまったそれはお世辞にも美味しいとはいえず、薄いレモンサワーで流し込む。せめて料理がおいしければいいのに。どうしてか飲み会の料理の味は軽んじられる傾向にある気がする。
いわゆる、人数合わせとか引き立て役、とかそういった要因として呼ばれたのだろう。気合いが入っている他の女性陣とは違って、わたしはロクな準備もしていない貧相な姿だ。高級な牛肉の隣に置かれた安売りの鶏肉なんて誰も見向きはしない。それでも最初は義理で話しかけられていたのだが、あまりこういう場に慣れていないわたしにはうまい返しも思いつかず男性たちの視線はすぐに別の女性へと移っていた。
——はぁ、帰りたい。こんな無駄な時間を過ごすくらいなら中途半端に残してきた仕事でも片付けていた方がマシだ。
帰りたいが、盛り上がる空気を遮ってまで帰るとは切り出せず誤魔化すようにしてお手洗いへと立つ。店員さんに案内された道を進んで、ひとがやっとすれ違えるくらいしかない廊下の奥へ——どうやら先客がいるようだと狭い廊下の壁に背を預けて大人しく待つことにした。
個室の外の洗面台にいるのだろうか。蛇口からの水流が止まって、備え付けのペーパーナプキンを取る音。そっと壁から背を離して顔を上げたところで——おや、とそこから出てきた人物に視線を奪われる。そのおとこは見上げるほど上背のあって、髪も珍しい鮮やかなターコイズブルーだった。そのひとみは不思議な色をしていて、ゆるやかに垂れたまなじりは一見優しげにも見える。
けれど、わたしは知っている。このおとこがタダで優しさを振りまくようなタイプではないことを。それくらいあまりにも見覚えのありすぎる色彩だった。
——本当にツいてない。静かに己の不運を嘆く。
反射的に俯いて、なにもない壁の方を向いた。ゴッ、ゴッ、と重たい革靴の音がすぐそばでして、段々と遠ざかっていく。
ホッと肩を撫で下ろした瞬間。まるで巻き戻しでもしているみたいに離れた靴音が近づいてきて、肩になにかが触れる。大袈裟なほどに身体が跳ねると「エビみてぇだね」と甘い声。ギギ、と鈍い動きで振り返ると頬に尖ったものがぶすりと突き刺さる。どうやら丁寧に整えられた爪がめり込んでいるようだった。
「アハッ。やっぱり小エビちゃんじゃん」
「ふ、ろいど先輩……」
「随分ときたね……んや、ボロ雑巾みてえになっちゃってるから一瞬わかんなかったわ」
「言い直した意味ありました?」
「見た目はアレだけど中身は割と小エビのまんまだねぇ」
半目になりながら見上げた先、懐かしのフロイド先輩はのんびりとそんなことを言っていた。大人になった先輩はさらに身長が伸びたようで見上げた首が痛いくらいだった。
それにしても。耳にかけるようにセットされた髪型はもちろん、服もバッチリ決まっていて、こんな安っぽい大衆居酒屋にはいささか不釣り合いに思えた。先輩も合コンだろうか、かがめられて近づいた顔からはほんのりとアルコールの匂いがする。
「あの、離してもらっても?」
「んー……」
そのまま頬を鷲掴みにされて鼻先が触れそうになるほど互いの顔が近づいた。傍目から見たらイチャついているようにも見えそうな危うい体勢。ドキドキした。それはもちろん異性へのトキメキという意味の動悸ではなく、どちらかというと恐怖の方面であったけれど。
「なんか小エビちゃん、やつれた……つーか、やさぐれた?」
「ひ、ひどい言われよう……」
「だってさぁ……服がヒンソーなのもあるけど、雰囲気が手負いの獣みたいなんだもん」
「これわたし怒ってもいいやつですか?」
「ほら、それ」
「……?」
「前だったらそんなワンクッション置かずにすぐ噛みついてきてたじゃん。もっとバカみてーにぴょんぴょん跳ねて怒ってさぁ。トド先輩とかウミウシ先輩にも平気で絡んで図太かったじゃん」
そりゃ学生時代と比べればそうなるだろう。あのときのわたしは世の中のことなんてまったく知ろうともしないで無鉄砲に生きていただけだった。すぐに元の世界に戻れると考えて、監督生という立場に甘えていただけ。わたしがあんな風に振る舞えていたのは、無知が故と存外まわりのひとたちが優しく恵まれていたからだろう。
社会に放り出されて叩きのめされたわたしはようやく夢から目が覚めたのだ。
「……わたしだっていつまでも子どもじゃないので」
惨めったらしく吐き捨てた言葉はいかにも子どもっぽくて嫌になる。けれど、わたしを見つめるフロイド先輩はバカにしたように笑うこともなく。ただ真剣な眼差しで見下ろしていた。
「小エビちゃん、どこで飲んでんの?」
「えっ……、あっちの、半個室で、」
「そう」
頬から手が離れて、先輩がくるりと背中を向ける。なにがなんだかさっぱりわからないけれど、たぶん飽きた……のだろう。元々時間を潰すためにお手洗いに来ただけだ。尿意なんてものは元からなく、変に絡まれたせいかなんだかお手洗いに行く気も失せてしまった。そう思いつつもこの場に止まるのも気まずくてフロイド先輩から逃げるようにそそくさとトイレへと向かう。ただぼんやりと手を洗って、少し乱れた前髪を整えてから個室を出る。
「小エビちゃん」と再び声が。わたしをそんな変な名前で呼ぶのはたったひとりしかいない。フロイド先輩、どうしてまだここに……? とピクリと頬を引き攣らせた。
「さっさと戻るよ」
「ええと、?」
「荷物、席に置いたままなんでしょ。取りに行かねーと」
要領が悪いだとか、察しが悪いだとか。会社で散々言われているわたしでも今のフロイド先輩の言葉の意味くらいはなんとなくわかる。どうやら先輩はわたしを連れてここを抜けるつもりらしい。
こういう飲み会で男女がふたり先に帰る意味なんて、たぶんひとつだろう。
引く手数多そうなフロイド先輩は悪食のようだった。鶏肉がいいとは珍しい。まぁ、高級なものばかりだと胃もたれするし、たまには味変みたいな感覚なのかもしれない。
それにしてもあのフロイド先輩とそんな関係になるなんて、変な感じだ。不思議と嫌悪感がないのは酔いが回っているからだろうかなんて考える。
取り止めのないことを考えているうちに、自分の席に戻ってきたようだ。四方八方から視線が突き刺さるのが居た堪れない。ヒンソーな女がこそこそとトイレに行ったと思ったら大層目立つ男を引き連れて帰ってきたのだからそれはそうだろうけれど。
「小エビちゃんの荷物ってこれぇ?」
「あ、はい」
フロイド先輩はそんな視線なんて慣れっこなのだろう。特に気にした様子はなく、わたしのバッグと上着を腕にかけた。
「金は?」
「まだ、」
「んー、これくらいで足りる?」
「えっ、ちょ、先輩……!?」
先輩は当然のように自分の財布からマドルを出すと机の上に置いた。視線はわたしの隣の席の同僚に向けられている。
彼女は新たな獲物を見つけたと言わんばかりに頷きながら先輩の服に手を伸ばして——
「んじゃ、小エビのこともらってくわ」
「んぐ」
女の手をするりとかわしたフロイド先輩にバサ、と上着が乱雑にかけられる。もたもたと袖を通している間に長い腕が肩に回されてぐいっと引き寄せられる。抱きしめるなんてかわいいものじゃない。チョークスリーパーみたいなものだった。
チラリと見えた同僚たちの視線は筆舌に尽くしがたいほど、厳しいもので。週明けに職場へ行くのがとんでもなく憂鬱になった。
◇◇◇
そうやって半ば拉致されるようにお店を出たわたしはフロイド先輩に連れられるまま。どんどん、ネオンが眩しい繁華街へと向かっていく。
どこへ行くのか、なんて野暮なことは聞けなかった。今度こそ心臓がトキメキに近い意味で鼓動を速める。繋いだ手のひらに汗が滲んでいるような気がした。
ちらりと窺うようにフロイド先輩の横顔を見上げる。繁華街特有の目に痛いくらいのネオンに照らされた肌は不思議と薄青がかって見えた。不健康さとはまた違う、このひとが海を生きる人魚なのだと改めて思い知らされるようだった。学生時代と変わらないピアスが揺れてチラチラと光って、眩しさに目を細める。
「ね、小エビちゃん」
不意に、フロイド先輩が振り返った。異色のひとみがゆるやかにほどけるみたいに細められる。
「オレと一緒にイケナイコトしよっかぁ……♡」
まるでこれからなにをするのかちゃんとわたしにわからせるみたいに先輩はその言葉を口にした。甘く蠱惑的な声だった。心の隙間からじわりと入り込んでくるような、弱く脆いところを突くような慣れた喋り方だ。
学生時代、アコギな商売に手を染めていたときの先輩を思い出す。そのせいか、なんだかわたしまであの頃に戻ったような気分になる。無鉄砲であと先なんて割と考えてない。そんな甘い考えでのうのうと生きていた監督生に。
もう、どうにでもなれと半ばヤケになるようにして先輩の手をぎゅっと握り返す。多分手汗でしっとりしているけれど、いまはどうでもよかった。わたしの頭はこの後するであろうもっと恥ずかしいことでいっぱいで他のことに気を回す余裕はなかったからだ。
言葉はなくともわたしの意思は伝わったのだろう。先輩の足が繁華街からひとつ離れた路地へと明確に向かっていく。途端にまばゆいネオンが遠くなって、薄暗くなる。ひともまばらで、静かだった。
すぐ手近な建物に入ると思いきや、まずはスルー。次の建物も見向きもしなかった。何かこだわりでもあるのだろうか。人魚だし、大きなお風呂がないとヤだみたいな? ……流石に今回はいつもの姿ではなくて、人間のままでしたい所存だ。いきなりアブノーマルなプレイはハードルが高すぎる。でも"イケナイこと"なんて言っていたからそういうアブノーマルなこともするつもりなのかも。
「ん、今日は空いてそう」
と、ようやくフロイドが足を止めた。看板を見るに至って普通のタイプの部屋のようだった。今日は空いてる、ということは普段は大人気なのだろうか? いかにも普通、いやむしろ少し年代物のようにも見える風貌なのだが。中は綺麗なのかも、と一歩近づいたところで。
「小エビちゃん、どこ行くの。そっちじゃなくてこっち」
「えっ」
首根っこを掴まれて、隣の建物の扉の中へ。驚くわたしを迎えたのは熱気と食欲を刺激する油とスープの匂いだった。慣れたように券売機の前に立つ。とりあえず恐る恐る後ろに並びながら、落ち着きなく周囲を見まわした。
店内に飾り気はなく、油で薄茶に色づいた壁と木製のカウンターとテーブル席がいくつかあるだけだ。ある意味趣のある店、という感じ。満席ではないものの、夜遅い時間だというのにそれなりにひとが入っていた。皆、こんもりと盛られたラーメンを美味しそうに啜っている。
……?? 一体どうしてラーメン屋に? ここはホテルに連れ込まれるはずのところでは???
なんて混乱しつつも腹の虫はとっても正直にくぅ、と甘えるように鳴いた。あの飲み会では結局ロクな料理が出てこなかったからほとんど手をつけていなかったせいだ。
「小エビちゃん、どれにする?」
振り返った先輩が券売機にマドルを突っ込んでいる。どうやらこの券売機でラーメンの種類だけでなく、麺の硬さや味の濃さ、トッピングや量の多さをカスタマイズして選べるようだった。どことなく自分の生まれ故郷を想起させる光景に郷愁が胸を掠める。
比例するようにじゅわり、と口内に唾液が滲む。けれど時間が時間だ、と首を振った。なにを考えてこんなラーメン屋に連れてきたのかわからないけれど、なんだか罠にしか思えない。
「その、わたし、いらな、」
「お前に拒否権はねぇの。選べ」
ひとにラーメンを奢るときのセリフと顔ではない。むしろゆすっている方だと言った方が適切な表情で券売機を親指で示している。
「ええと、あの……こういうのよく、わからなくて、普通のやつでいいんですけど」
「んー、そしたらこれかなあ。さっぱりしてるし食べやすいと思うよ」
「じゃあ、それで……」
カウンターで券を渡すと空いていた奥の四人掛けのテーブル席へとフロイド先輩はどかりと腰を下ろす。いまだに状況がうまく理解できないまま、とりあえず対面に座った。
「あっ、あの、お金」
「いらねー」
「でも」
「ボロ雑巾の小エビちゃんから金取る趣味は流石にねぇよ。ん〜……でも、どうしても払いたいって言うなら……」
フロイド先輩の視線がわたしの体をじっとりと舐め回して、数秒。フと鼻で笑われた。言葉はなくとも、なんだか失礼なことを考えていることくらいは伝わってくる。
「マ、とにかくボロ雑巾の小エビちゃんは気にしなくていいよぉ。久しぶりに会えた記念のセンパイからの奢りってことで」
「またボロ雑巾……」
「こんなにクタクタで薄汚れてんの雑巾か小エビちゃんくらいしかいないだろ」
「……」
あんな風に抜け出しておいて、向かう先がラーメン屋。色気がないとかそういう次元の問題ではない。そういえばフロイド先輩、ゴーストへのプロポーズ大作戦のとき『論外!』ってビンタされてたっけ。さっきのバカにしたような反応といい、そう言われるのも納得である。
アルコールのせいなんだか、自惚れた勘違いしてしまった自分への羞恥心からなのか、どうにも火照ったままの身体を冷やすためにお冷やに口をつける。
「んでぇ、小エビちゃんなんであんなとこにいたの?」
「ふつうに、飲み会ってやつですけど」
「飲み会っつーか、あれ合コンでしょ? ならもっとマシな格好すりゃいいのに」
「……どうせ人数合わせですから。先輩こそ…………、」
あんなところでなにを、なんて言いかけて。いや、聞くまでもなかったかと閉口する。きっと先輩もわたしと同じ——いや、置き物だったわたしとは違って誘蛾灯のように女性に群がられていたのだろうから。
「なに?」
「いえ、なんでも」
ちょうど話が途切れたところでラーメンが机の上に並んだ。フロイド先輩はちゃっかり餃子も頼んでいる。もう日付も変わる頃だというのによく食べるものだ。
出されたものに手をつけないとか、残すだとか、そういうのは好きじゃない。だから食べるだけだと自分に言い聞かせて——恐る恐る麺を啜る。
「んっ、おいし……!」
「でしょお? ここ、立地はマジで最悪だけどすげぇうまいんだよね」
レンゲでスープも掬って飲んでみる。少し酸味があってさっぱりとした味はポン酢、だろうか。トッピングのもやしや分厚いチャーシューとの相性もよくて、これだけでご飯と一緒に食べられそうな気分だった。
食べ進めるたびに胃がじんわりと温かくなっていく。あたたかい料理。なんだか久しぶりに食べた気がする。いつもお昼は冷えたお弁当だし、夜も温めるのすら面倒でそのままお惣菜を突いていたりするし。多いと思った麺や具材はいつの間にかすっかりどんぶりの中からなくなっていて、濃い色のスープだけが残っていた。
ふぅ、と満足げな吐息をこぼしつつ顔を上げる——と、頬杖をついてにんまりと笑うフロイド先輩が。やばい。すっかり存在ごと忘れていた。
「いーい食いっぷりじゃん」
けれどフロイド先輩はさして気にした様子もなく、むしろなぜか嬉しそうですらあった。そういえば前におじさんは若い子に食べさせたがると聞いたことがある。もしかすると先輩もその類いなのかもしれない。
「なぁんか失礼なこと考えてね?」
「ははは、そんなまさか。……というか、なんでラーメンなんか」
「だって言ったじゃん——オレと一緒にイケナイことしよ、って」
ラーメンの油のせいか心なしかツヤのあるくちびるがやわく弧を描く。わたしとおなじ、赤い血が通っているのだと思わせるみたいな舌がぺろりとくちびるを舐めた。挑発するみたいな、場にそぐわない、心を拐かすような色香を孕んだ仕草。
暴力的な雰囲気は匂わせる程度に。物騒さはひとみの奥底に沈めて優しげにまなじりを垂れさせる。悪魔みたいなおとこ。
なのに、深夜のラーメンが『イケナイこと』だって。当然のように言ってのけるのに思わず体から力が抜けて、うふ、とへたくそな笑い声をあげる。
ふふ、うふふ、んふふふ。
空っぽになったどんぶりを前にしてひとり笑う女はさぞかし不気味だろう。チラチラと視線が向けられていたのはわかっていたけれど、不思議と気にならなかった。普段なら怯える周囲の視線も今だけは些事に思えるほど晴れやかな心地だった。
まるで臓腑の奥にずしっとのしかかっていたものがなんだかなくなったみたいだった。久しぶりだった。こんなに気分が軽いのは。こんなに笑ったのは。
「こっちの方がずっといいじゃん」
フロイド先輩がからりと笑った。
◇◇◇
それからというものの。不運な人生は相変わらずだったし、わたしの要領の悪さだって急に改善されるわけでもない。会社では終わらない仕事に追われて残業続きだし、うまく断れなくて他のひとの仕事も押し付けられている。
けれど、その中でひとつだけ変わったことがあった。
いつの間にかわたしのスマホに登録されていたフロイド先輩に『イケナイこと』へ誘われるようになったこと。それだけがわたしの冴えない生活の中の明確な変化だった。
深夜のバーガーショップ。生クリームとお砂糖でコーティングされたドーナツ屋。ケチャップの濃いナポリタンが出てくる洋食屋。釜焼きピザがおいしいイタリアン。締めのパフェが売りの夜の喫茶店。先輩の家にお邪魔してたこパをしたこともあった。「小エビちゃん、ガリガリだから少食だと思ってたけど結構イケるじゃん〜」と笑っていたフロイド先輩の気まぐれさは学生のときと変わらなくて。誘ってくるタイミングもまちまちだし、突然なことも多い。
今日もそんな感じでふと、昼休みにスマホを見ると週末と言うこともあってフロイド先輩からメッセージが入っていた。
『オレとイイコトしに行かね?』
先輩らしい誘い文句だ。断る理由もないと、わたしは了承代わりのスタンプを送る。
集合場所として書かれていたのは、あのはじまりの合コン会場——その最寄り駅だ。
終業を告げるチャイムが鳴ったと同時に机の上をさっぱり片付けて、引き止められる前に慌てるようにして職場を飛び出た。仕事はまだ少し残っていたけれど、来週のわたしがなんとかしてくれると意味のない先延ばしをして、近くの商業施設のトイレで軽く身だしなみを整える。先輩からしてみればまだ貧相かもしれないけれど、少なくともボロ雑巾は脱したと思う。リップでくちびるの血色が良くなったおかげで多少マシに見える顔が鏡に映っている。どうせラーメンを食べたら落ちちゃうだろうけれど、こういうのは気分の問題だ。
スマホで調べた電車に飛び乗って待ち合わせ場所へ向かうと、そこにはすでにフロイド先輩がいた。身長が高いおかげで大層目立ってこういうときはありがたい。気怠げな雰囲気をまとった先輩はスマホをいじっていて——ブブ、とわたしのスマホが震えた。画面がパッと明るくなって『まだ?』という通知が。いつからそこにいるのか知らないがもうすでに少し飽きているみたいだ。
「すみません、先輩。お待たせしました……!」
慌てて駆け寄ったわたしを見下ろしたフロイド先輩は何故だかそのまま硬直した。ゆっくりと瞬きをふたつ。それから上から下へ。わたしを見定めている。その仕草は、ホテルに連れ込まれると勘違いしたあの日を思い起こさせた。ちょっとだけ懐かしい。
「……先輩?」
それにしても、あらたまってどうしたのだろう。わたしの顔なんて今さら見飽きているだろうに。
「んーん、なんでもなぁい」
結局、先輩はゆるやかに首を振ってわたしの手を取った。別にそこに甘い意味はない。曰く「小エビちゃん、マジでちっちゃいからすぐどっか行く」とのこと。わたし的にはちゃんと後ろをついて行っているつもりなのだが、大きな先輩には見えていないらしい。まあ、ペットにつけているリード代わりのようなものだろう。
日が長くなってきたこともあって、街並みはまだそこまでギラついてはいない。まばらに看板の照明がついているだけだった。
まるであの日をなぞるように。フロイド先輩に手を繋がれて繁華街を歩く。あの日と違うのは街が眩しくなかったことと、わたしの脳がアルコールにおかされてはいなかったことくらいだった。
ゆっくりと日が暮れて、暗くなり始めてようやくネオンが目立つようになった街あかりに照らされている横顔は錯覚なのか青白く見える。無駄な肉なんてない、引き締まった輪郭。スッと通った鼻筋。相変わらずどこか人外めいた風貌だ。以前であればそれに怯えとほんの少しの羨望の眼差しを向けていたけれど、今ではちょっとだけ親しみすら感じていた。
繁華街から外れて一本、路地へと入る。
どこに行くのかは聞かなかった。聞かずとも分かるからだ。心臓はこれからご馳走にありつける嬉しさで跳ねている。
と、ようやくフロイドが足を止めた。古びてある意味味のある風貌の店構え。ここのラーメン、美味しかったなあ。今日は前と違う味にしてみようかなと一歩近づいたところで。
「小エビちゃん、どこ行くの。そっちじゃなくてこっち」
「えっ」
首根っこを掴まれて、隣の建物の扉の中へ。デジャヴを感じつつも驚くわたしを迎えたのは古ぼけた外観には似つかない、シンプルながらも綺麗な内観だった。カウンターはあるが人はおらず、かわりに壁面にパネルが並んでいる。
「……?」
これは、あれだ。ラーメン屋じゃない。そういう場所だ。引き止めるようにフロイド先輩のシャツの裾をちょいちょいと引っ張った。
「? ……?? …………先輩先輩、間違えてます」
「間違えてねーよ?」
「わたし、小エビです」
「あは♡ んなの分かってるし」
「?? いや、でも……ここ、ほて、」
最後まで言葉にはならなかった。混乱の只中にいるわたしの腰に手が回されて、思わず見上げると腰を丸めたフロイド先輩がすぐそこに。んむ、と詰まったような音が出るくちびるをやわく食まれる感覚。わけもわからないまま、ただ目を丸くするしかなかった。
「…………??」
まつ毛の青色がはっきりと見えるほど。鼻先がすり、と触れ合うほど。くちびるが何度も重なる。触れる体温は不思議と嫌じゃなくて、無抵抗のまま与えられる空気を吸った。花のような甘すぎない香りに鼻腔をくすぐられる。
「ふは、そんなに鈍くて大丈夫?」
あんまりにも無抵抗だったからなのか、フロイド先輩がキスの合間に湿った声で笑う。わたしから移った薄いリップの色が先輩の弧を描いたくちびるを淡く染めていた。
「…………、なんでキス…………」
「ん? 小エビちゃんがかわいい顔してたから」
ダメだった? と言わんばかりのフロイド先輩のくちびるがみたび近づいた。まるでわたしのことをぱくりと食べるみたいに上唇にちゅ、と吸いつかれる。
「それにオレ、ちゃんと誘ったじゃん」
指の腹がじんわりと熱を持ったくちびるをなぞる。伝播するように頬も、耳も熱くなっていく。
「オレとイイコトしに行かね? って」