ア・ソング・フォー・ユー 高台から海へと向かう冷たい風が吹き抜け、思わずジャケットの前を合わせていた。
日中は強い日差しで焼けつくような暑さだったが、あたりが徐々に暗くなると急激に冷え込む。予測できない天候は、地上に降りたことを実感させた。プラントにはない生臭さの混じる潮の香りと高い空。流れゆく雲の隙間からは、半分に欠けた白い月が覗いている。
オーブの首都、オロファトから郊外へ車で三十分程にある海沿いの居住区。夜間も騒々しい繁華街の脇道に逸れると、そこは人気のない暗がりで、しんと静まり返っている。
ディアッカは小さな駐車場に車を止めると薄暗い細道を歩き、突き当りの雑居ビルの前で足を止めた。狭くて煤けた急な階段を降りると、左手に色褪せたポスターやステッカーが幾重にも貼られた黒い扉がある。ぐっと力を入れて扉を押し開ければ、途端に煙草の匂いが全身にまとわり付き、思わず顔をしかめていた。
「よぉ、大尉。久しぶり」
さして広くもない仄暗い店内。その半分を占めるバーカウンターの向こうから、短い顎ひげを整えた強面の男がこちらを見て薄く笑う。
「……相変わらずくせえよ、ここ」
ディアッカはわざとらしく鼻にしわを寄せる。
ぐるりと天井を見上げると、シーリングファンがゆっくりと回ってはいるものの、白いもやが掛かったようだ。褪せた赤銅色の壁側に設えられた黒いソファには、スーツの上着をはだけた男が仰向けで眠り込んでいた。
「そりゃアンタは吸わねぇからな。嫌なら出てっていいんだぜ」
黒い合皮のスツールに腰掛けたディアッカには見向きもせず、男はカウンターに置かれた灰皿から吸い掛けの一本を摘むと深く吸い込んだ。
「ビールでいいだろ? 今日は聞かせるような話もないぜ、大尉殿」
「こっちもそういうつもりで来たわけじゃないさ」
男は「フン」と鼻を鳴らすと、カウンター下から冷えた瓶を取り出した。慣れた手つきで素早く蓋を開け、ディアッカの前に音を立てて置く。
「サンキュ」
ディアッカは、瓶から離れる節くれ立った指を見ていた。
男の左手の薬指には付け根にぐるりと刻まれた入れ墨がある。永遠の愛を捧げる証に刻んだが、一度目の大戦後に帰還すると愛しい妻の姿はなく、心優しいナチュラルの平凡な男の元へ去ったあとだった。いつだったか、元モビルアーマー乗りの男が酔った拍子にそんな不幸な身の上話をした際、「結婚するなら外せる指輪にした方がいいぜ」と真面目な顔で言うものだから、ディアッカは馬鹿みたいに大笑いした。
(俺なら絶対に後悔しない)
ミリアリアと永遠の愛を誓い合えたなら、指輪を外すなど考えられない。身体に刻むのも悪くないとすら思う。
不躾な視線には気づかず、男は煙草を咥えるとカウンター奥にある黒いカーテンの向こう側に消えた。ややあって、酒瓶の並ぶ棚に置かれた小さな四角いスピーカーから気だるいジャズが流れ始める。
感傷的なメロディに深くため息を吐くと、ディアッカは薄いビールを一口飲み込んだ。
コーディネイターで退役軍人の店主に、煙草の匂いが染み付いた窓のない店内。上官である親友が眉間に皺を寄せそうな場所だが、ここで仕入れる話と閉鎖的な空気をディアッカはそこそこ気に入っている。
数年前、アークエンジェルの整備士達に誘われ、飲み歩いた末に偶然辿り着いた店だったが、オーブにもこんな薄汚れた所があるのかと妙に感動し、以来ひとりになりたくなると足を向けていた。
ディアッカはジャケットから携帯端末を取り出し、隣のスツールに放り投げようとして、ふともう一方のポケットを探った。手のひらに乗る小さな箱をカウンターに置くと、またひとつため息を吐く。端末の画面にはなんの新着もない。どうせまた無視を決め込んでいるのだろう。
(まさか今度こそ別れるつもりか? 冗談じゃないぜ)
いつものことだが、余計な一言でミリアリアの機嫌を損ねてしまい、ディアッカは何度目かの破局の危機に酷く落ち込んでいた。
渋るイザークをなんとか口説き、ようやくもぎ取った休暇だった。
オーブに向かう最終便のシャトルに飛び乗ったディアッカは、はやる気持ちのままミリアリアと通信を繋いだ。久しぶりの逢瀬に、始めはミリアリアもうれしそうにディアッカを労い、早く会いたいと笑っていた。そんな彼女の様子に気を良くして、近況がてら最近あった小競り合いを例えに、いかに非戦闘員が前線に赴くことが無謀であるかを述べていると、合間合間に異議を唱えていたミリアリアが気づくと押し黙っていた。
こちらを真っ直ぐに睨みつける様子にまずいと焦りながらも、うっすら涙の滲む大きな瞳がたまらなく綺麗で、「地球の青みたいだ」とぼんやり見惚れてしまい、それが余計に彼女を怒らせてしまった。
「馬鹿ッ」と大きな声でなじられ、通信は一方的に終了。そうして、今朝方ようやく辿り着いた宇宙港には、ディアッカの到着を待ちわびる可愛い恋人の姿はなかったのである。
もうだいぶ前の話になるが、ディアッカは今でもミリアリアがカガリ達と共にキャバリアーで出撃したことを快く思っていない。
あの時は確かに必要なことだったし、それがミリアリアの仕事と解ってはいる。だが、彼女が戦地に向かうと考えると、ユニウスセブンの破砕活動時に生じた不快な胸のざわつきが湧き起こり、どうしても嫌なのだ。
決してミリアリアの意志を軽視しているわけではなく、自国を守りたいという強い想いには敬意も抱いている。凛とした彼女がとても好きだ。
それでも、もし自分の手の届かぬ所でミリアリアに何かあったら、万が一、何者かに銃を向けられたり、オーブが再び攻撃を受け、命を失うようなことがあったらと考えると胸が締め付けられ息が苦しくなる。ナチュラルに銃口を向けていた自分だ。その惨状は想像にたやすい。
ミリアリアはそんなディアッカの不安や心配を頭では理解しているものの、危険な真似をするなというしつこい小言にはうんざりしており、最近は眉間に皺を寄せるばかりで耳を貸そうともしない。ターミナルに所属していた彼女が、戦場にカメラを向けジャーナリストになると言い出した時には大喧嘩になり、さらにその間、運の悪いことに第二次連合・プラント戦争が勃発した為、長いこと音信不通となってしまった。
アークエンジェルクルーには、「ミリアリアにあーだこーだ言ってふられた男」として認識され、彼らと再会した際に向けられたチャンドラの弧を描いた瞳と今にも吹き出しそうな口元、ノイマンの憐れみを含んだ眼差しを思い出す度にディアッカは腹を立てている。
勝ち気な彼女は、お節介で心配性な恋人のお小言をおとなしく聞く性分ではなく、結果、売り言葉に買い言葉で、事態はいつも思った以上に大事となってしまうのだった。
己の失言が招いたにもかかわらず、素直に謝ることも、ふてぶてしくミリアリアの部屋へ向かう気持ちにもなれないまま、あちこちをフラフラして時間を無駄に費やした挙句、ディアッカはいじけるように煤けた店に潜り込んでいた。
仄暗い店内は相変わらず気怠い歌声が流れていた。時折、背後のソファから酔客のいびきが聞こえる。店主はバックヤードに消えたまま戻る気配もない。
(俺は悪くない……はず)
意固地に眉間に皺を寄せ、鳴らない端末の画面を爪の先でコツコツ突いた後、傍に放っていた小さな箱を手に取る。
手のひらに乗る小さな箱は上品な深いブラウンの革張りで、白いリボンが丁寧に掛けられていた。十文字に結ばれたリボンを無造作にほどくと、箱の蓋には金色の文字でブランド名が刻まれている。ミリアリアお気に入りのアクセサリーブランドだ。蓋を開けると、濃い紫の柔らかな台座に一粒石が嵌められた細い指輪が光っていた。
数ヶ月前にオーブに来た際、ミリアリアに付き合わされて入ったその店は、程良く照明が落とされ、まるで博物館のようだった。
最初はさして興味のなかったディアッカも、華美ではないノスタルジックな空間に「へぇ……」と物珍しそうにガラス張りの箱を覗き込む。
『大地を司るハウメアの祈り』
『地中海の宮殿をイメージしたクラシックなデザイン』
『深い森にたゆたう霧を思わせるスモーキーな色合い』
繊細な宝飾品に添えられた詩的な言葉はどうにも落ち着かないが、地球に生きる者だからこその感性や表現は興味深いと思えた。
「綺麗……」
他に客の姿もなく、静かで落ち着いた店内。ミリアリアはガラス張りのケースをひとつひとつ覗き込んではうっとりと眺めている。
彼女の肩越しに値段を見るとそれほど高いものではなく、高給取りでなくともほんの少し頑張れば手に届く類のものだ。
「買ってやろうか?」
ミリアリアが欲しいのであればと声を掛けると、彼女は首を横に振る。
「いいの。欲しいものは自分で買うから。自分へのご褒美だもの」
そう言って、ミリアリアは満足そうに顔を上げ、呆気に取られたディアッカを見て笑った。
ディアッカは人差し指の先に指輪を引っ掛けると、目の前にかざした。
ミリアリアの白く柔らかな肌に馴染むだろうあたたかみのある金色の輪に、透き通った菫色のアメジストが一粒煌めく。
シンプルだが品の良いデザインで、何よりミリアリアの誕生石だというこの石が、自分の瞳の色と同じなのがとても良い。
あの日、ミリアリアが瞳を輝かせて熱心に見つめていた指輪だ。ほしいものは自分で買うと言っていたが、ディアッカはミリアリアを喜ばせたくて、こっそり店に連絡をして取り置いてもらっていた。その際、電話口で指輪の内側にメッセージを刻めると案内され、照れ臭かったがミリアリアと自分のファーストネームのイニシャルに、愛を添える言葉を選んで注文をした。
昔の自分であれば鼻で笑うロマンチックな贈り物だが、ミリアリアが自分だけのものになったような気がしてうれしかった。
「結局、盛り上がってんのはいつも俺だけなのかね」
自分の指には到底嵌まらないほっそりとした指輪を摘んでひとりごちる。贈りたい相手は、音信不通で会うことすらままならない。
『彼女さん、きっと喜ばれますよ』
予約通りに指輪を受け取りに来たディアッカを見つめ、ほんのり目元を赤くした女性スタッフは、小さな箱に綺麗なリボンを掛けてくれた。愛らしい笑顔に薄ら笑いを返して、ディアッカは陰鬱な気分で店を出たのだった。
いくら愛を刻んでも、ミリアリアに届かなければ意味はない。むなしさで卑屈になっている。我ながら酷く女々しい。
いつから自分はこんなに情けない男になったのか。ミリアリアのことになるといつもそうだ。
思えば出逢いも最悪だった。
最悪にしたのはやはり己の失言で、思い返すといつも額の左側がツキンと痛む。
一次大戦後、復隊が叶い落ち着いた頃、ディアッカは自分の身に起きたことをイザークにとつとつと話した。
色恋だけで道を選んだ訳ではないと、ミリアリアのこともそんな目で見られるのは心外で、極力彼女への想いを悟られぬよう言葉を選んだつもりだったが、「そんなに愛しているのか」とイザークの口から愛という言葉が飛び出し、ディアッカは顔から火が噴くのを体感した。
ディアッカの一世一代の恋にイザークはいたく感動して、アイスブルーの瞳を微かに滲ませ何度も勝手に頷いていた。
以来、隠すのも馬鹿馬鹿しく、イザークにはミリアリアへの想いを包み隠さず話すようにしている。
最悪な状況下であったにもかかわらず、人生で最高の出逢いをした。
アークエンジェルの通路で奇異の目と敵意に晒される中、ふと足を止めたあの時から、地球の海を思わせる濡れた碧に惹かれたのだと思う。
捕虜から一転、仲間と認めてくれたアークエンジェルの整備士には「お前は脳を焼かれたんだな」とからかわれたが、自分を殺そうとした女に命懸けで入れ込んでいるのだからあながち間違いではないかもしれない。
あの時は、オーブが焼け落ちることよりも、ミリアリアを失いたくなくて必死だった。
アラスカのこともオーブと連合の諍いも知らず、ただ彼女を守る為にバスターを奪い返さんとモルゲンレーテに乗り込み、敵艦であるはずのアークエンジェルを守り抜いた。そのまま自軍に背を向けたことも後悔はしていない。ザフトへ戻り黒服をまとう今もなお、戦う意味の根底にあるのは「彼女を守りたい」それだけだ。
最初は本当に何の見返りも必要なく、ただミリアリアを守りたいという純粋な願いしか自分の内にはなかったと思う。彼女が誰を想っていようと関係なかった。そばにいられるならそれだけで良かった。
なのに一度目の大戦後、想いを受け入れてもらえた途端、抑えていた欲は溢れ出した。
本当は、プラントで共に暮らしたい。
離れずそばにいてほしい。
俺だけを見てほしい。
そんな独り善がりの衝動を徹夜明けの鈍い頭を言い訳に吐き出すと、向かいのベンチで珈琲を飲んでいたイザークは苦虫を嚙み潰した顔をして「ミリアリア・ハウが、ほいほいついてくる馬鹿な女でなくて良かった」と言った。
笑って受け流すつもりが、わざわざ彼女のフルネームを口にしたのが気に食わなくて目を逸らす。手元でもてあそんでいた空の紙コップは、イザークに気づかれぬよう力一杯握り潰した。
狭量な男という自覚はある。ミリアリアに愛想を尽かされても仕方がない。名前程度でこれなら、彼女に近づく男が現れたら自分はどうなってしまうのだろう。
(しょうがないわねって、笑って許してくれるのはいつまでだろうな)
ミリアリアを失うのが怖くて彼女の選んだ道を受け入れることができず、繰り返される些細な諍いは、きっと想いに反してふたりの溝を深くしている。ミリアリアにとって俺は所詮二番目の男で、————
ビクンッと身体が大きく痙攣し、ディアッカは思わず拳を握り締めた。視界の端には水滴をまとうビールの小瓶と携帯端末、それから蓋のあいた小さな空箱。
自分がどこにいるのか判らなくなり、ぐるりと眼球を動かしながらあたりを伺った。
白いもやの掛かった天井に、ゆっくりと音もなく回り続けるシーリングファン。カウンターの向こう側には誰も居らず、さっきまで流れていた気怠い歌声も、背後にいた酔客の鼻息も聴こえない。
いつから眠りに落ちていたのだろう。突然、窓のないこの部屋の、赤銅色の壁が迫ってきたような気がして、思わずぐらりと身体を傾けた。その拍子に指先に引っ掛けていた指輪が飛んで行く。小さく光った指輪はゆっくりと弧を描き、チリンと音を立てて床板で跳ねると、踊るように回り始めた。
「やっべ、」
ディアッカは慌てて床に這いつくばうと、くるくる回る指輪に手を伸ばす。その時、すいっと頭上から降りてきた白い指がディアッカの目の前で指輪を摘み上げた。驚いて顔を上げると、ほっそりした体躯の少年が薄汚れた照明に指輪をかざしている。
「へぇ、綺麗な紫色の石。これ、アメジストっていうんだっけ?」
少年は面白そうに指輪を眺めながら笑う。
「……おい、返せ」
ディアッカはゆっくりと立ち上がると、少年の前に立ち右手を差し出した。
摘んだ指輪を傾ける少年は、ディアッカよりも背が低く、歳の頃は十六、七といったところか。ゆるく癖のあるダークブラウンの髪に、人懐こそうな笑顔。この場にそぐわぬ幼さを感じた。
「これ、お兄さんの指輪? 恋人への贈り物?」
「お前には関係ないだろ、返せ」
ハスキーな声にからかわれた気がして、ディアッカは大人げなく低い声で唸った。
「こういうの、好きそうだなぁ……サプライズも、喜んでくれるんだよね」
一方的に喋り、いつまでも指輪を返そうとしない少年の態度に苛々しながら、同時に込み上げる違和感にディアッカの背筋が微かに泡立つ。
なんだこいつ。いつからここにいた?
うたた寝をしていたとはいえ、この店の入口は重い扉が一つだけ。音もなく、誰かが入って来る気配などなかった。大体、日付の変わるこの時間になぜこんな子供がこんな所に居る。なんで店主は戻ってこない。
「内側に何か書いてある」
「いいから返せ!」
ディアッカはとうとう我慢できず、少年から指輪を奪い取った。彼は瞳を丸くし、ディアッカを見つめる。
「お兄さん、そんなに好きなんだ」
「うっせーな、お前に関係ないだろ」
少年はほんの少し眉を寄せると、小さな声で「そうかなぁ」と不満げにつぶやく。ミリアリアを想いながらひとり俯いていた自分が恥ずかしくなり、ディアッカは乱暴な物言いで追い払おうと少年に背を向けた。
「お前、ガキがこんな時間にこんなとこ来んな。早く帰れ」
今日はとことんついていない。こんな所に来るんじゃなかったと、ぬるくなったビールを一口飲み込んだ。
「好きならさ、いじけてないで〇〇〇にそう言えばいいのに」
「はあ?!?」
呆れたような一言にカチンときて、ディアッカは勢いよく振り向いた。
カタカタとファンの回る音がする。スピーカーからは掠れた歌声が流れ、その合間に酔客のいびきが聞こえた。扉は閉ざされたまま、フロアに立つ者はディアッカの他にいない。
「大尉、今夜はそろそろ閉めてえんだが……どうしたよ?」
カウンターに背を向け立ち尽くすディアッカに、バックヤードから戻った男が怪訝な顔をした。
「……なんでもない」
突然、呼び出し音が鳴り響き、ディアッカはビクッと肩を震わせると慌てて携帯端末を手に取った。画面には心待ちにしていた文字が表示されている。
『ちょっと! あんた今どこにいるの?!』
耳にあてる前に不機嫌な声が聴こえてくる。
「お前こそ、一方的に切ったくせに」
いつもの調子にほっとして、ディアッカはわざと拗ねたようにつぶやく。
『あんたが偉そうなことばかり言って、ひとの話を聞かずに呆けるからでしょ!』
「俺が悪かったよ、ごめん」
『まぁ、私も悪かったし……もう、心配したんだからね』
素直に謝るディアッカに、ミリアリアはごにょごにょと言葉尻を濁した後、小さく「ごめん」と言った。
「なぁ、今から行ってもいい?」
携帯端末を顎に挟んで器用にジャケットを羽織る。紙幣をカウンターに置き、こちらには目もくれず飛び出して行くディアッカの後ろ姿を店主の男は白けた目で見送った。
『いいけど、起きていられないかも』
耳元をくすぐる笑い混じりのやわらかな声。薄暗い階段を駆け上がると、路地裏は白い月明かりで思いの外明るかった。
駐車場までの細い道を走りながら、ディアッカはミリアリアの睫毛の先に光る涙を想う。
イザークに銃を突き付けられた日、急に視界が狭まり自分の選択は正しかったのかとひとり背を丸めていた時、ミリアリアは何も言わずそっと寄り添ってくれた。
クルーゼの猛襲でバスターが大破した時、火花の散るコックピットでミリアリアの俯く顔がよぎり、死ぬものかと歯を食いしばった。
イザークに助けられ帰還した艦橋で、ミリアリアは目が合うと涙をこらえるように顔をゆがめた。ただ、彼女のそばにいたいと願った。
「なぁ、俺、お前が好きだよ。離れていると心配で、余計なことばかり言って怒らせちまうの、いつも悪いと思ってる。でも、お前のこと否定したり、そんなんじゃなくて——」
『わかってる』
車に手をつき、息を整えながらふと夜空を仰いだ。ゆっくりと流れゆく雲の向こうに光る星が見える。
初めてふたりきりで過ごした夜、窓の外を見上げるとオーブの空にはたくさんの星が瞬いていた。プラントもあんな風に見えるのだろうか。
そんなことを考えていると、隣で眠っていたはずのミリアリアがそっと指を絡めてきた。細く、綺麗な指先をぎゅっと握りしめると彼女はうれしそうに目を細める。幸せだと思った。
すうっと冷えた空気を胸に吸い込む。
「なぁ、ミリアリア。俺と、プラントに来てほしい」
目を閉じ、耳を澄ましたが、返事はなかった。今回も駄目かと深く息を吐き、車に乗り込む。
想いが通じてからも、ミリアリアはいつも自由に飛び回り、ディアッカの腕の中には帰ってこない。
『——あんたって、ほんっと自分勝手』
ハンドルに片手を掛けた時、呆れたような声が聴こえてきた。膨れっ面が容易く想像できる。そんな顔も可愛くて、彼女のすべてを愛していた。
『いっつも私の都合なんてお構いなしにぐいぐい来て、そう言うのが嫌って言ってるのに』
「ミリィ……」
彼女にとって、自分との出逢いは良い想い出ばかりではないだろう。
お互いに今はやらなければならないことが多過ぎて、遠い距離や国同士の争いに阻まれる時もあって、それでも、
『……でも、好きよ。腹立つけど』
この想いだけは諦めたくなかった。
「お前、」
『あんたと生きていきたいって思うから』
今すぐミリアリアを抱きしめたいと思った。
「愛してる!」
『いいから早く帰ってきて』
わかり易く浮かれたディアッカに、やれやれといった口調で返した後、ミリアリアは「気をつけて」と囁いて通話を切った。
薄暗い思考が霧散して、ご機嫌な笑顔でシートベルトを締める。ふと、ポケットを膨らませる小箱を取り出した。
蓋を開けると菫色のアメジストが月明かりに煌めく。婚約指輪と呼ぶにはカジュアル過ぎるが、ミリアリアは喜んでくれるだろうか。
「ミリィはサプライズも好きだって」
誰かがそう囁いた気がした。あたりを見回すが、しんとした夜の中、人影はない。
『好きならさ、いじけてないでミリィにそう言えばいいのに』
呆れたような少年の言葉が頭をよぎる。なぜだかその顔は思い出せなかった。ダッシュボードに箱を置き、ひと呼吸おいてエンジンを掛ける。
「言われなくたって、いくらでも伝えるさ」
さっきまでのいじけた気分を放り投げ、ディアッカは幸せな気持ちでアクセルを踏み込んだ。
終