ただ会うために保鳴+イハレノ
ドアノブを軽く引いて、住み慣れた自室の鍵が正しく掛かったことを確認した保科は、手にしていた鍵を確実にポケットへ滑り込ませる。
隊長である亜白の代理として、立川にある第三基地から、有明にある第一基地まで急遽赴くことになったのは、つい先ほどの事だった。
申し訳なさそうにする亜白に問題ないと告げて、すぐ出発する旨を伝えれば、「君が担当する予定だった演習は私が代理をしよう。今日済まさなければならない業務は無いのなら、たまにはゆっくりしてくると良い」などと言われてしまい、とぼけたふりをして執務室を出た。
軍用車を走らせて一時間ほどで到着することを考えれば、到着予定時刻は指定時間より少し早いかもしれないが、遅刻をして小言を言われるよりはいいだろう。
すれ違う隊員へ挨拶を返しながら足早に廊下を進んでいた保科は、玄関横にある事務所の前に懐かしい部下の姿があることの気付いた。
「市川」
「……保科副隊長!」
やや釣り気味の目が、大きく見開かれていく。
そこにいたのは、かつてこの地で鍛錬を積んでいた、市川レノだった。
「あぁ、市川隊長、やったな。失礼しました」
「や、止めてください……!」
同じく第三部隊から防衛隊に就いた古橋伊春と揃って、今年から第四部隊の隊長・副隊長になった二人は、若くしてその名を広く轟かせている。
すっかり世間にも知れ渡ってしまったナンバーズを背負う若き戦力として、多くのメディアに取り上げられ、彼らが掲載された雑誌は飛ぶように売れていると聞いていた。
それでも、保科にとっては可愛い部下であったことに変わりはない。
隊員の中でも特に細身なイメージのある男であり、刀を使う自分と違って、礼服の上からでも分かるくらいまだ細い体つきをしているが、こちらを見る顔つきは、あの頃の危うい未成年の不安定さは無く、立派な大人の落ち着きも宿しているように見えた。
「久しぶりやな。元気しとったか」
「はい、おかげさまで」
今日彼らがこちらへ来ることは知っていたが、保科宛の用事では無かったし、当初予定されていた演習と被っていたため、顔を合わせることは無いと思っていたこともあり、こうしてかつての部下と会話をする機会に恵まれたことは素直に喜ばしい。
「第四でようやってるみたいやね」
「……俺だけじゃ、やっぱり力不足だなと思うことばかりです。でも、伊春くんもいてくれるので」
「そうか」
そう返せば、口角が少し上がって嬉しそうに笑う。
松本の地に行ってからの市川は、こんな風に笑みを浮かべることが増えた。
入隊した頃の彼はどこか生き急ぐようで、危うく、険しい顔をするばかりだったように思う。
そんな男が穏やかに笑えるようになったのは、きっと全て、寄り掛かることができる男が隣にいるからだろう。
「市川」
「はい」
「お前、ええ顔で笑うようになったな」
「?」
きょとんとした顔は幼くて、あぁまだ若いなぁと思っていれば、深いすみれ色の瞳がこちらを見つめ返してきた。
「……副隊長こそ」
「ん?」
「保科副隊長こそ、雰囲気が柔らかくなったと思います」
「……気のせいやろ」
自分には、市川のように寄り添えるような人間はいない。
視線があまりに真っ直ぐで、思わず何気ない様子を装って視線を逸らせば、市川を呼ぶ懐かしい声が遠くから聞こえて、漂いかけた冷たい空気をあっという間に散らす。
保科は、無意識に詰めていた息をゆっくりと吐いた。
「レノ、車来たぞ」
「伊春くん、ありがとうございます」
「……」
こちらが恥ずかしくなるくらい眩しい瞳と明るい声に、むず痒さとほんの少しの悪戯心が湧き上がって、無意識に潜めていた気配を解放してやれば、緩んだままの口角がこちらを振り返る。
「って、保科副隊長!」
「……古橋、僕はついでか?」
「ッいや……!」
慌てふためく様子を見た市川が、小さく声を出して柔らかく笑う。
見たことが無い笑顔に、ほう、という声が思わず零れた。
二人が恋仲であることは噂で知っていたし、先程自分に見せた雰囲気だけでも彼に訪れた変化を実感していたが、こうして二人そろって目の前にすると、納得せざるを得ない。
笑う市川を肘で小突いた古橋もまた、どこか柔らかい表情をしていた。
「もう帰るんか?」
「はい。その前に副隊長へ持ってきたお土産を預けようと思っていたところだったので、丁度良かったです」
「僕に?」
「はい。これ、お好きでしたよね」
差し出された大きい紙袋を覗き込めば、それは第四部隊がある長野県でも特に知名度のある和栗の銘菓だった。
確かにそれは保科の好きなものだったし、覚えてわざわざ用意してくれたことは素直に嬉しい。
「ありがとうな。にしても、多すぎやろ。三箱も入っとる……僕の小隊に配っても余るで」
「それは……」
気を遣わないで良いという言葉を続けようとしたところで、伊春がニヤリと笑う。
「小さいほうは、第一に持って行ってください」
「ッ」
紙袋が、がさりと大きな音を立てる。
「……生意気言うようになったなぁ」
「っ痛!」
「わ、副隊長!」
ほんの少しだけ高いところにある二つの頭を大した力も込めずに叩けば、同じ顔をして笑う顔に、やられっぱなしではいられない。
「今日は駅前の喫茶店、空いてるで。一番奥のボックス席。懐かしいやろ?」
「ッ!」
「えっ、何で知って……!」
思わず零れた言葉を押し戻すように、自らの口を手で塞ぐ様子があまりにも素直な反応で、保科は声を上げて笑う。
第四部隊に一時移籍した後に再び第三部隊へ帰ってきた頃。
貴重な休日を馴染みの喫茶店で過ごそうとした保科は、そのテーブル席で二人が過ごしているのを見たことがあった。
机の上に乗せられた市川の手をちょいちょいと悪戯につっついては、小さな声で戒められる度に拗ねる声も甘ったるく、こちらが恥ずかしくなるくらい甘酸っぱい空気だと、一人苦いコーヒーをすすったのだ。
「っ、ふ、副隊長、え、いつから!?」
「ッははは!」
目を大きく見開いた真っ赤な顔があまりにもそっくりで、こんなにも似ていない顔のパーツをしていても、表情は似るものなのだなぁと可笑しくなってしまった。
***
案の定予定より早く到着してしまった第一部隊隊長の執務室には、待ち人の姿は無く、申し訳なさそうに謝る長谷川の付き添いを断って、歩きなれてしまった順路を辿る。
何枚もの書類を入れた茶封筒に比べて、やや重かった程度の紙袋が、やけに重く感じるような気がした。
「……」
ふと脳裏に蘇るのは、市川と古橋が寄り添って去っていく後ろ姿。
まだ新入隊員として競いあっていた頃も、ああやって近い距離で噛みついていく伊春をあしらったり、煽られて勝負に乗る様子を何度も見ていた。
入隊当初はカフカと共にいたイメージだったが、それはほんの数日だけだったことを思い返せば、保科にとってあの二人が隣並ぶことはあまりに自然で見慣れたものだったこともあり、二人が恋仲だという野暮な噂話も素直に納得したのだ。
そして改めてその姿をみて、とても似合っているとも思った。
では、自分たちはどうだろうか?
保科と鳴海は所謂セックスフレンドと言われる関係で(鳴海が聞いたら『フレンド』というワードを断固否定するだろうが)、恋人ではない。
あんな風に寄り添う関係性ではないのだから、どこかへ一緒に出掛けたり、同じものを食べて分かち合うこともしたことが無かったし、それが当然だと思っていた。
それなのに、この違和感のような感情は何故湧いてくるのだろうか。
ここまで紡いできた正しくは無いであろう順序を、今更後悔しているのだろうか?
刀ばかりに人生を捧げ、この力を必要とされたことに最高の喜びと生きがいを感じているはずなのに、市川と古橋が笑い合う姿を羨ましいと思ってしまったのだろうか?
「……っ」
目の前にそびえる扉が、やけに大きく感じる。
無意識に詰めていた息をふぅ……とすべて吐き、身についてしまった仮面の下へ感情を押し殺してから、何でもないように手を上げてノックをしようとしたところで、何と言ったらいいのか分からなくなってしまった。
『僕の好物をお土産で貰うたから、一緒に食べません?』
これを自分が、部隊の違う鳴海に言うことは可笑しくないだろうか。
わざわざ立川から有明まで、ただのセフレが持ってきた茶菓子を一緒に食べるのは、許されるのだろうか。
そんな恋人がするようなことを、あの鳴海がしてくれるだろうか。
そんなことよりもやりこんでいるゲームに忙しいとか、お前の好物を何故一緒に食べねばならんとか、いつものように突っかかられたら、つい反抗的に言い返してしまう自分の未来が見えそうで、上げた手が力なく落ちていく。
「…………」
思春期の男子高校生だって、もっと自然に誘うだろう。
セックスを誘うのはあんなにも簡単なのに、自分の好物を一緒に食べないかと誘うだけで、こんなにも戸惑うなんて。
そもそも鳴海は、栗は嫌いではないだろうか。
握る紙袋の取っ手に、にじみ出た手の汗が沁みていくような気がして、こんな臆病な面が自分にもあったのかと嘲笑が零れる。
鳴海が知ったら……と思ったところで、扉がガチャリと音を立てて反射的に顔を上げれば、ものすごい勢いで保科の額へぶつかってきた。
「ッッ!?」
「貴様! いつまでそこにいる! 開けるならさっさと開ければいいだ……保科?」
「ッッ~~~ッ」
防衛隊屈指の屈強な扉から食らわされた痛みに堪らずしゃがみこみ、熱を訴える額を擦るが、鈍い痛みはちっとも散っていかない。
文句を言ってやろうと顔を上げ、口を開こうとしところで、目の前に飛び込んできた景色に目を見開いた。
「っはは! お前、額が真っ赤だぞ」
「……っ」
下から見上げているからか、寝ぐせのついている髪をした鳴海の笑う顔が良く見える。
いつも薄暗い部屋で身体を重ねてばかりだったし、見るのは怒った表情ばかりだったから、知らなかった。
……いや、今そう見えるようになったのかもしれない。
笑いすぎて涙を浮かべている顔に、あぁこれが恋なのかと思う。
悪くないと、無意識に口角が上がった。
「鳴海サン」
「っ何、ッ!?」
立ち上がると同時に、反撃を予知して構えようとする鳴海へ顔を寄せ、そのまま下から掬い上げるように唇を奪えば、予想外のことに驚いた身体がピシリと硬直する。
ぐいっと室内に押し込めながら、この扉が閉じたら二度目の口付けをどう仕掛けてやろうかと、よく働く脳をここぞとばかりにフル回転させ始めた。
終