楓可不『スロー・ステップ・ラヴァーズ』 ここ最近、ずっと体調はいい。来月の企画のことで相談が、なんてそれらしい理由をつけてアポをとり、夕食も入浴もすっかり済ませて訪れた部屋の鍵は間違いなく閉めた。口実として持ち込んだ仕事についての相談を済ませて、明日は休みだから映画でも、とベッドに腰掛けた楓に跨るように乗り上げた可不可は肩にかけた手に少しだけ力を込めた。
「楓ちゃん……」
なるべく湿度を纏った声を意識して呼んだ名前は、今まで数え切れないくらい呼んできたはずなのに慣れない響きで二人きりの部屋を静かに揺らした。大した力を込めなくても、楓の身体はおとなしくベッドに横たわる。何の映画を見ようか、と楽しげに選んでいた時の笑顔を残したまま、目を丸くした楓の顔の横に右手をついて、残った左手で宙に浮いていた楓の手を取った。
「可不可?」
握った手に可不可が力を込めれば、躊躇いなく握り返される。楓の瞳はどうしたの? と問いかけているようだった。
「すきだよ。楓ちゃんのことがすき」
「うん。俺も可不可のことがすきだよ」
知ってる。数ヶ月前、可不可が同じようにすきだと伝えた時に、楓も同じように応えてくれた。同じ意味ですきだということも、夢じゃないことも何度も確認して、その度に楓は「同じすきだよ」「夢だったら俺も困る」と笑ってくれたのだから。ならば――
「じゃあどうして、何もしてくれないの?」
真っ直ぐに可不可を見つめる瞳に負けないように、そう思っていたはずの可不可の瞳から募った想いが雫になって溢れた。その雫が落ちてしまう前に拭う指先の優しさが、今は少し腹立たしい。
突っ張っていた肘を曲げて、楓に体重を預ける。
「別に俺、可不可の身体が目当てなわけじゃないんだよ……」
楓に縋るような格好になった可不可の背中を楓の手があやすように撫でた。相変わらず欲とは無縁な優しい手つきで背中を何度も往復する。可不可のざらついていた心は、その手に、いとも簡単に宥められてしまう。だが、今日こそはここで引かないと決めていた。可不可はわざと子どもっぽく唇を尖らせた。
「僕がされたいの。それとも楓ちゃんは僕とそういうことするのは嫌?」
「そういうわけじゃ、ない……けど……」
「僕ってそんなに魅力ない?」
「そんなことない!」
可不可が言い終わらないうちに否定の言葉を被せた楓は、その勢いのまま身体を起こし、ぐらりと体勢を崩しかけた可不可の身体を抱き寄せた。可不可の顔を挟むように添えられた手が熱い。俯き気味だった可不可の顔が少し強引に上げられ、こつりと額同士が軽くぶつかる。
「そんなことないよ、可不可。俺にとって可不可は誰よりも魅力的だよ。ずっと……ずっと可不可から目が離せないくらい」
少し伏せた睫毛越しに熱を帯びた瞳と視線が重なる。引き寄せられるように重なった唇は、薄く見えていても柔らかだ。ほんの一瞬触れて、離れて、また重なる。顔に添えられていたはずの手は再び可不可の背に回されたとおもったら、くるりと視界が反転し、今度は可不可がベッドに横たえられていた。触れるだけの口づけは、少しずつ離れるまでの時間が長くなっている。
目の奥が熱い。頭がくらくらする。可不可が身を捩ると、いつのまにかまとめて縫い付けられた両手首に押さえつけるように力が加わる。
「逃げないで」
密やかな声も、下唇に軽く歯を立てて離れて可不可を見下ろす瞳も、確かに楓のもののはずなのに、なぜか知らない人のように見えて。乱れていたシャツの裾から挿し入れられた手に、思わず身体を震わせた。可不可は期待を上回りそうになる感情を認めたくなくて、目を閉じてよく知った幼馴染の知らない表情から顔を背けた。
ギシリとベッドが鳴る。閉じた瞼越しにも何かが近づく気配を感じて、可不可はさらに強く目を閉じた。額に触れた唇が音を立てて離れたのを合図に、可不可の手首を束ねていた力が緩められた。
可不可、と呼ぶ声はいつもの楓のもので、うっすらと目を開けると、楓は困ったように微笑んでいた。
「ごめん、怖がらせちゃったね」
「あっ……楓ちゃん、ちがっ……」
身を起こし、ベッドから立ちあがろうとする楓の手を、可不可は慌てて掴んだ。楓が座り直した隣に、少しだけ離れて可不可も座る。不恰好に掴んだままだった手を、楓がするりと繋ぎ直した。
「ごめん」
可不可がポツリと呟くと、楓は微笑んだまま首を横に振った。
「ゆっくりでいいんだよ。大事にさせてよ。俺ね、可不可のことが本当に……本当に大切なんだ」
嘘のない言葉が、さっきうっすらと感じた恐怖を押し流していく。代わりに押し寄せてきた情けなさに、可不可が唇を尖らせたのは、今度は無意識だった。
「……でも、キミは優しすぎる」
「そうかな? ……うん、でもそうかも。優しくしたいって……優しくしようって思ってるからね」
あと、と続けた楓が子どもっぽく笑う。
「手を繋いだり、さっきみたいに抱きしめ合ったりしてドキドキするのもちょっと楽しいんだ」
「楓ちゃんもドキドキするの?」
「するよ。実は今もしてる」
嘘だ、と言う前に繋いでいた手を引き寄せられ、可不可の耳が楓の胸に優しく押し付けられた。ドッドッと音がしそうなほどに脈打つ鼓動が掌を通して伝わる。
「楓ちゃん、僕よりすごいんじゃない?」
可不可が思わず目を丸くして楓を見つめると、楓は小さくため息をついた。
「そうだよ。だからゆっくりでいいんだってば」
耳まで赤くしてすいっと目を逸らす楓が無性に可愛く思えて、可不可は絡めた指に力を込めて、楓に身を寄せた。