楓可不『大丈夫の魔法』 可不可が病院のベッドに横たわる光景をひどく久しぶりに見た気がする。
可不可の手術が成功して、HAMAツアーズが始動して、病院以外で顔を合わせるようになったのはつい最近のことなのに、いつのまにかそれが当たり前になっていた。可不可が病院暮らしだったせいで体力がないことはわかっていたし、オーバーワークの域を超えかけていることも気づいていた。直接心配だと伝えてもいたけれど、うまく伝えられず、喧嘩別れのような形になっていた可不可が倒れたと聞いた時、身体中から血を抜かれたような気がした。
何もできなかった、何もできない。途方もない無力感と一緒に可不可の冷えた手に触れた。
***
「手術は二〇歳にならないと受けられないんだよね?」
「うん、根治のための手術はね。でもこのままじゃその前に死んじゃうって。だから今度受けるのは死なないための手術」
「…………それって難しい手術なの?」
可不可の金色がかすかに揺れる。その瞳をどろりと濁らせたのはきっと不安だ。間違えた。楓が自分の不用意な発言に唇を噛むよりも早く、可不可はいつもより少しだけ長めの瞬きで何事もなかったかのように不安を隠してしまう。
楓は子どもで、医療的な心得があるわけでもなくて、可不可の苦痛を和らげることはできないし、可不可が受けるという手術がどれほど難しいものなのかもわからない。楓は膝の上で、何もできない無力な両手を握りしめた。
「大丈夫って言ってほしいな」
「可不可?」
「楓ちゃんが大丈夫って言ってくれたら大丈夫な気がする。今までも、そうだったでしょ」
可不可が言う通り、楓は今まで可不可の手術や新しい治療の時に何度も「大丈夫だよ」と口にしてきた。その「大丈夫」には裏付けも根拠もないのに、可不可に渡すことが急に無責任に思えた。
迷いが喉につかえて音にならない。不安が胸を押さえつけていて息が吸えない。口を開けては閉じ、落とした視線の先で、楓の手を可不可の手が包んだ。固く握られた拳を解くように捩じ込まれた指先が温かい。平熱は楓より低いはずなのに熱があるのかと思ったが、解けた指先に血が巡る感覚に自分が無意識のうちに手に力を込めすぎていたことに気がついた。
「ねえ、楓ちゃん」
取り戻した体温を確かめるように、可不可が指を一本ずつ絡める。楓ちゃんの手は大きいね、と可不可が言うように、重ねられた可不可の手は楓よりもひとまわり小さい。小さいけれど、無力な楓の手よりも確かに思えた。
「僕を信じて」
隠し切れない震えが掌を通して伝わる。信じて、そう言った可不可の瞳を見つめ返したその奥に、さっき隠した濁りが見えた気がした。楓は意識して肺を膨らませて、深く息を吸った。
「大丈夫だよ」
口にした途端、手の震えが止んだ。可不可のものも、楓のものも。
「大丈夫。今までも大丈夫だったんだから」
「うん」
繋いだ手を引き寄せ、可不可の頭を胸元に収める。少しパサついた髪を撫で、大丈夫、大丈夫と繰り返す。可不可だけでなく、楓自身にも言い聞かせるように。
「がんばれも言ってほしい」
「可不可はもう十分頑張ってるのに?」
「それでも」
いつのまにか背中に回されていた腕に力が込められる。きっとこれが可不可の精一杯なのだろう。
「……がんばれ可不可」
「うん」
「可不可なら大丈夫。大丈夫だから、がんばって、可不可」
「うん」
弱々しく楓を抱きしめる可不可の背中に楓もそっと腕を回した。背中を撫でると薄い皮膚越しに背骨に触れる。自信も根拠もない言葉が、こんなちっぽけな手が、可不可に少しでも力を与えられるなら、と楓は何度も大丈夫、がんばれと繰り返した。
***
馴染みの医者は過労だろう、と言っていた。命に関わるようなことはないと聞いてもなお、青白い顔で目を閉じる可不可が二度と目を覚まさないんじゃないかという不安が背中にまとわりついて消えない。
点滴に繋がれた手も、それを握る楓の手も、昔より大きくなった。それでも、今も楓は何もできない。
「大丈夫」
握った手に少しだけ力を込める。
「大丈夫、可不可は大丈夫だから。がんばれ」
大丈夫、がんばれ。ふたりきりの病室で、可不可の手を握ったまま楓は繰り返す。眠る可不可に、何もできない楓自身に。