前日譚 自宅にて陳腐なミステリー小説に頭を捻るも、一向に進まない執筆作業を中止して一服する。俺の手を止まらせる理由は、とある不安の種のせいだった。机上に置いたスマートフォンが着信音を響かせる。あぁ、噂をすれば。
『ヤギ、聞いたか?狂気山脈!』
嬉々として話すのは親友の七浦。少々無茶な登山をするために、付いて行くようになった。こっちの心配を他所に、彼は嬉しそうに毎度登山を楽しんでいるわけだ。
七浦はつい最近発見されたと言う狂気山脈の話題を振ってきた。エベレストを超える新世界最高峰……まさに世界的ニュースだ。知らないわけがない。……それこそが、執筆作業の手を止める不安の種なのだ。
「知ってる。お前、登るなんて言い出すなよ」
『丁度そのことなんだけど…──うわぁッ‼︎』
「なん、どうした⁉︎」
突然電話口から悲鳴が聞こえ、慌てて応答を乞う。バクバクと心臓が跳ねうち、悲観思考が止まらなかった。しばらくの沈黙が続いた後、七浦はやっと口を開いた。
『──今、狂気山脈の第一次登山隊応募画面開いてて、あとワンクリックで応募完了のタイミングで……その、応募締切の日付を超えそうだったんで、押しちゃった』
「は、はぁッ?!七浦の分だけか!??」
『あ〜〜いや、お前の分も。そのことを聞こうと思って電話したんだが……すまん』
呆れた。タイミングが悪かったとはいえ、事後報告だなんて。それも、狂気山脈の第一次登山隊に?
「……今からでもいいから辞退のメール入れろ」
『何言ってんだ!こんなチャンス二度と無い!俺は参加するぞ』
「馬鹿野郎、前人未踏の未知の山脈だぞ!ましてや場所が南極…圧倒的に死亡率の方が高いだろ!」
今回ばかりはなんとしても辞めさせなければならない。詳細な事前情報も無い未到の山脈……今までの登山とは何もかもが違いすぎる。焦りと不安から、彼を叱咤する。
『だが新世界最高峰の人類初登頂なんて名誉、二度と現れない』
「名誉より命だ。死んでしまえば何も残らない」
『──俺は是が非でも行くぞ。俺一人だけ選出されたとしても行くからな』
「……一晩、考えさせてくれ」
通話を切り、ビジートーンが響き続ける。彼の頑固さは今に始まった話ではないが、今回ばかりは頑なだった。
あいつの反応を見るに、仮に第一次登山隊の選出が外れてもいつか必ず登りに行くのだろう。
「──ハァ……俺も大概だな」
結局折れるのは、こちら側なのだ。
◆◆◆
あの後、二人とも第一次登山隊選出の連絡を受けて、話はトントン拍子で進んで行った。何回にも重ねたミーティングを終え、後は現地へと向かうだけのはずだった。
「───ヤギ!具合はどうだ…?」
「良い訳あるか。まさか風邪を拗らせるなんてな……」
場所は病院。急性気管支炎の診断を受け、症状が落ち着くまで入院となったのだ。受診が早かった為、比較的軽症で済んだのが幸いだった。
「しかし、出発2日前にこれじゃあ……辞退するしかないよな」
「……七浦、お前行くのか?」
「正直、普通の登山だったら中止してるよ。だが、今回ばかりは……」
「何故そう拘るんだ。別に第一踏でなくとも──…いや、なんでもない。俺には一生分からんことだ」
「…すまない」
罰の悪そうな顔で視線を落とす。彼にも譲れない何かがあるのだ。俺はともかく、七浦は一流の登山家達と肩を並べるほどの技量を持っているのだ。過度な心配だと、思いたい。
「──お前が登りに行っている間、俺はお前が気がかりで眠れなくなると思う。だから七浦、必ず生きて帰ってこい」
「勿論だ!」
◆◆◆
出発当日、病院内。出国数時間前だというのに、七浦がわざわざ訪ねてきた。荷物は既に預けてきたようで、彼は随分と身軽な格好でいた。
「よう、ヤギ。具合はどうだ?」
「症状は少し落ち着いたが、不安の種が残ってるんでな」
「ははは!皮肉が言えるくらいは元気か!」
人類未到の山脈へと向かうのに、七浦の様子はちっとも変わってなかった。彼が帰国するのは、1〜2ヶ月後だろうか。未知の山脈へと足を踏み入れるのだから、それ以上の可能性だってある。……あぁ、やはり不安だ。
そんな顔を浮かべていたからなのか、七浦は思い出したように懐を探り、あるものを手渡した。
「あ、そうだこれやるよ」
「…御守り?おい、こういうのは俺がお前に渡すもんじゃないのか」
「安眠祈願、何もないよりかはマシだろ?」
「うるせ」
手渡された御守りは、「安眠祈願」と書かれた珍しいものだった。ケラケラと笑う彼を呆れつつ睨みながらも、ありがたく受け取った。
「じゃあ、行くよ」
「あぁ」
必要以上の言葉は交わさず、彼は踵を返して立ち去って行く。消えていく後ろ姿を見つめ、別れを惜しむ。
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第一次登山隊の消息が途絶えたのは、それから数週間後のことだった。