La Belle EspagnoleLa Belle Espagnole
別名:スパニッシュビューティー
スペイン作出国の桃色の薔薇の品名。スペイン語で『スペインの美しさ』と訳すこともある。
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白いフリルがあしらわれたワンピースに袖を通して、ボタンを留める。くるり、と鏡の前で回ってみると、花が蕾から開いた時のように広がり、重力に合わせて揺れる。肩はふわりとしたレースの袖に隠した。
普段プロの手を借りて彩られる顔には、自身の肌色に合わせたベースを塗り、コーラルピンクのようなサーモンピンクのような…完全な色の名前は分からないが、春の花の色のようなパレットからさらりと色を取り目蓋に重ねる。上からシャンパンゴールドの細やかなラメを乗せてから、目尻だけブラウンのアイラインを。そして、くるりとマスカラを塗れば、冷たいと称される瞳も一気に乙女に近づく。
少しクセのある赤茶の髪は、梳いてから静かにアイロンを滑らせる。あまり長い時間してしまうと髪自体が傷んでしまうから、保湿をしてからゆっくり少しだけ。こんな時はくせなど知らない美しい濡羽色の髪を持つ凛が羨ましい。
いつも上にあげる前髪を下ろして、胸元の細くサラサラとしたサテンのリボンを結べば完成。
普段スポンサーに勧められる真紅のドレスでも、黒のタイトなスカートでもない。
お砂糖とスパイス、素敵な何もかもを詰め込んだような姿は、強き女と呼ばれている糸師冴を彩るには実に子供らしく、そしてらしくない。
時計が予定の時刻の前を指したことを確認してから、玄関に向かう。そしてまた、控えめにリボンの施されたシューズに足を通す。
期間限定のこの姿は、シンデレラみたいな気分になる。少しだけ虚しくて、少しだけ嬉しい。
目的地に向かえば、目当てのお相手は黒いシャツに身を包み、決して安くないであろう腕時計を見つめていた。
「お待たせ。ルナ」
レオナルド・ルナ。
レ・アールの貴公子。マドリードに住むサッカーを愛するものならば知らぬ人などいない、そう言ってしまってもいいくらいの男。
変装用のサングラスはむしろ男の色っぽさだったり、見えないことで生まれる【見たい】という欲求を駆り立てる。つけている意味があるのだろうか?
そんな男とはこうして何度か会っている。
でも、気が付かれたことがないので、同じマドリードのチームで活動する選手だとは露ほども思わないのだろう。悔しい。けど、密かな趣味がバレるくらいならば別人と勘違いされていた方が幾分か楽なのだ。
「大丈夫。時間ぴったりだよ。ロッサ。」
…自分でつけた、知らない女の名前で呼ばれるのは、なんだか違和感。
そんなこと知りもしないルナは、似合ってる。と笑う。
見知らぬ名前と、らしくない格好。
今日もまた気がついてくれない事実に安堵してやまないはずなのに、少しだけちくりと刺される胸の内。
「じゃあ、行こっか。」
「…うん。」
差し出された手に自分のものを重ねて、風にスカートを揺らせば、そこにいるのはただの女。
週末、自チームのオフの日。
冴は、糸師冴ではない女になる。
……大変悔しいが、多分惚れてしまった男の前で。
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昔から、ふわふわとしたお姫様のような格好に憧れがあった。
だけど、サッカーをやるには長い髪は邪魔になるし、フリルのついた服では駆けることもなんとなく億劫。しかも、周りの男子は自分よりもサッカーの上手い女子が気に食わなかったようで、スカートを履けば男女と揶揄ってきた。正直どうでも良かった。むしろ、こちらを揶揄えば揶揄うほどに殺気に似た覇気を燃え上がらせる凛を抑える方が大変だった。あの子は糸師冴という存在を、姉という存在を好きすぎる。
確かに、男子の言ったことはごもっとも。
硬くなり傷ができる足に、柔らかさの足りない身体。幼少期の時点でサッカーという才能を手に入れること前提になった身体が、他の少女たちのように儚く可愛らしいものであったかと言われたら、勿論頷けない。
だから凛の行動は嬉しかったけど、その主張を押し切ってしまえるものを持っていなかった。
初めから持っていないのに、それで凛が悪く言われるのもまた気に入らなくて、気がつけば可愛らしい格好という存在ごと頭の隅に追いやった。サッカーができれば良かったから。
スペインに一人で訪れて、ストライカーを目指す上で守られるふわふわした乙女で生きていけるわけがない、と本能的に感じていた部分もあっただろう。スペインに行く際に、可愛らしい服は実家に置いてきたし、凛の艶やかなロングにこっそり憧れて伸ばした髪は肩のラインまで切った。母は可愛いと言ってくれた。凛は何となく微妙な顔をしたから、似合ってないかと問えば、当時9歳か10歳の凛は、「姉ちゃんが可愛くないことなんて一瞬たりともない。」と真顔で言ってきた。それはちょっと言い過ぎだと思う。
そしてスペインに渡って、自分の考えは正しかったのだと実感した。
少女でいる余裕なんてなかった。世界は思っていたよりもずっと広くて、ずっと強くて。有象無象と同じように、今まで冴に負けて膝をついてきた者たちと同じように、膝をつき、ストライカーという道を諦めるほどに叩きのめされた。それでも、凛との誓いを思い出して立ち上がった。世界で戦いたいという己のエゴでもあったけど、MFとしての道を選んだ。…それで新世代世界11傑に選ばれたのだから、所詮ストライカーになれる人間ではなかったのだと、賞賛されるたびに思ってしまったことは誰にも言えていない。
言えなかったからこそ、凛との亀裂が起きてしまったのか。それとも、初めからストライカーでない姉は姉でなかったのか、そもそも凛が愛していたのは【完璧なストライカーである姉】であったのかは分からない。
日本で牙を抜かれてしまった妹を、成長のためと謳いながらフォローもせず、【獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とす】かの如く拒絶した。もう、冴を可愛い女の子だと信じ切ってくれる者はいなくなってしまった瞬間でもあった。
悪夢のような雪の日から、スペインに帰国して。普通に練習するか、空いた時間はいつも通りプレイ分析を行えばいいはずなのに、何をすれば良いのか分からなくなってしまった。
食事管理、ゲーム分析、ヨガ…やらなきゃいけないことは山積みだったくせに、何一つやる気が起きず、備え付けられただけのテレビをつけた。そこには、バラ園と【サン・ジョルディの日】の特集がやっていた。
【サン・ジョルディの日】とは、毎年4月23日、州都バルセロナを中心としたカタルーニャ地方で行われる男性から愛する女性に花(主にバラ)を、女性から男性に本を贈る日である。この時期は町中がバラと本で溢れるらしい。行ったことがないから知らないが。
冴も一度だけ、薔薇をもらったことがあった。
冴がまだ14歳。丁度スペインという国で才能に愛されていなかったことを叩きつけられていた時期だ。
うまく眠れない、うまく食べられない。かろうじてプライドと根性でプレーを続けてはいたが、違う言語に慣れない環境、ちがう食事に心も体も少しずつダメになっている最中だった。
その日は、スペイン人には珍しく時間に厳しいマネージャーが練習場に到着するのが遅れてしまう、と連絡があって、一人で彼を待っている時だった。下部組織とプロ組織ではそもそも練習メニューも活動時間もそれなりにずらされている。男女であれば尚更だ。だから、出会うはずがなかったのだ、本当は。
汗と制汗剤、香水の混じる練習場にその男は訪れた。練習をしにきたのではなく、まぁ何かしらの用があったのだろう、スーツ姿のまま赤と桃色の薔薇の花束を持ってスタスタ歩いていた。貴公子の名を持つ男は、薔薇を持ち歩くだけでサマになる。王子様とはああいったものを指すのだろうなぁ、とぼんやり眺めていれば、向こうもこちらに気がついたのか、目を合わせてからこちらに来た。
『こんにちは、お嬢さん。こんなところで何してるの。』
『…マネージャー、待ってる。』
『そっか。でも、ここじゃなくてもう少し一目のつくところで待っていた方がいい。』
ここだと何処かに連れ込まれそうになった時、すぐ対処できないだろう?とルナは言った。そもそも練習場のどこで男に連れ込まれるのか。頭にハテナが浮かぶ。
何てことのないように差し出された手は、自分よりもずっと大きい。男の手だった。
何となく断る気になれず、その手を取って廊下を進む。離すタイミングを失ってしまった手のひらは、少し熱い。
人気のなかった廊下を超えて、スタッフや販売店の店員がいる大きなスペースに着く。ルナはベンチまで冴をエスコートすると、はぁとため息をついた。心外。連れてきたくせにため息を吐くとは何事か。形のいい眉が訝しげと困惑で少し寄った。
『普通に男について行ってはダメだって君のマネージャーは教えてくれなかったのかい?』
対して困惑も訝しげも興味ありません、そんな表情で、貴公子の名に恥じない笑みを見せてルナは言う。
『は?お前があそこは危ないって言ったんだろ。』
反論はごもっとも。
なのにルナの表情は変わらない。この男、自分が悪いと思ったこと一瞬もないのでは?なんて思ってしまう。
そんな冴など気にせず、ルナは花束から桃色の薔薇を抜き取ると、冴に差し出してきた。
『何これ、薔薇?』
『他に何に見えるの?日本ではそれは薔薇じゃないの?不思議な国だね。』
『…日本でも薔薇は薔薇だ。』
写真で見るような真っ赤なものではなく、薄いピンク色のバラ。マドリードにも薔薇の咲く公園だったり、育てている家があったりするのだが、このときはそんな余裕なくてただ差し出された花の美しさだったり、目の前の男が美丈夫故にやけに様になっているなぁとか、そんなことしか考えられなかった。
『君は今日薔薇を受け取った女性。もう少し警戒心持った方がいいよ、可愛いお嬢さん。』
誰にでも同じようにしているのか、手慣れたようにひらりと手を振った男を唖然と見つめる。久しぶりの女の子扱いにときめいてしまった、と言えばチョロい気もする。
結局冴は、マネージャーが迎えにきて、車を乗る際に一瞬だけ見えたルナのプレーに目を奪われた。
手の中の薔薇を見たジローランは、「変な人じゃない?!大丈夫だった?!」と本気で心配していたが、ルナだったということを伝えると、「あぁ…彼か。」と安堵のため息をついていた。遅くなってごめんね、と謝る彼をそれほど責める気にもなれず、大丈夫だと伝えて、窓の外を眺めた。反射した自身の頬が薔薇と同じようにほんのりと色づいていたことに気がつき、結局外なんか見られず、手元の薔薇をぼんやりと見つめていることしか出来なかった。
感じたのは、知らない感情への困惑と、目標も叶えてすらないのに他の人間に目を奪われたという事実に対しての失望。だけど、どうにも手の中のピンク色の薔薇を手放すことはできず、選手寮に瓶があったかジローランに気が付けば問いかけていた。
つまりは、完全に初恋というものを奪われてしまう、というなんとも甘酸っぱいような心配になるような体験をしてしまった、ということである。誠に遺憾。
別にルナを忘れられなくなろうが、根本が変わるわけじゃない。というか、よく見られようとか、アプローチだとか、そもそも知らないのでやりようがない、と言った方がいい。
故に、冴は変わらなかった。
ルナのために乙女になろうとも思わなかったし、そもそも冴は恋だなんて気がついてもいなかった。
だから、可愛い服なんてクローゼットに仕舞い込んで鍵をかけておくくらいでちょうどいいと思っていた。自ら似合わない格好をしなくても、冴を援助するスポンサーから贈られる服を着ればいい。
タイトなスカート、はっきりとした色のニットに、強気なヒール。女王と謳われても何ら違和感のない糸師冴にぴったりなものを寄越すスポンサーに不満などない。冴のために金を出す者たちの目に狂いなどないのだから。
さて、話は戻る。
ボロボロになった雪の日を超えて、冴の知らない感情の原因となった【サン・ジョルディの日】の特集を見て。
「もう、いいか。」
全部いらない。強くなる以外、あとは全部、糸師冴には必要ない。
その瞬間、なにかがぷつん、と切れてしまった。何の前触れもなく。
否、前触れはあった。知らぬ環境、知らぬ言語の中で戦い続けることの疲労、プレッシャーからの逃げ道がなくなることの苦しさ。
…愛しい妹である凛からの拒絶。そんなのは姉ちゃんじゃないと言われてしまったことの絶望。感情が制御できなくて、凛を突き落とすためだけに行なった1on1。あの瞬間、凛をいらないと思ってしまった自分への失望。別にサッカーをしていない凛を愛していなかったわけでもないのに、結局冴はそれでしか物事を見られずに凛を拒絶した。最早凛は冴にとって全てを許せる相手ではなくなってしまった。離れていた時間が冴を、凛を偶像にしてしまった。
クローゼットを乱暴に開けて、中に入っていた一着のワンピースを取り出す。
フリルとリボンの可愛らしいそれは、控えめな装飾で飾られているので子供っぽくない。
隠していた冴の趣味を知る、両親からの贈り物であった。可愛らしいそれは、冴に価値を見出したスポンサーから決して受け取ることのないようなモノ。冴に似合うと言われたことの無いもの。
冴のサッカーに価値があると感じる者達から望まれないものは必要ない。なのに、捨てられない。ならば、あの雪の日の再現をすればいい、そう思った。
似合もしない服を着て、そんなのは糸師冴ではないと言って貰えたのならば、きっと冴は全てを納得できる。MFに夢を書き換えたことを否定した凛を切り捨てたように、二人の夢を殺したように、可愛らしさを秘める自分を諦めることができる。
そう、本気で思った。
だから、冴はワンピースを着て、メイクをして、前髪を下ろした。ただのか弱い女になって、OFFの昼間からマドリードの街に足を運んだのだ。ヤケになっていたことは認める。だけど、冴を知る誰かに、拒絶して見せろ、そんな気持ちを込めて、小さなリボンのついた靴に足を入れた。強き糸師冴でなくなる、そんな魔法を自分で掛けて。
『似合わない。』そう言われた瞬間に、自宅に帰り、クリーニングに服を出し、両親に連絡するつもりだった。
こういった可愛らしいものは凛にこそにあう。すらっとした手足に、このワンピースは映えるだろう。艶やかでクセのない髪に胸元のリボンと同じ色の髪飾りをつけてもいいかも知らない。一番最近の記憶の凛は苦しんでいたけど、姉ちゃんと笑ってくれた瞬間は誰よりも可愛い女の子だと冴は思っている。何を着たって可愛い。冴にはない才能だ。
マドリードの街を意味もなく彷徨って、少しずつ冴は正気に戻ってきた。
こんなことをして、イメージダウンに繋がればそれこそ自身のサッカーに影響が出る。それは避けなければいけない問題であり、冴自身の自傷によって起きていいものではない。
帰ろう、と踵を返そうとした時、目の前に知った男が現れた。知った男、なんてもんじゃない。冴の感情を揺らした初めての男がそこにいた。カフェテリアでゆっくりとカップを啜り、スマートフォンをスクロールさせる色男。変装のためにつけられているサングラスの向こう側の瞳の色を冴は忘れられなかった。今も覚えている。薔薇の色も、かけられた言葉も。
どくん、と心臓が音を立てた。
もし、彼に拒絶されたら。きっと、全てを諦められるだろうな、と無意識に思った。怖くて痛くて、でも少しだけこの苦しさを捨てられることへの安堵。
見つめていたことに気がついたのか、ルナは店員に一言何かを伝えると、こちらに歩いてきた。今逃げればきっと逃げられるのに、冴の身体は動かない。あの日のようにこちらに向かってくる男をただ見つめているだけの時間、耳に届くのは自身の心音。
「俺に何かようかな。お嬢さん。」
可愛らしい目でこっちを見てるから、気になっちゃった。
ルナは笑う。…冴とは呼ばれなかった。
気がついていない?普段と格好が違うから?雰囲気が違うから?
まるでこちらに気がついていなさそうな雰囲気に、困惑と安堵を改めて感じる。そして、一つの事実に気がつく。
胸の痛みの意味と、安堵の意味。
その時、初めて…ルナに恋をしていることに気がついた。
そして、この姿ならば、普通の女に見えることに気がついた。
普段ならばこんなこと絶対にしない。
むしろ冴は拒絶されたくて、可愛らしい趣味を捨てたくて、自身を着飾り、魔法をかけて飛び出したのだから。なのに、普通の少女の扱いを受けて、ただの女に成り下がって…しかも、冴はそれをその瞬間、良しとしてしまった。
ルナはふは、と笑って目線を合わせてきた。
「君みたいな魅力的な子に見つめられたら勘違いする男も多い。気をつけてね。」
あの人同じように踵を返そうとするルナの裾を掴んで、糸師冴であれば絶対に出すはずもない甘い声を出して、待って、と引き留めた。
「勘違いじゃない。」
「デートのお誘いかな?」
「…誘われてくれる?」
「面白いね、君。いいよ。」
初めて故にうまくストレートにすることが出来ずに、本来のクセが残る髪に触れて、ルナは笑う。
サッカー選手のくせにその辺の女に簡単に引っかかってんじゃねぇよ。ギリギリのところで飛び出しそうになる暴言を飲み込んだ。
「手始めにブランチの続き、付き合ってもらおうかな。」
「…サッカー選手なのに。」
「俺のこと知ってるんだ。」
「…マドリードに住んでて知らないことないでしょ。貴公子さん。」
「君みたいな子に覚えててもらえるなんて光栄だな。」
私のことは忘れてるくせに。
可愛らしさを捨てようと決めた時とは違う痛みを感じながら、あの日と同じように差し出された手を取る。出会いから約3年。手の熱さも大きさもあの日と変わらず、少しだけ目の奥が熱くなった。この男のせいで女に成り下がった事実と、触れられたことへの喜び。
たった今自覚した感情に振り回されていた。
ねぇ、とルナはこちらを向いて言う。
「俺は君をなんて呼べばいいかな?」
何も知らない男が憎い。憎いだけならばよかったのに、とも思う。
捨てられなくなってしまったワンピースの裾を、ルナの温度を知らない方の手できゅっと握る。今だけでいいから、これに包まれたままでいたい。そう誰かに言い訳をしながら、思いついたままの名を伝えるために口を開く。
「…ロッサ。」
スペイン語で薔薇。
あの日の出会いを忘れて、のうのうと手を差し伸べてきた初恋の男への当てつけの気持ちの現れだった。
そして、今に至る。
振り返れば何故こんなことをしてしまったのか、若干の後悔に襲われつつも、目の前の料理を口に運んだ。
流石色男。ムカつくほどに料理は美味しいし、手慣れている。
「考え事かな?」
「…ルナに初めて会ったときのこと、思い出してた。」
嘘はついていない。
そっか、とルナは笑う。胡散臭い。何考えてるか今だに分からない。
成り行きで始まってしまったこの関係も、もう片手では数えられないくらいになってしまった。未だロッサが冴だとバレていない。もしもバレているのならば、ルナはロッサなど呼ばないだろうし、仕事の場で会った時にでも話題として上がるだろう。
冴とルナは良い関係ではない。良い関係にあるのは、フリルのついた服でルナと食事を共にするロッサであるから。
なんて事考えながらした食事を集中できるはずもなく。だが、サッカー以外の話でも会話を広げられる大人の男に、経験豊富なのだろうな、と胸が少しだけ痛んだ。
キスもなく、ただ手を繋いで食事をするだけ。口説かれるというよりも、可愛らしい女の子を、ただ愛でているようなだけのデート。
今日もまた、タクシーで家の前まで送られて、ルナは「いい夜を」と言って頬を撫でるのに、くすりと笑って踵を返してしまう。
マンションの鍵を開けて、ふらりと靴を脱ぐ。なかなか靴を履いたままの生活は慣れないのだ。掃除も何も金を払えばどうにかなってしまう世の中で、我慢する必要などない。我慢しなくてもいいくらいの稼ぎはあるのだから。なのに満たされないのは何故だろう。いや、これは言い訳だ。理由なんてわかってる。
嘘をついてまで別の女を演じたのに、それ以上進めないことに悶えているのだ。自分自身の情けなさに呆れてしまう。
何となく虚しくなってしまい、そのままの格好でベッドに飛び込む。日本から持ち込んだ柔軟剤の匂いを吸い込んで、息を吐き出す。洗濯可能な枕に縋り付いたのは一種の理性だ。結果的にグレーのカバーには朝、自分とルナのために塗った花のような色のアイシャドウが少しついた。
早く脱がないと可愛い服もシワになってしまうし、化粧を落とさないとトラブルの原因になってしまう。
魔法は正しく解かなければ、糸師冴が崩れる原因となってしまうのだから、魔法も万能じゃないのだ。
スマートフォンに表示されるプライベートナンバーで態々メッセージを活用するのはルナだけ。
緑色のアイコンのメッセージアプリには糸師冴の痕跡が残りすぎているから使えるわけもなく。じゃあナンバーで、とメモ帳に書かれたルナのプライベートナンバー。登録した後も捨てられず、未だデスクの上に保管されている。女々しさに気持ち悪くなりそうだ。
このままだらけていても仕方がないと、スキンケアグッズを持ち、シャワー室に向かう。勿論、宝物達は、傷まないようにネットに入れて、母おすすめの洗剤で優しく洗えるよう洗濯機をセット。
できるだけゆっくり摩擦をかけず、オイルクレイジングをした鏡の向こうには、やっぱり愛想のない顔をしたただの冴が映る。
シャワーを浴びて、スキンケアをして。塩昆布茶を啜りながら、お気に入りのアーティストの曲を流す。一曲約4分半。聴き終わった後に魔法がかかる前の強い女に戻れるよう、静かに願う。
ぴろん。と鳴ったスマートフォンに表示されたメッセージ。こんな時間に誰だろう、マネージャーか?と思いつつ、バッググラウンド再生のままメッセージを開く。
「…さいあく。」
そのメッセージを見て、冴は悪態をついた。せめて魔法がかかっている間ならば、乙女らしい顔で受け取れたのに。
後ろのソファに背を預け、素直になれないが故に隠し事の一つになってしまった可愛らしいぬいぐるみを抱きしめる。これもまた、らしくないものの一つ。
感情の制御ができないというのは、ひどく厄介。こんなメッセージ一つで解かれ始めた恋心という魔法はすぐに顔を出してしまう。
【今日はありがとう。次はどこに行こうか。】
【また連絡するよ。】
【おやすみ】
図らずとも初恋を奪われた男からのメッセージに喜べばいいのか、可愛がられていることが自分ではない事実に傷付けばいいのか。
それとも、金銭を受け取っていないとはいえ、日本で言うところの援交紛いのことをしてる自分を恥じればいいのか、世界一になっていないのに恋心にうつつを抜かしていることを恨めばいいのか。
早い段階で孤独の女王様になってしまった冴にはわからない。分からないけど、今はただ嬉しくて…苦しい。
何も言ってくれなくていいから、凛を抱きしめて、抱きしめられて同じベッドで眠りたい。それだけで今、感じる痛みとかを忘れられて穏やかな気持ちで眠れる気がするから。だけど、自分で傷つけた妹にそんな甘いことを言えるわけがない。
一人で彩らなくとも可愛らしさの代名詞みたいなぬいぐるみを、きゅっと、抱え直した。