My hero is Mr.Seek!(前半戦)フィクションでもリアルでも、ヒーローが追いかけるのはヒールと相場が決まっている。
例えば街中でヒーローの追跡を振り切ろうとする奴を見かけたならば。何も迷うことはない。十中八九、そいつの正体は敵と断定できる。ベーカー街に住む世界で唯一の民間諮問探偵でなくたって導き出せてしまえる初歩的で簡単な推理だ。
しかし、時代を超えて受け継がれている先人からのありがたい教えの中には、こんな諺もある訳で。
───"Every rule has its exception."
何も悪いことをしていないのにヒーローから付け回される。それは、十人いれば十五人が「酷い目に遭ったね」と声を揃え、うち三人くらいはコーヒーを一杯奢ってくれるほどの災難だ。
ヒーローや警察に探られると激痛が走る腹を持っていた頃の自分なら、「一ユールの稼ぎにもなんないのに街中走り回るだなんて、真っ平御免だね」と舌を出したに違いない。運び屋の足を使わせるからには、きちんと運送料を支払ってもらわねば。何なら営業妨害やら精神的苦痛やらと難癖をつけて慰謝料を追加請求するくらいのことはしたと思う。
それに、犯罪の片棒を担いでいたのは昔の話。しがないチンピラから大手航空会社のパイロットへと華麗なる転身を遂げたロディ・ソウルは、今やすっかり真っ当な人生を歩んでいる。シンデレラもビックリのサクセスストーリーだ。清く正しく美しくと胸を張れるほど良い子ちゃんではないけれど、疚しいことや後ろめたいことには手を出していない。かつての素行不良と比べれば、随分と丸くなったものだ。
だというのに、運び屋として盗品や密輸品をせっせと配達していた頃よりも、パイロットとしてお客様に快適で楽しい空の旅を提供している今の方が、ヒーローから逃げ回る頻度が格段に増えている。
チョコレートの箱にも例えられる通り、人生ってのは、開けてみるまで中身が分からないようにできているらしい。
*****
理想は、一定のリズムで奏でられる「ずるずる」という音。
このテンポと勢いを失速させずに維持し続けなければならない。そして最後の仕上げに、麺の端を「ちゅるん」と小気味よく飲み込む。オーケー、脳内シミュレーションはバッチリだ。
ロディは、神妙な面持ちでテーブルに置かれた箸立てから割箸を一膳引き抜いた。そっと箸袋を外し、横向きに構えた割箸を上下に引っ張れば、溝に沿って真っ二つに割れる。オセオンではまず耳にすることがないパキッという竹の割れる音は、何度聞いても飽きることがない。軽やかな響きは、これから日本食を食べるのだという合図に他ならず、いつだってロディの心を躍らせてくれた。
左右よりも上下の方向に力を入れた方が、持ち手部分が均等に裂けやすいとは、日本の若手ヒーロー逹が集う呑み会で仕入れたネタだ。たかが構え方一つでそんなにも変わるものなのかと今の今まで半信半疑だったのだが、どうやらガセではなかったらしい。しかも切り口は滑らかで、ささくれ一つ見当たらないときた。今度、デンキに会ったらお礼を言っておこう。
幸先のいいスタートを切ったところで、いざ、尋常に勝負。
ロディは灰色の麺を箸で摘まみ上げると、口元に運んだ。出汁に濡れててらてらと光沢を放つ蕎麦からは、白く揺らめく湯気がこちらの食欲を刺激するように立ち上っている。ゆっくりと息を吹きかけること数回。火傷をしない温度になった頃合いを見計らって、麺を頬張る。先ほど脳内でイメージした通りに、ズズッと音を立てたところで───ロディは盛大に噎せ返った。
蕎麦を啜ろうと挑戦すること七回目。
喉に詰まって咳き込むのも七回目。
人知れず、うどんやラーメンでも試した回数を含めれば、喫した黒星は十指に余る。
おかしい。結局いつも通り、麺を一口ずつ嚙み千切りながら咀嚼することにしたロディは、心の中で頻りに首を傾げていた。おかしい。どうしてこんなにも壊滅的に啜れないんだ。
手先は器用な方だと自負している。
パスタ続きになっても飽きが来ないようにとソースにアレンジを加えて。服が破れれば針と糸で縫い合わせて。可愛い姫君の望むままに髪を結い上げて。齢十二の時から今日に至るまで、料理掃除洗濯裁縫と家事の一切合切を担ってきた実績は伊達ではない。
日本の優秀なヒーローが三人集まり、知恵を出し合ってもうんともすんとも言わなかった難解なパズルを瞬く間に解いたのだって、ロディである。まぁ、これに関しては、パズルの製作者が父親だったというアドバンテージが大きく、全くの初見であれば「オープンセサミ」に代わる便利な魔法の呪文はないものかと一緒に首を唸っていたような気がするけれど。
コツを掴むのも早い方だ。何の伝手もなく手探り状態で始めた運び屋稼業だって、危険な仕事から身を引き、真っ当に働くことにした酒場のアルバイトだって、持ち前の呑み込みの早さがなければ、役立たずの烙印を押されてとっくに首を切られていただろう。前者は物理的な意味で、後者は社会的な意味だ。
口の悪いスタンリークは、接客業で生計を立てているとは俄かには信じがたいほど、愛想がない。一言目には「減給されたくなきゃ口答えするな」、二言目には「文句があるなら辞めちまえ」、虫の居所が悪ければシンプルに「リストラすんぞ」と八つ当たりをしてくる。一々真に受けていては身が持たないので、話半分に聞き流すのがこの偏屈親父との正しい付き合い方なのだが、どうやらロディの先輩方は皆、ガラスのハートの持ち主だったらしい。
常連客によれば、スタンリークの人使いの荒さに音を上げた従業員が最後に一矢報いようと辞表を叩きつけるのが常で、円満退職したロディはすっかりネッシーと同じ扱いを受けている。勤続年数最長記録を大幅に更新し、暫くの間は塗り替えられる心配もしなくていいと太鼓判まで押された。そんなローカルすぎる範囲でしか通じない記録保持者になったところで、履歴書を賑わすネタの一つにもなりやしない。売れば金目になりそうなメダルかトロフィーあたりが貰えるというなら話は別だが、「武勇伝として後輩に語り継いでおいてやるよ」という申し出をロディは謹んで辞退させていただいた。案の定酔っ払い共からは「ノリが悪い」とブーイングの嵐が発生したが、考えてもみろ。とっくの昔に職場を去った人間と比較され続けるだなんて後輩が可哀相すぎるし、離職サイクルがますます短くなりかねない。
確かに、スタンリークのバーは薄給激務のブラックな環境だった。それは紛れもない事実なので擁護することはできないし、するつもりもないし、何ならどれくらい加重労働させられてきたか、三日三晩語り聞かせてやったっていい。
けれど、真っ当な職に就けず、社会から爪弾きにされたロディに働き口を与えてくれたのも、あの店だった。
何度も自宅に招き、一緒に庭を駆け回った友達。頭を撫でて可愛がってくれた隣人。母親を早くに亡くし、父子家庭を気にかけてくれていた学校関係者。
誰も彼もが、父親がヒューマライズの団員だったと知るや否や、掌を返した。ある者は明確な悪意をぶつけ、ある者は腫れ物を扱うかのように遠巻きに眺め、ある者はソウル家と関わっていては自分にも害が及ぶとロディ達を切り捨てた。
信頼していた人間から軒並み見放された中、ぶっきらぼうながらにロディが自らの足で立っていけるよう、手を貸してくれたのは、頭頂部が寂しい偏屈親父だけだ。年端もいかぬ子供に犯罪紛いの仕事を斡旋した挙句、高い紹介料をぶん捕ってくるのはどうかと思うが、あのしみったれた酒場がなければ、ソウル家はとっくにくたばっていただろう。
良くも悪くも、思い入れの深い場所。早々に潰れられては、寝覚めが悪い。長続きしてもらうためにも、少しでも働きやすい職場環境へと改善してから立ち去るのが、世話になったロディにできる最後の恩返しだった。ちなみに、ロディが使っていたバックヤードのロッカーの天井には「がらっぱち店長の取扱説明書」と題したメモ用紙を張り付けてある。次にあのロッカーを使う新入りが有効活用してくれることを願うばかりだ。
要領が良く、何事もそつなくこなす。それが、自他ともに認めるロディ・ソウルの人物評だ。
恐らく練習を重ねれば、欧米人の憧れの的でもある折り鶴だって習得できるだろうと踏んでいる。
日本の伝統文化の一つとして、ヨーロッパでも折り鶴の知名度はそれなりに高い。とはいえ、夏の時期に原爆と絡めて紹介されることが多く、てっきり鳩同様、平和のシンボルなのだと思っていたけれど。
千羽鶴はお見舞いの定番なのだとロディに教えたのは、日本行のフライトで羽田空港に着いたばかりの若い副機長を出迎えてくれた、かつて一緒にヒューマライズの根城へ乗り込んだヒーロートリオが仲良く入院しているというニュースだった。一日でも早い回復を―――空港のロビーに鎮座するテレビ画面に、彼らのファンの祈りが込められた千羽鶴が映し出されるや否や、ロディの指はスマートフォンで「how to fold origami cranes」とメイキング映像を検索していた。
流石に日本語で説明される動画を頼りに独学で頑張るには限度があったため、時折呼ばれるジャパンヒーローの呑み会の席で、紙ナプキンや箸袋を教材代わりにして折り紙の練習に励んでいる。分かりやすく指導してくれるツユ先生のおかげで、今や、一分もあれば箸袋でウサギの箸置きを作れるまでに上達した。
パリポリ、と軽快な音を立てながら、小鉢を彩る柴漬けと沢庵を摘まむ。
ピクルスと似たような食べ物なのに、日本の漬物を食べていると無性に白米をかき込みたくなってくるのは何でなんだろう。単品ではなくライスつきのセットを頼めば良かったかもしれない。今からでも追加注文すべきか。でも、この後には草餅やどら焼きの食べ歩きが控えている。ロディが食べ残したものをペロリと平らげてくれる頼もしい残飯処理係も、今は不在だ。
うぅんと悩みながら、手慰みに箸袋を折っていく。机の上に小さなウサギがちょこんと澄まし顔で佇む頃には、小鉢は空っぽになっていた。おまけに、左の袖口からは、ピィと小さな催促の声が上がる。オーケー、ピノ。白米はまた今度にしよう。
ロディは、壁にズラリと貼られたメニューに視線を移す。墨で書かれた文字は酷く特徴的で、ある程度日本語に馴染んできたロディをもってしても、ろくすっぽ判読できない。読みにくい字とはすなわち、下手な字ということではないかと思うのだが、これはこれで味のある芸術作品だそうだ。ギョーショだったか、クズシジだったか、ジャパニーズアルファベットの筆記体は奥が深い。
お品書きの紙に並んで、新品の額縁に飾られた色紙を見つけ、思わず口元が緩んだ。たまたま任務先で見つけた蕎麦屋が旨かったと、ロディにこの店を教えてくれたヒーローのサイン。ロディが本日のランチにここを選んだのは、蕎麦好きの舌を唸らせたという逸品を味わうため、そして女将にお願いされて書いてきたというサインを見るためだった。メニュー表の張り紙と比べると書体のデザイン性に欠けるものの、その分読みやすさの面では勝っている。やっぱり、何て書いてあるのか伝わんねぇと文字の意味がないよな、とロディは人知れず頷いた。
目当てのサインをじっくり堪能した後、そのままさり気無い仕草で店内を見渡す。
この蕎麦屋の主な客層は近隣住民といったところで、先程から来店する客の殆どは「いつもので」の一言で注文を済ませていた。ちらほらと見かける若い女性のグループは、大方ショートのファンに違いない。額縁にスマートフォンを向けているのが何よりの証拠だ。
地域に根差したこじんまりとした個人経営店。少なくとも、見るからに自分達のそれとは異なる彫りや肌色を持つ男が一人でフラッと立ち寄るなんて事態は、非日常なのだろう。入店当初は店員や他の客からの好奇の眼差しが遠慮なくロディの全身に突き刺さった。
けれど、今では向こうもロディという異質な存在に慣れてきたようだ。自分の一挙手一投足に対し、注視している気配はない。まぁ、ランチタイムは大事な書き入れ時だ。ここでがっぽり稼いでおく必要がある。いつまでも外国人客にかまけている暇はないのだろう。
ロディは蕎麦を一本、割り箸で挟むと、先ほどまで漬け物が入っていた小鉢に落とした。滑りやすい麺類だって、この通り。難なく摘まめるくらいには箸の使い方も上手になった。折り紙の腕前に関しても、「もう折り鶴だって折れると思うわ。次の呑み会のときに折り紙を持ってくるわね」とお褒めのお言葉をいただいた。なのに、啜るのだけはいつまで経っても上手くいかないのが、どうにも歯痒い。
無造作を装ってテーブルの上に置いた左手を小鉢に近づけると、モッズコートの左袖がゴソゴソと動き出した。そして、袖口から飛び出た小さな嘴が蕎麦を丸呑みにしていく。ピィ、と更なるおかわりを要求されたロディは、しゃあねぇなぁ、と焦げ茶色の出汁に浮かぶ蕎麦をもう一本掬い取った。
飲食店は、原則衛生管理を徹底するものだ。アルコールさえ浴びれるならそれで良いという客が大半を占めるかつての職場の経営者ですら、食中毒には神経質のきらいがあり、厨房の整理整頓及び掃除清潔とそれらを厳守するよう従業員への躾に煩かった。
スタンリークの酒場では小鳥が元気に飛び回っていても、誰も気にしなかったが、日本の飲食店ではそうもいかない。犬一匹連れて入るだけでも、盲導犬や介助犬の類かどうかチェックを受ける。インコやフクロウを肩に乗せたまま、優雅にコーヒーを啜る客なんて、鳥カフェでしかお目にかかれない。
ピノはロディの個性だ。厳密には動物とは違う生き物、だと思う。ちゃんとした研究所で調べてもらった訳ではないから、ロディの経験に基づく憶測ではあるものの、全くの的外れではないはずだ。
派手なピンク色をした鳥類で自然界に実在するものと言えば、フラミンゴくらいしか思い浮かばないが、ピノとは明らかに系統が異なる。そもそも、鳥類の足の指は基本四本なのに対し、ピノは二本だ。鳥の形を模した個性生命体───人語こそ話せないが、フミカゲのダークシャドウと同系統の存在なのだろう。
とは言え、初対面の店員にペットではなく個性だと一々説明するのも面倒だし、ピノが自分の本心を表しているとバレるリスクは少しでも避けておきたい。
結果、飲食店に入るとき、ロディはいつもピノをこっそり袖口や首筋に隠すようにしている。気分は、空港の税関に麻薬を持ち込む運び屋さながらだ。
店員や客の目を盗んで蕎麦を小鉢によそい、蕎麦を啄むピノに頬を緩ませつつ、ほうじ茶を飲む。蕎麦そのものは美味しくて好きなのだけれども、喉が無性に渇く欠点だけはどうにか改善してほしい。食べ歩きがてら、水か茶でも買っておこうか。少し外を出歩いただけで自販機やコンビニを見つけられるのも、日本ならではだ。オセオンではこうはいかない。無防備に路上に自販機を設置しようものなら、中の商品も有り金も全部盗み出されている。
───本当に、ここは治安のいい国だよなぁ。
それもこれも、ヒーロー達が、市民の平和な日常を守るべく日夜奔走しているからに他ならない。
満足気な短い鳴き声が袖口から聞こえて、我に返る。残りの蕎麦を完食し、「ごちそーさまでした」と手を合わせて、会計を頼もうと腰を浮かす。その直後。嫌というほど耳に馴染んだ単語が飛び出た―――「ヒーローデク」。
考えるより先に、咄嗟に目が音の出所を探していた。発生源は、壁にかけられたテレビ画面。コウモリのような翼を背中に生やした敵と、それを追いかける緑の閃光による白熱したエアレースが繰り広げられている。
どうやら、舞台は駅前ならしい。立ち並ぶ商業施設や高層ビルの合間を縫うように二つの影が高速で飛び回る。報道陣は地上から生中継しているようで、カメラのアングルは常に下から見上げるものばかりだった。おまけに距離があるのか、ズーム撮影でも表情はおろか、負傷具合も確かめられない。大怪我をしていなければいいけれど。するとしても、自分が日本に滞在している間に一回くらいは見舞いができる範囲に抑えてもらいたい。面会謝絶レベルの重傷だと、恋人にキス一つできないまま、オセオンに戻ることになってしまう。
中腰の姿勢で固まっていたロディは、再びストンと椅子に座り、テレビ鑑賞に勤しむことにした。長居をするつもりはない。この捕り物劇が無事ハッピーエンドで締めくくられるのを見届けるだけだ。とは言え、元酒場の従業員としては、追加注文する訳でもないのにダラダラと席を占領する客が迷惑でしかないことは重々承知している。しかも、一度は席を立ちかけた。
―――一番安いデザートでも頼んどくか?いや、でも達筆すぎて品書きが読めねぇんだった。
ちなみに、蕎麦屋なら十中八九「ざる蕎麦、一つ」もしくは「掛け蕎麦、一つ」と言えばそれで通るとショートから教わった魔法の言葉のおかげで、解読不能なメニュー表を前にしても問題なく蕎麦を注文できた。
うぅんと唸りながら、店内の様子を窺えば、誰も彼もが固唾を飲んで食い入るようにテレビに熱中していた。ショートのファンと思しき女性のグループの一人は、瞬きする間も惜しいと言わんばかりに凝視して、手をぎゅっと握り締めている。よくよく見れば、その爪を綺麗に彩るのは深いビリジアン。そういや、どこぞの化粧品メーカーとタイアップしたと話していたような。コスメと言うから、アイシャドウやリップスティックに違いないと決めつけていたが、まさかマニキュアだったとは。
航空会社に転職した今、もう厨房仕事に携わることもない。あの色合いなら、メンズネイルとしても使い勝手がよさそうだ。今回の自分への日本土産はこれで決まった。恐らく、ショートファンの友人の付き添いで来たであろう同志に、心の中でThanksとお礼を伝える。
どこのブランドのマニキュアなのか調べ終わった頃には画面越しの事件は解決しているだろうというロディの予想に反して、スマートフォンから顔を上げてもまだ敵はヒーローに捕まっていなかった。
何を手こずっているんだか。ロディは思わず下唇を突き出した。純粋な追いかけっこで一番手を焼かされたのはオセオンのしがない運び屋だったと言っていた癖に。そのチンピラだって、最後には捕まえてみせた癖に。「Pi~」とピノも小さく不服を申し立てている。そうだそうだ、エアフォースでさっさと仕留めちまえばいいものを。出し惜しみしてんじゃねぇ。
相も変わらず、人影はゴマ粒のように小さい。目を凝らしてみるが、解像度の壁に立ち阻まれる。ドローン空撮しろよと舌打ちを零したタイミングで、敵がカメラマンの頭上を通過した。僅かな瞬間ではあったが、アップで映し出された敵の腕に抱きかかえられているものがはっきりと映る―――幼い少女だ。
ああ、なるほどね。どうしてこんなにも苦戦を強いられているのか、ようやく得心した。人質を取られている訳だ。ヒーローへの対抗策としては王道にして鉄板と言える。
それを踏まえると、敵も中々立ち回りが上手いらしい。先ほどから、ヒーローデクの射線に対して、人質が盾になるような位置取りを徹底している。エアフォースなんて大技を繰り出せば、確実に少女にも当たってしまうだろう。
おまけにこの高度。少女が空中に放り出されたとき、万が一にもクロムチでの救助が間に合わなかったら。垂直に切り立った断崖絶壁から真っ逆さまに落ちたことがある経験者には、その時の絶望感が痛いほどよく分かる。あ、死んだわこれ、と自分が助からないことを直感で悟った後、数瞬遅れて恐怖が襲ってくるあの浮遊感。百万ユールを積まれたって、二度と体験したくない。いや、そもそもできることなら一度だって体験したくはないんだけども。
あの時は落下するロディの身体を氷が受け止めてくれたおかげで、九死に一生を得ることができた。当時の情景を脳裏に思い描いていると、あたかもロディの思い出に呼応するかの如く画面の向こう側にも巨大な氷の壁が出現し、敵の前方に立ち塞がるではないか。無様に激突することこそ避けたものの、急停止を余儀なくされた敵が、咄嗟に踵を返したところで、緑の閃光が眼前にまで迫ってきていることに気がついたらしい。敵の表情は見えないが、盛大に頬を引き攣らせているはずだ。地下鉄に乗っても振り切れなかったそのヒーローのしつこさは、ロディもよく知るところなので。
最後の悪足掻きのつもりか、敵は人質から手を放し、自身は翼を力強く羽ばたかせて急上昇した。その判断自体は、それほど悪手ではない。人助けをモットーとするヒーローは、どうしたって人命救助を優先させる。ヒーローデクが少女の安全確保の方に体が動くのは当然だった。大方、その隙をついて逃げる算段なのだろう。
急ごしらえにしては、悪くない判断だ。しかし、それが通用するのは、あくまでヒーローが一人だけのとき。複数のヒーローを相手取るとなると、話は変わってくる。
あれだけ高くて長い氷の城壁を作れる場所なんて、建物が密集する市街地では限られてくる。最低でも四車線の道幅がある国道くらいのスペースは欲しいところだ。そう考えると、ショートが待ち伏せしていたポイントにデクが上手く誘導したという訳で。つまり、敵はまんまと追い込み漁の策中にはまっていたのだ。
そして人質という防具を捨てた敵など、手加減せずに火力全開の攻撃をぶち込めるいい的も同然。
これらが何を意味するかというと―――。
「ハウザーインパクト」
―――敵よりも余程敵らしいニヒルな笑みを浮かべるカッチャンこと、ダイナマイトの声と派手な爆発音が響き渡るというお決まりの展開によって、捕り物劇は幕を閉じた。
その瞬間、静まり返っていた蕎麦屋の店内が、一気に黄色い歓声と野太い雄叫びと拍手喝采で沸き立つ。
サラリーマンと思しきスーツ姿の集団が景気よく「生、四つ!」と叫んだ。昼休憩に飲酒して大丈夫なのかと他人事ながらに心配していれば、一番若そうな男が「すみません、俺達は今日はこのまま午後休取らせてもらいます」と会社にお伺いの電話をかけていた。流石は、ストライキやサボタージュで交通機関が乱れないお国柄。とんでもなく真面目で呆れるほどに律儀だ。それを皮切りに、店のあちこちでアルコールやら肴の天ぷらやら追加注文が飛び交う。どこかスタンリークの酒場を彷彿とさせる雰囲気に、懐かしさがこみあげてくる。あの飲んだくれの乱痴気騒ぎと比べたら、百倍はお上品だけども。
テレビは、依然として事件現場をライブ放送している。頬を上気させるリポーターの実況中継は早口で、外国人のロディには聞き取るのが少しばかり難しかった。しかし、言葉は分からずとも、その内容がヒーロー達の連携プレーへの尽きることのない賛美であることは伝わってくる。
ロディは視線を店内からテレビに戻した。黒焦げになった翼は飛行能力を失ったらしい。いや、あの爆撃をまともに食らったのだから、気絶したのかもしれない。落下する敵の身体をクロムチが危なげなくキャッチする。
そのまま地上で待機している警察に敵の身柄を引き渡したデクは、左手で抱き抱えていた少女をそっと地面に下ろした。膝を突いて少女と目線を合わせると、一言二言唇を動かし、安心させるように微笑む。流石に二人の会話まではガンマイクも拾えなかったようだが、多分、かけた言葉は「もう大丈夫だよ」辺りだ。ついでに、もっと言い当てるなら、宙に投げ出された人質を抱き留めたときには、「僕が来た!」の決め台詞を言ったに違いない。それも、とびっきり優しく、頼もしい声で。ほら、見ろ。チークのお世話になることなく、女の子の頬に紅が散っている。ショートもだけど、ヒーローの癖に、いたいけな少女の初恋を軽率に泥棒していくのはいかがなものか。全く、罪作りなヒーローもいたもんだ。
敵はお縄についた。人質も無傷。ヒーロー達にも特に目立った外傷はなさそうだ。絵に描いたような典型的なハッピーエンドの結末に満足したロディは、VネックTシャツの胸元にかけていたサングラスを顔の定位置に戻した。
伝票が挟まれたバインダーを片手に立ち上がり、モスグリーンのロングコートを翻して、今度こそレジに向かう。
そして「すみませーん」と声を張り上げる。「お会計お願いしまーす」
「はいは~い」と伸びやかな声と共に厨房から出てくるのは、恰幅のよろしい着物姿のレディ。若い店員とは意匠の異なるエプロン───確か、カッポーギという名前だった───を着ている。恐らくショートにサインをねだったという例の女将なのだろう。「お待たせしました」というテンプレートの返事は、次第に尻窄まりになっていく。会計待ちの客が、いつもの常連客でもなければ、日本人でもなく、例の外人だと気がついたからだ。
動揺の余り、皺に囲まれた黒目が右へ左へ忙しなく泳ぎ、視界の端で高校生と思しきバイトの少年を捉えるや否や、「エイちゃん、ほら!代わって頂戴!アタシャ、英語は無理なんだよ」と手をすり合わせて懇願する。エイチャンとやらも頭が吹き飛びそうな勢いで「いやいや、俺の英語の成績クソですって!」と首を横に振った。
「特別ボーナス出すからさ」「……具体的には?」「今日の賄いに出来立て唐揚げをオマケしてあげる」「俺のボーナス、税込みワンコインっすか」
テンポのよい掛け合いの末、押し切られる形でレジ打ちを交代させられたバイトの少年は、絶望に打ちひしがれている。やけくそで「お客様の中に英語が分かる方はいらっしゃいませんか」と常連客に助けを求めるが、「ファイト!」やら「根性見せろ~!」やら、何の役にも立たない応援や野次が返ってくるだけだった。
前の職場で酔っ払いに弄られていたかつての自分を見ているような気分になってきて、途方に暮れるエイチャンに「英語が喋れる日本人をお探しのようだけどさ」と話しかける。「簡単な日本語の会話なら通じる外国人で良ければ、アンタの目の前にいるんだけどなぁ~?」
きょとんと目を丸くさせるエイチャンは、「えっ……俺、今、外人さんが何言ってんのか、理解できてる……すげぇ……」と呟いた。そりゃそうだろう。そもそも、「すみません」も「お会計お願いします」も「掛け蕎麦、一つ」も全部日本語で話したのだから。
エイチャンは興奮気味に「日本語、お上手ですね!」と目を輝かせ、前のめりに上半身を乗り出した。間にレジがなければ、勢い余って頭突きの一つでもかまされていたかもしれない。
素直な反応に、ふふん、とロディの鼻も高くなる。日本語検定二級の認定証はお飾りではない。ちなみに、一級はネイティブの日本人でも時には落ちるほどの難易度だと聞きかじったため、受ける予定は特にない。翻訳家ならともかく、パイロットに求められる語学力なんて、日常会話レベルくらいのもの。社内で一番日本語に能弁という肩書きを手に入れれば、それで十分。漢字はまだまだ覚束ないけど、カタカナとひらがなは完璧にマスターしているし。おかげで、恋人のTシャツに何が書かれているのかも理解できるようになった。予想を遥かに裏切る内容の薄さに、判読成功の感動がちょっと萎んでしまったのは、ここだけの話である。
バインダーを受け取った店員が伝票の内容をレジに打ち込み終える前に、ロディは「ここって、テイクアウトしてる?」とお喋りを再開させる。
「テイクアウトは、ツマミだけなんですよ。大将がこだわり強くって。蕎麦は伸びて味が落ちるから、テイクアウトは駄目だって聞かないんです。同じ理由で出前もやってません」
「成る程ね。じゃあ、冷めてもおいしい大将ご自慢の料理はどれ?」
「味噌田楽ですかね。門外不出の秘伝の味噌なんだとか。お客さんの中には、蕎麦よりこっちが目当てのリピーターもいるくらいで」
「なら、それを一人分追加しといて。あと、予約もできる?」
「あ、はい。受け付けてますけど」
「色紙はすぐに用意できそう?」
「確か、前に買ったときの余りが何枚か……」
Alrightと指を鳴らす。必要なものが粗方揃っているなら、早速仕込みに取りかからねば。
ムカデが体をくねらせたようなお品書きは読めないが、日本行きのフライトを任されて早数年。独特を極めた日本料理の理解もだいぶと深まってきた。そう、若いサラリーマンがかき込んでいる丼の名前を言い当てるくらいのことは造作もない。「じゃあさ、この伝票にカツ丼セット一人前も追加しといて」
蕎麦とカツ丼。麺料理と丼物の組み合わせは、一見すると共通点皆無のような印象を受けるが、実は同じ出汁を使って作られているらしい。だから、旨い蕎麦屋で出されるカツ丼は大概外れないのだと、ショートから教わった。
つまり、このお店のカツ丼は確実に美味しい。一口たりとも食べちゃいないが、ロディには分かる。十万ユール賭けたって良い。
ランチにソバを食べたばかりの客が、カツ丼なんていうボリュームのある料理を予約する。何とも奇妙な話だ。
エイチャンが戸惑うのは勿論のことながら、周囲もこちらのやり取りに聞き耳を立てているらしく、息を潜めている。
できれば、テレビと肴に熱中していてほしかったのだが、こうも注目を集めてしまったのなら仕方がない。周りが他のことに気が取られているうちに、ササッとサプライズの下拵えを済ませる隠密作戦から、後でフォローを入れるプランBに作戦変更だ。
ロディは、わざとらしく、ンンッと喉の調子を整えてから、誰もが聞き取れるように明瞭な発音で備考項目を付け加えた。
「そんで、ヒーローデクが来たら、出してやってくんない?」
「あ、はい。ヒーローデクにカツ丼を……って、えぇデクが来るんですかうちの店に」
素っ頓狂な悲鳴が響き渡る。それに置いていかれてなるものかと言わんばかりに、黄色い悲鳴と野太いどよめきも後に続いた。
良いことも、悪いことも、全てのことは三度あると言うくらいだ。既にこの蕎麦屋にはプロヒーローが来店したのだから、他のヒーローが立ち寄ったっておかしくないはずなのだけれども。
デク本人が現れた訳でもないのに、この盛り上がりよう。ショートがアポなしで藍色の暖簾をくぐった時は、一体どれだけのお祭り騒ぎになったのやら。
店員の目線は、ロディとテレビを行ったり来たりしている。言わずもがな、画面には今回の功労者達が大きく取り上げられていた。しかも生中継。彼が何を思っているのか、手に取るように分かる。
現在進行形でテレビの向こう側にいる有名人が本当に自分のバイト先に現れるのかという疑惑と、そもそも目の前にいる外国人はデクとどういう関係性なのかという疑問。エイチャンのみならず、この場に居合わせた全員の総意だろうが、ロディはあえて空気を読まず、「今日の営業時間内には来っから。折角用意したカツ丼が無駄になるかも~なんて心配はしなくていい」と太鼓判を押した。言っておくが、その日暮らしのスラム育ちは、貴重な食べ物で遊ぶような真似は絶対にしない。ロディがカツ丼を賭けたということは、つまり、己の勝ちを確信しているということだ。
実際、応援要請で呼ばれただけで、今日は元々休日だった。その証拠に、ヒーロースーツを身にまとうショートとカッチャンに対し、デクは私服姿である。ちなみにYシャツを飾るのは、ジャパニーズアルファベットではなく、グレーとネイビーのストライプが交差するチェック柄。頼れるコーディネーターこと、A組の皆様のアドバイスがいい仕事をしたと見える。
警察への引き継ぎはあそこの区域を担当してるヒーローが引き受けるだろうし、マイク片手に殺到するマスコミの対応はカッチャンとショートが捌いてくれるはずだ。ヒーローといえど、正装を解いているなら、プライベートの時間は守られてしかるべきなので。捕り物さえ終わればすんなりと解放されるっしょ、というのが今までの経験から導き出したロディの見立てである。
とは言え、こちらにとっては根拠立った論理的推察だとしても、エイチャンからすれば眉唾物同然の胡散臭い予言に聞こえるだろう。信憑性の薄っぺらさなら、酔っ払いの戯言とどっこいどっこいだ。
別に、ロディ自身は、与太話として受け取ってもらおうが、話半分に聞き流してもらおうが、一向に構わないと思っている。恐らく一期一会であろう相手に疑いの眼差しを向けられたところで、痛くも痒くもない。
ただ、カツ丼の代金はきっちり引いておいてもらわないと困る。ヒーローに無銭飲食の罪を着せる訳にはいかないので。
釣りは要らない、と万札を叩きつけられたら問答する手間を省けるのだが、生憎カード払いだ。お釣りは出ない。
パイロットとして色んな国に数日ほど滞在する生活を送っていると、フライトの度に現地の紙幣を調達する手間や、貯まっていく端数の小銭の管理が億劫になってくる。外貨両替機でもどうせ手数料が取られるなら、いっそのこと国際クレジットカード一枚に集約してしまった方が効率的だ。そう下した自分の決断は基本的に間違いではなかったと思うけれど、こうした場面においては、キャッシュレス決済が推し進められる時流でも、やっぱりアナログな方が便利なこともあるもんだと痛感する。
お代をちょろまかそうとしているのではないのだから、どう転んでも向こうに損は出ない商談のはず。さっさと了承してくれと焦れったくなる。
その一方で、本当にデクが来訪したとして、この場にいない外国人からあなたへのプレゼントを預かっています、とカツ丼を提供すれば、デクに怪訝な顔をされるのではないかと危惧したくなる彼の気持ちとて、全く分からない訳ではない。
仕方ない。ここは、魔法の言葉を授けてやるか。ロディは腕を伸ばし、少年の肩をポンポンと軽く叩くと、「大丈夫大丈夫」と笑みを浮かべた。「Mr.Hideからの差し入れですって言えば、伝わるからさ」
その瞬間、女性グループから「え、まさか、オセオンハニー」と驚愕の声が上がる。それを皮切りに、他の客も「デクのパートナーって噂の」「嘘だろ、本物」と色めき立つ。最早、聞き耳を立てていたことを隠そうともしない外野に肩を竦めたくなる。しかし、説明する手間が省けて助かったのは紛れもなく事実だし、ヒーローのお相手が無愛想だと思われても世間体がよろしくない。ロディは後ろを振り向き、軽く手を振り返す。更に舞い上がる店内。全く、俺も有名人になったもんだ。袖口からコートのポケットに移動したロディの分身は今頃、顔を赤く染めて縮こまっているに違いない。
ロディの個性は嘘が付けないものだが、すぐ顔や態度に出てしまうデクもまた壊滅的に嘘が下手くそだった。
ヒーローという職業に身を捧げている限り、人気が出れば出るほど、知名度が上がれば上がるほど、マスコミから飯の種にされることはある程度覚悟しておかなければならない。「理想のタイプは」に「どんな人が好きですか」といった軽めのジャブから始まり、「恋人はいますか」やら「現在、お付き合いしている方は」などの無粋な詮索に熱を上げ、果ては捏造してまでこしらえた熱愛報道や浮気現場の写真を突きつけてくる下世話なゴシップは、馬に蹴られることなんてちっとも恐れちゃいない。
人の恋路に余計なスパイスをドバドバ振りかけてくる矛先は、当然デクにも向けられた。そして、挨拶代わりの「恋人にするならどういったタイプが好みですか?」というありきたりな質問にすら、挙動不審になる奥手なデクが答えやすいように、「髪は長い方が好きですか?短い方が好きですか?」と選択式を採用した。赤面したデクはどもるばかりで、遅々として進まないインタビューにじれたマスコミ側による苦肉の策だが、結果を言うとこれが功を奏した。「どんな髪型でも似合うし、本人の自由だとは思いますけど、長ければ長いほどこの世に存在する体積が増えるので、そういう意味では長い方が僕としては嬉しいというか、単純に髪を切ってほしくないというか」とリポーターのことなど放り出して早口でまくし立て始めたのだ。タイミングがいいのか悪いのか、その数日前に、ロディが美容院の予約を入れようとしてひと悶着起こしたホットな話題であるという点も、デクの語りに熱が入った要因の一つだろう。ちなみに、この一件は、最終的に傷んだ毛先を数センチだけ切るという折衷案に落ち着いた。
質問そのものに対する回答としてはややピントがずれているものの、その内容は妙に具体的でリアリティが感じ取れる。ピンときた有能なリポーターはそのまま、「一緒に暮らすなら、料理上手な子と掃除が得意な子、どっちがいいですか?」やら「理想の恋人は、年上ですか?年下ですか?」やら、同様の選択式でインタビューを続行した。デクはデクで、実名さえ出さなければ恋人の存在が発覚することはないとでも高をくくっていたのか、これまた惚気にしか聞こえない回答を長ったらしく語った。自分の好きな分野に関しては前のめりなマシンガントークが止まらないオタクの習性が見事に発揮されたわけである。
こうして完成した雑誌の記事は、当の本人でさえ、これは本当にロディ・ソウルのことを念頭に置いた返答なのかと首を捻ってしまうほどに、やたらめったら美化されたものだった。でもまぁ、理想のタイプと実際に好きになるタイプは違うとよく言うし、そういうことなんだろうと結論づけたロディだったが、ジャパニーズヒーローの呑み会の席にて「あの記事、ロディへのラブレターを全世界に向けて公開してるようなもんだったよな」だの「ラブレターというより、ただの恋人自慢だろ」だの「あんまり緑谷のこと、甘やかしちゃダメだよ!デートすっぽ抜かされたなら、ちゃんと怒らないと!」と代わる代わる酒を注がれまくった。どうやら傍目に見れば、ちゃんとロディのことだと分かる文面なようだが、それはそれで恥ずかしい。その日のロディは、さっさと酔い潰れることに決め、豪快にジョッキを煽った。
本人は隠し通せているつもりなのだろうが、匂わせなんて可愛いものではない爆弾発言の数々に、ファンの間でヒーローデクに恋人がいるという情報はあっと言う間に共有された。それでも、ロディがいたって穏便に日常を送れているのは、どうやらお相手は一般人のようだから、プライバシーを尊重しようというファンの皆様の善意によるものだ。類は友を呼ぶという通り、お人好しヒーローのファンもまたお人好しならしい。
かくして、ヒーローデクの恋人は、公然の秘密扱いとなったのである。と言っても、色恋沙汰にはどうにも脇が甘いデクのせいで、マスコミやファンが詮索するまでもなく、その恋人は髪が綺麗で、家事全般が得意だが特にパスタ料理が絶品で、ヒーローを翻弄するほど逃げ足が早く、デクと同い年で、花がとてもよく似合い、非常に家族思いで、ヒーローへの理解が深く、デートをドタキャンされてもへそを曲げるどころか「ご苦労さん」と労わるほど優しく、オセオン在住で、日本人の恋人のためにと日本語を勉強するいじらしさを持っており、幼い頃から憧れていた夢を叶えた努力家で、同性であることは、とっくに把握されているのが現状だ。補足すると、デクの元クラスメイト数人からのリークにより、「美人」、「足が長い」、「彫りが深い」、「腰の高さがバグってる」といった外見の特徴もある程度バレている。かなり脚色や誇張が入っているため、かえって特定されないんじゃないかとロディ自身は然程気にしちゃいないけれど。
そんなこんなで、一般人にもかかわらず、自然発生的に与えられたヒーローデクの恋人のコードネームは、そこらの売れない芸人よりも遥かに名が知られている。何せ、どこぞの雑誌が「あなたが知っているヒーローと言えば?」と街頭調査した結果、「オセオンハニー」がギリギリ上位半分にランクインしたくらいだ。世界を救ったことがあるとはいえ、ヒーローを名乗った覚えはないというのに、一体何がどうなっているんだか。
身分証明書の代わりに、右の薬指を飾る指輪に軽くキスを落とす。デクとペアリングのデザインであることは、見る人が見れば瞬時に分かるだろう。その証拠に一際甲高い歓声が、店の片隅で渦巻いた。出所は、両手で口を覆う女性。その爪を彩るのは例のビリジアンだ。
いくらデクのファンはマナーがいいと言っても、全員がそうだとは限らないし、ネットやマスコミを通じて間接的に恋人の存在に触れるのと、実物と対面するのとではやはり勝手が違ってくるだろう。流れでデクの恋人だとカミングアウトしてしまったが、友人との楽しい食事に水を差したのなら、申し訳ないことをした。
しかし、ここで詫びを入れるのも妙な話。同じヒーローを推す同志の反応が気になりつつも、ロディは「んで、実はここからが本題」とエイチャンに向き合った。
「伝言を一つ、頼まれてほしくって」
「伝言、ですか?」
「そ。ヒーローデクがカツ丼を完食したら、『次の行き先はダルマ』って伝えてほしい。くれぐれも完食したら、な?米粒一つでも残ってたら、そん時は教えなくていい」
「うちの商店街にはダルマ屋が二つありますけど、どっちの店を言えば……」
「そこまで甘やかす必要はないっしょ。自力で探し出すのが追いかけっこの醍醐味なんだから。後は、そうだなぁ。サインの一つや二つ、ねだっちゃっても良いんじゃね?ショートの隣にでも飾れば、客寄せの足しになるだろ」
サプライズを仕掛けるいたずらっ子のように笑うロディを見て、エイチャンも段々と乗り気になってきたらしい。自ら「カツ丼大盛りでフードファイトしてもらっても良いっすかね」と案を出してきた。
そうそう。普段は画面の向こう側の遠い存在が、折角目の前にやってくるというのだ。しかも、ヒーロー相手に一泡吹かせてやれる大義名分を伴ったまたとないチャンス。これを楽しまなくてどうする。「大盛りと言わず、特盛りでもペロリと平らげるね」とロディも勝手に安請け合いした。いつも見ていて気持ちがいい食べっぷりを発揮するので、大丈夫なはずだ、多分。
カツ丼特盛り代が含まれているお会計を済ませ、テイクアウトに注文したものを受け取ったロディは、「じゃあ、はい。これ」と立派にレジ対応をしてくれた本日のMVPへと購入したばかりの味噌田楽を袋ごと押し付けた。目を白黒させるエイチャンは、何が起こったのか、事態が把握できていないようだ。「えっと、何か不備でも……?」と恐る恐る確認してくる年下の子供を安心させるように「いいや、全く?」と力強く否定してやる。
「寧ろその逆。面倒な注文にも関わらず、丁寧に接客してくれた店員さんへのチップってことで。賄いの唐揚げと一緒にどうぞ」
チップの慣習がない日本人に現金を握らせるのは難しい。だから、ロディは金から物という形に変えて、感謝の意を伝えるようにしている。
理解するのに数秒かかったエイチャンは、我に返るなり「良いんすか」とロディに聞き返し、直後「いただいても大丈夫っすか」と女将に許可を求めた。きちんと指示を仰ぐとはバカ正直な従業員だ。ロディなら確実に雇い主の目を盗んで猫ばばを決め込む場面である。
判断を委ねられた女将の眉間に、一瞬皺が寄せられたのを、ロディは見逃さなかった。客と店員のこういうやりとりが、予期せぬトラブルに繋がるのではと、危惧しているのだろう。酒場で働いたことがある身としては、そのリスクを心配する気持ちも十分理解できる。さて、どうやってこの場を乗り切るべきか。
しかし、ロディが動くよりも、常連客からの援護射撃が入る方が早かった。
「今日はよく頑張ったよ、えらい!」「いつも英語は赤点ギリギリだってぼやいてたもんなぁ」「まぁ、ほとんど日本語の会話だったけどね」
それは、初対面の外国人の詭弁なんかより、ずっと威力のある馴染み客の後押しだった。女将の表情から険しさがはぎ取られていく。そして、とうとう「お客様のご厚意を無碍にする訳にゃ、いかないからねぇ」というお許しが零れ落ちた。
おめでとう、よかったねと周りから祝福される功労者は「今日の賄いはご馳走だ!」とガッツポーズを決めていた。知らず知らずのうちにロディの眦が緩む。揶揄混じりに若い店員を可愛がる常連客を眺めていると、何だか前の職場で世話になった柄の悪いおっさん達の面が見たくなってきた。オセオンに帰国したら久し振りに顔を出しに行こうか。お高いジャバニーズウィスキーを手土産に持っていけば、門前払いは食らうまい。ロッカーに残して来たメモの行方も気になっていたことだし。
酒で奮発するのだから、肴は日本の土産話で十分だろう。ああ、でも、梅干しくらいは買ってやってもいいかもしれない。何も知らない無防備なオセオン人が、あの酸っぱい塊を口いっぱいに頬張ったら───さぞかし愉快なリアクションを披露してくれるに違いない。シャッターチャンスを逃さないようにしなければ。
───梅干しって空港でも買えたっけ?折角だし、ここの商店街においしい漬け物屋がないか、探してみっか。
仕入先を検討しながら、蕎麦屋を出ようとするロディの背中に「あ、あのっ!」と引き止める声がかかる。振り返れば、ビリジアンの爪を持つ女性が椅子から腰を上げていた。黒いサングラスに隠した灰色の目を僅かに細める。
何だ何だ、お前なんてデクに相応しくないと喧嘩でも売られるんだろうか。ポケットの中でピノがファイティングポーズを取ったのを察する。言っておくが、こちとらスラム街育ちの元チンピラだ。聞くに堪えないスラングなんぞ、いくらでもストックしている。温室育ちのお嬢さんが相手なら、万が一にも負ける気はしなかった。
とは言え、デクの恋人だと素性を明かした状態で、一般女性に下品な言葉を浴びせるのは、あまりにも好ましくない。スキャンダルなんて、百害あって一利なし。デクの評判がロディのせいで落ちるだなんてことだけは何が何でも避けねばならない事態だ。
何を言われても、冷静に、穏便に、紳士的に振る舞うように。
ロディは、なるべくトゲを抜いた声で「何か?」と聞き返す。
グッと意を決したように、堅く握りしめられた拳。こちらを真っ直ぐ射抜く視線。決して揺るぐことのない固い意志をひしひしと感じさせる迫力があった。
さて、何が飛び出る。一般人では釣り合わないというありがたいご指摘か。それとも、同性であることに対する貴重なご意見か。はたまたダークホースで、元犯罪者であることへの糾弾か。
「サインを下さい!」
「……へ、サイン?」
予想斜め上の申し出に、思わず素っ頓狂な声が滑り落ちたが、慌てて「あぁ、うん。サインね。サイン」と矢継ぎ早に取り繕う。思っていたよりも遥かに平和的な内容だ。ロディはそっと安堵する。緊張が解れていくにつれて、サインを欲しがるファンの心理に理解を示せるだけの余裕まででてきた。「別に俺の口利きがなくったって、直接デクに言えばきっと快く書いてくれ、る……」
そこで、ふと気がつく。彼女は「サインを下さい」と言っただけで、「デクのサイン」とは指定しなかった。文脈から判断すると、まるでロディのサインをねだったかのように聞こえる。
いや、まさかそんな。流石に自意識過剰がすぎる。
パイロット姿で空港を歩いているときは、幼い子供から憧れの視線を向けられ、時には握手を求められたり、それこそサインをお願いされたりすることもあるけれど、今のロディはどこからどう見てもただの外国人観光客。しがないパンピーの落書きに価値があるとは到底思えない。
されど、女性の目は真剣そのものだった。ロディの鈍い反応を見て、意志疎通が図れていないと焦ったようで、必死に「プリーズサインディスブック!」と片言な英語で食い下がる。駄目押しに、スケジュール帳とボールペンまで差し出される始末だ。
ひょっとして。もしかしなくとも。
「……これ」と森と鳥がモチーフとなっている手帳カバーを指差した。「かくの?」
次に人差し指を自分へと向ける。「おれが?」女性につられて、辿々しい発音になってしまったが、日本語検定二級の腕前をもってすれば、ネイティブ相手にも難なく通じたらしい。女性はキツツキもかくやと言わんばかりの勢いで頭を上下に動かした。ショートファンと思しき友人も「イエスイエス!」とサムズアップを決める。
勢いに押されて、ついスケジュール帳を受け取ってしまったロディは「Hmm.」と唸った。流石に本名を書く訳にはいかないし、自分でオセオンハニーと名乗るのも気恥ずかしい。結局、無難に筆記体で「Mr.Hide」とボールペンを走らせることにした。
それにしても、たかが一般人のサインで、一ページを消費するのは勿体なくないか。おまけに偽名ときた。何だか申し訳なくなってきて、子供にサインを求められたときのように、デフォルトした鳥の絵も添えておく。ロロとララと一緒に何度もピノの絵を描いてきたから、小鳥の輪郭を捉えるのは割と得意だ。
「はい、どーぞ」とスケジュール帳を持ち主に返せば、「ふぁ、ファンサが神がかってる……」と手を合わせられた。オールマイトに対するデクの反応と似ているので、恐らくお気に召していただけたのだろう。
一仕事終えた達成感に浸っていれば、今度は「すみませ~ん……」と聞き慣れた声。先程までレジ対応をしてくれていたエイチャンが、左手を挙手しながら恐る恐る会話に入ってくる。そして、いつの間にか右手に装備されているのは、正方形の白い厚紙。見間違いでなければ、額縁の中に入っているのと同じものだ。「これにも、書いてもらっていいっすか……?」
ショート、デクと来れば、順当に考えれば次に並ぶのはカッチャンのはずだというのに、何がどうなれば、ヒーローを差し置いて一般人のサインが掲げられる事態になるのやら。誰得だよ、と突っ込みたい。
オタクのバイト君が仕事放棄して遊んでますよ、と女将にアイコンタクトを送れば、「できれば、色紙にうちの店名も入れて頂戴。ローマ字で良いから!」と細かいリクエストを寄越された。違う、そうじゃない。「イチ押しの料理も書いといてくれると助かるわ~」でもない。というか、商魂逞しいな、この人。
しかし、「カツ丼セットに、味噌田楽をオマケしとくから」と持ちかけられては、乗るしかない。さっきと同じく鳥のアイコン付きの「Mr.Hide」のサインに、店名、訪問日を記し、さらにロディ自身は味わっていないが、エイチャン受け売りの味噌田楽をすすめるコメントを添えておく。随分とごちゃついて読みにくいレイアウトになってしまったが、女将は大層喜んでくれたので、デクの昼食へのサービスは期待してもいいはずだ。
さて、これ以上サインをねだられる前に、さっさとお暇してしまいたい。午後休を申請していたサラリーマン達が、頭を寄せ合っているのを視界の端で捉える。どうやら、テーブルの上に置かれているお客様アンケート用紙の裏側を色紙代わりに有効活用しても良いものかと話し合っているらしい。あれに捕まったら、長丁場のサイン会待ったなしだ。ここは戦略的撤退が得策だ。
自慢の逃げ足で、そそくさと出入り口まで移動する。扉に手をかけ、「それじゃ、ごちそうさまでした!」と言い逃げしようとしたところで、そう言や作戦変更したんだっけと思い出す。
危ない危ない。去り際のフォローを入れ忘れるところだった。
ヒーローデクに恋人がいることが筒抜け状態であるのと同じくらい、デクの装いが普段愛用している文字Tシャツやヒーロースーツでなければ、デート中、もしくはデートを控えているときだということも、暗黙の了解となって知れ渡っている。
そう、つまり。
テレビの画面の向こう側で、チェック柄のシャツを着こなしているヒーローは、ロディとのデートをすっぽ抜かし、敵と浮気している真っ最中なのだ。
しかし、ヒーローに理解があると評判のオセオンハニーは、この程度のことで目くじらを立てることはしない。何せ、ヒーローの呑み会では「本っ当、よくできた嫁だよ」と太鼓判を押してもらっているくらいなので。
モスグリーンのコートを翻し、ロディは店内の方へと肩越しに振り返る。「今日、ここにデクが来るってことは、この場にいる人達だけの秘密ってことで」と人差し指を唇の前に持って行く。しぃーっと他言無用を意味するジェスチャーは、万国共通で、何かと便利だ。
「流石に食事くらいはゆっくりさせてやりたいからさ、ヒーローデクのプライベートなタイムスケジュールをSNSで拡散すんのは勘弁してやってね?ファンが殺到したら、おちおちカツ丼を食ってる暇もないんで」
「Mr.Hideとのお約束」とサングラスを少し上げてウィンクを決める。
その瞬間響き渡る絶叫にも近い歓声を背中で受け止めながら、ロディは今度こそ軽やかな足取りで暖簾を潜って、店を後にした。