帰った自宅の玄関に自分よりも少し大きい靴がすこし乱れて置いてあるのを見た時、いつになっても慣れることなく、言い得ぬ喜びのようなものを感じてしまう。
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夕飯時にしては遅く、真夜中にしては少し早いくらいの時間にようやく玄関のドアを開けたアベンチュリンは、想定外の来訪者に驚きながらも心を弾ませた。よくよく見ればリビングの方には明かりが点っており、鍵を預けている相手がそこにいることを示している。
「ただいま、来てたんだ」
ね、と言い切る前にアベンチュリンの視界に飛び込んできたのは、荷物を床に置いたままソファの上で眠りこけているレイシオの姿だった。それだけではなく三つの創造物ーーケーキたちも寄り添うようにして一緒に寝ており、一人と三匹が身を寄せ合っている姿はかなり可愛らしい見た目になっていた。
「ふふ、僕よりもレイシオに懐いてるのはちょっと妬けるな」
そう言いながらも笑みが込み上げてしまい、誰も見ていないのを良いことにしばらく一人で笑った後は、シャッター音を小さくして手元の端末でこっそり写真に収めた。
ーーカンパニーからの距離的にも自分の家と大差ないはずで、寝るだけなら他人に気を遣わない自分の家へ戻る方が得策だろう。家主もペットも居るこの家を選ぶ必要はないというのに、わざわざここに帰って寝ていることを考えると、その理由を想像しては口角が上がりそうになるのを止められない。
「……あーあ、メイクも落としてないのか」
彼の傍らに座り込んでそっと顔を覗き込めば、まだ目元に赤が引かれたままになっている。普段、バカ・アホ・マヌケを見ないように被っている石膏のせいであまり世間にバレてはいないものの、やっぱり彼は整った顔立ちをしている。ただ、今はその顔にも疲労の色が濃く乗っており、眉間の皺や目の下の隈が目立っていた。
「待っててね」
先に自分の身支度を整えてからこれを落とすかと意気込んで、アベンチュリンは浴室へと足を向けた。
***
メイクを落とすための化粧品一式を携えて部屋に戻ったものの、リビングは最後に見た光景と同じままだった。本当に疲れていたのだろう、誰かが家の中を歩き回る程度の音では全く起きる素振りはない。それはレイシオの隣にアベンチュリンが座ったとしても同じで、依然として夢の中にいるらしい。
「失礼するよ」
小さく声に出しながら、まずはメイクを落とすためのクレンジングシートで彼の目元をなぞる。目元の赤がシート側におおよそ移動したあたりで、彼の瞼がゆっくりと開かれる。
「あ、起きた」
「……おかえり」
「はは、声ガッサガサだね? ただいま、レイシオ。今はメイク落としてるだけだから、ぜんぜん寝てていいよ」
「うん……」
目を覚ましたものの夢現の状態で、普段からは想像がつかないほど意識がぼんやりとしているようだった。もっとまともな返事をするはずの口からは、やわらかく一言だけの言葉が落ちてくるだけだ。
「っふふ、うん、かぁ」
かわいい、と笑いかける頃には再び瞼がとろりと落ちており、胸板が規則正しく上下する。すうすうと聞こえてくる呼吸を聞いているだけで、こちらまで眠気が誘発されそうだ。
やがて全工程を終え、コットンで浸した化粧水をぴたぴたと彼の顔に当てていると、また意識が浮上したらしい彼の瞼が緩やかに押し上げられる。
「……寝ていたな」
「ぐっすりね。一瞬だけ起きたけど」
「君の家についてから、あんまり記憶がない……」
だろうね、と笑いかければ、寝ぼけている目つきのままでぱちぱちと瞬きをする。それでも眠気がまとわりついているようで、全く目が覚めた感じではない。
「……君は?」
「え、僕?何が?」
「もう寝るのか」
「うーん、どうしよっかなぁ」
「……寝るぞ」
えっ、と驚きの声を上げた時には勢いよくレイシオが立ち上がり、すこしふらふらしながらも部屋着へと着替えている。あの寝起きでも動ける切り替えの早さは血圧からくるものなのだろうか、などと考えているうちに、レイシオに手を引かれてベッドのある寝室へと移動させられる。
ケーキたちを家に迎えてから買い替えたベッドはキングサイズで、図らずも男二人が適当に寝そべったとしてもなかなか転がり落ちることはない。寝る気満々のレイシオが先にベッドへと寝そべった後は、君も、と言わんばかりに眠そうな視線が飛んでくる。
そうして「わかったよ」と言いながらごろんと隣に収まれば、すぐに体温の高いレイシオの手足がアベンチュリンの体へと巻きついて、もぞもぞと動いて収まりの良い場所を見つけたようだった。
「……すごいあったかいね」
「ああ。眠いからな」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられてーーというよりは抱き枕のようにして体の自由を奪われたかと思えば、おやすみ、と一言残してレイシオは先に眠りへと着いてしまったようだった。
「はぁ。強引だし、動けないし、君もなかなかだよねぇ」
すうすうと寝息が聞こえてきた後にちょっとした悪口をぶつけてみるも、変わらず健やかに寝入っている。
まだリビングの電気だって点いたままだし、化粧品たちもテーブルの上に置きっぱなしになっている。
それに、もう少し仕事してから寝ようとしてたんだよ、とか、なんでこの家にいるの、とか、一人で寝たらいいじゃん、とか、たくさん言いたいことは尽きないのに、寝ている彼にはもう届きそうもない。
「……べつに良いんだけどね」
そう、正直に言ってしまえば全部どうでもいい。電気は仕方ないとして、テーブルの化粧品は明日片付ければいいし、仕事は進められたら良いなとは考えていたけれど間に合っている。
本当に聞きたかったのは疲れているのにここに帰ってきた理由と、どうして一人で寝ようとしないかの二点だけれど、それはアベンチュリンに巻きついている彼が答えなのだろう。
ふぅ、とひとつ息を吐いて、アベンチュリンもまた静かに瞼を閉じたのだった。