まるで痛みを反芻するかのように、アベンチュリンは手元の端末からメッセージアプリを開き、履歴から彼の名前を選択した。すると数日前に止まった会話が表示され、決別するまでに至る淡白な言葉を眺めながら幾度目かのため息を吐いた。
具体的に大きな出来事があったわけではない。ただ、お互いに多忙な身で生じてしまったズレが、ボタンを掛け違えたかのように徐々に大きな溝となって二人を寸断してしまった。本当に、ただそれだけのことだったのだ。
苛烈な愛情も時間が経てば穏やかな波となり、やがて当たり前になっていく。空気のような存在になっていったとしても、多少の気遣いや触れ合い、わがまま――そういったものを通して保持されるはずの関係は、二人ともがそれを怠ったがために破綻したのだ。
「……はぁ」
朝を通り越して昼になろうとしているというのに、部屋のカーテンは未だ閉め切られたままだ。気持ちの問題で明るい光を見る気にはなれず、こうして部屋の中で端末の光が顔を照らしている。そうして、薄暗い部屋の中で響くのは、やはり一人分の大きなため息ばかりである。
何度眺めたところで結果が変わるわけではない。だというのに、こうして画面を何度も眺めては重苦しい息を吐き出す羽目になるのは、結局のところ未練や後悔が残っているからなのであろう。頭の中で過去の分岐点を探りながらも、結局それを行動に移せなかったのだから意味はない。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざその時になってみると何も言い出せなかった。好きでこのような関係を続けていたはずなのに、その時の自分にとっては何もかもが面倒になっていた。
だからこそ、彼の人生の中で過去を振り返るとき――このやり取りが過去になった時、面倒だったと思われたくはなかった。ある程度綺麗に終わらせることで、自分のプライドを守ろうとした。そのせいで、最後に彼へ送ったのは随分と物分かりのいい返事だった。
――それでも、悔いは残ってしまう。終わった関係をこうして引き摺るくらいなら、どうしてあの時にこれを感じることができなかったのだろう。呆気なく終わってしまった最後のやり取りを眺めながら、また辿れたはずの分岐に思いを馳せた。
「あーあ」
終わっちゃった。空虚に響いた言葉は部屋の中で反響し、心の中で反芻するよりもずっとアベンチュリンの心を傷つけた。
それなりに本気で愛していたはずだった。所属する組織も違えば、境遇だって正反対の、胡乱で可愛げのない男を受け入れてくれたことが奇跡だったのかもしれない。だというのに、それに甘え過ぎて努力を怠ってしまった。自分ばかりが悪いわけではないが、簡単に言えば公私のバランスを取ることができなかったのだ。
頭では色々と理屈を捏ねられるけれど、それでもアベンチュリンに残るのは虚しさばかりだった。悲しいと思っているはずなのに、それを自覚できているというのに、なぜか一粒の涙すら落ちてくる気配はない。
「薄情、なのかな」
こういう時は泣いて心を癒すものだと世間では言われているけれど、実際に出てこないのだから仕方がない。家族を失ったあの時から枯れてしまったのか、そもそも機能しているのかさえ分からない。もしかしたら、狂ってしまった自分には要らないものだと、神が自分から取り上げてしまったのかもしれない。
そこまで考えが至ったところで、アベンチュリンは急に全てが馬鹿らしく思えてきてしまった。こんなありきたりな別れの一つが、いったい何だというのだ。何のために詐欺を働き、何を目的にジェイドの前でダイヤモンドを呼びつけたのか、それを忘れてはならない。だからこそ、浮かれた恋の一つや二つで揺らいではならないのだ。
こんなことをぐずぐずと考えている場合ではない。どうせ彼とはすぐに仕事で顔を合わせることになるのだろうし、変に気持ちを残したままでは仕事に差し支えてしまう。そんなことがあってはならないのだから、結局は自分で選んだ道に責任を持つだけだ。
そうしてアベンチュリンは自室に残っている彼の気配を辿っては消していく作業に入った。余っていたブランド物の紙袋を適当に手に取ると、その中へ彼の私物を突っ込んでいく。
それは予備の髪飾りであったり、頭のアイデアを書き出すペンであったり、彼のために急拵えで買ったルームウェアである。あまり物を置いていないと思っていたけれど、こうして取り出してみると意外にも彼はアベンチュリンの生活の中に溶け込んでいたらしい。だからこそ、ある程度決心して行動しているというのに、彼のものを手に取るたび余計なこと――まだ楽しかった時の記憶ばかりが都合よく脳裏を過ってしまうのだ。
リビング、キッチン、寝室をやっとの思いで片付けた後には、それなりに紙袋の中を彼のものが満たしていた。それを見れば見るほど決意が揺らぎそうになるのを感じながら、最後にアベンチュリンは浴室につながるドアを開けたのだった。
無駄に設備が整っている部屋に住んでいるというのに、家主がうまく生かしきれていないものがたくさんある。その内の一つである広々とした浴室には大きな浴槽が備え付けられており、テレビだってそれなりのサイズのものが壁に埋め込まれているのだ。
それなのにこの家主はシャワーばかりを使用し、それらを一向に使う気配はなかった。けれど、パートナーであった彼はアベンチュリンとは真逆で、ここを気に入ってよく入り浸っていた。気づけば彼専用の入浴グッズが持ち込まれ、彼専用にどんどんカスタマイズされていたのだ。
だから、この場所を最後にしたのだ。一番彼の気配が残っている場所を片付けられれば、この気持ちを乗り越えられると信じていた。
「っはは、こんなものまでラインで使ってたんだ」
彼が好んで使っていたボディソープと同じ香りのボディクリームを手に取ると、そのまま袋に入れずその蓋を開けた。まだまだ半分ほど残っているそれを片付けるのはもったいなく思えてしまって、アベンチュリンはそれを手に取ると両手に塗り込んだのだった。
「懐かしいな……」
両手で顔を覆うようにしてその香りを鼻腔で感じ取ると、一気に今までの記憶が蘇ってしまう。匂いというのは過去に強く結びつくと聞いたことがあるのに、今になって後悔してももう遅い。
穏やかに抱きしめられた時も、余裕なく素肌で触れ合った時も、彼の隣でのんびりしていた時も、常にこの香りと共にあった。それを思い出した瞬間に足元から力が抜け、鼻の奥が痛んだかと思えば視界が急にぼやけてしまった。
その場に崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだアベンチュリンは、ぼたぼたと目頭から水滴を溢しながら、力無く床に手をついた。
「……っう」
一度堰を切ったそれは落ち着きを見せようとせず、みっともなく上がる泣き声を抑えようとした両手には彼の匂いが残っている。どう足掻いても逃げ道などないままで、惨めに広い浴室の片隅で小さくなってひたすら大粒の涙で床を濡らし続ける。
結局のところ、泣けなかったのではなく、感情が追い付いていなかっただけだったのだ。それを痛感しながらも、戻ることのない過去を想って嗚咽に喉を詰まらせていたのだった。
時を同じくして、レイシオは気まずいやり取りが残るその画面に、一言『鍵を返し忘れた。今から行く』とメッセージを送信していた。
本当はこれを返したくない。だが、返すに至る結末に仕向けたのは自分自身で、冷静になった後に散々己の発言を悔いた。だからこそ鍵を言い訳にしてアベンチュリンにコンタクトを取ったのだった。
しかし、そういった事務的なやり取りを蔑ろにするタイプではないと知っているものの、一向にそれが読まれる気配はない。
それがどうにも落ち着かず、今度は彼に発信をする。さすがに電話であれば――というレイシオの予想も虚しく、しばらく鳴った後に電話のコールが打ち切られてしまった。そのことに違和感を覚えたレイシオは晴れない心を解消するためにも、約束も無しに彼の家へと足を向けたのだった。
慣れたように彼の住居のセキュリティを解除し、そっと玄関のドアを開く。そこには彼の靴が並んでいて外出していないことを示していたけれど、どうにも部屋の中の暗さが気になった。それと同時に、レイシオの鼓膜は啜り泣くような彼の声を捉えた。
――泣いている?
そう思いながらそっと彼の家に上がると、音のする方へと足音を立てないようにして歩く。そこはどうやら浴室のようで、本来であればシャワーの水音がしていてもいいはずのその場所を覗き込んだ。
「……アベンチュリン」
そこには適当に置かれた紙袋と、中途半端に開けられたボディクリームがあった。それだけであればレイシオの私物を片付けていたのだと推測できる。けれど、その下で蹲って泣いている彼を見た瞬間、レイシオの思考回路は凍りついてしまったのだった。
彼――レイシオに名前を呼ばれた瞬間、都合のいい幻聴だと思って無視しようとした。けれど、恐る恐る視線を向けた先には本当に彼がいて、さすがに驚いて一瞬だけ涙が引っ込んでしまう。
「なんで、いるの」
「鍵を」
「連絡、してよ……」
「したんだ。メッセージも、電話も」
君が出なかったから、そう言いながらレイシオはアベンチュリンと同じように床に膝をついてみせた。同じ位置になった視線が、気まずそうに泣き腫らしたその目を覗き込んでいる。
「……僕のせいか」
その瞬間、アベンチュリンの心の中を満たしたのは怒りだった。彼の言うことは正しい。本当にその通りなのだけれど、それを本人に指摘されるというのは無性に悔しかった。
「自惚れるな。……どうせ、戻る気もないくせに。ここは僕の家なんだ、僕が何をしてたって関係ない」
口を突いて出た言葉は涙に濡れて無様だったけれど、彼を怯ませるには十分だったようだ。
「……僕が勝手に泣いてるだけだろ、放っておいてくれ」
ぎっと睨みつけてやれば、何も言えないままで悲しそうにアベンチュリンを見つめるレイシオがそこにいる。一体何を考えているのか分からないが、どうせこの優しい男はアベンチュリンの様子を見て、変に慈悲をかけようとしているのではないかと感じ、厳しい言葉を向けたのだった。
「ほら、何も言えないじゃないか。だからさ、帰ってくれよ……」
最後まで突き放すこともできずに、言葉の途中で弱さが滲んでしまった。ここで彼が帰ってしまったら、それこそ本当にこの関係が終わってしまう。引き留めるなら今だと言うのに、出た言葉はもう戻らない。そう考えれば考えるほど涙が溢れ出してきて、自身の弱さに心が折れたアベンチュリンは俯くことで彼の視線から逃げたはずだった。
しかし、衣擦れの音と共に、一人きりで泣いていたアベンチュリンの体は彼の両腕の中に閉じ込められる。不恰好な体勢のまま抱きしめられたせいで綺麗なハグとは言えないけれど、それは痛いぐらいに力のこもったものだった。
「……変な意地を張った。それに言い訳をするつもりもない。ただ、鍵を返しに来たのは――嘘だな」
「……」
「それを言い訳にして、君との会話を試みた。こんなくだらない言い合いで終わらせる気はなかったからな。……だが、度胸がなかった。あの会話で、君もそれを了承していたからだ。だとしたら、こんな行いは愚かでしかない。そう思った」
珍しく落ち込んだ様子で話し始めたレイシオの言葉を、アベンチュリンは静かに耳を傾けて聞き入れた。
「君がここで泣いているのを見た時、もっと早く謝罪すべきだったと痛感した。本当にこんな顔をさせるつもりは――すまない」
彼の謝罪を聞きながら、アベンチュリンは自分の涙が落ち着いていることに気づいた。彼がどう言い訳しようと、もう心の中ではすっかり許しているのだけれど、どうせなら彼の言葉から聞きたかった。
「……まだ、終わりたくないんだ」
その言葉を聞いて、落ち着いたはずの涙が不意に溢れて視界をぼやけさせた。喉に感情が詰まって、うまく息が吸えないままで、背中に回した手で力いっぱい彼の服を握り込む。
「ずるいよレイシオ、僕は……可愛くないことしか言えないのに」
「君に二度も嫌われたくないからな。必死だったんだ」
安心したようにゆっくりと息を吐き出したレイシオは、分かりやすく肩から力を抜いた。抱き合っているアベンチュリンにはそれがありありと伝わってきて、思わず笑いそうになってしまう。だけれど、それよりも先に彼に言うことがある。
「僕も、ごめん。仕事詰めすぎてて、君に当たってたんだと思う」
ようやく口に出せた謝罪が、今度こそ本当にアベンチュリンの涙を止めた。それを気配で察したらしいレイシオは、今までずっと言いたかったであろう言葉をそっと口にする。
「鍵は返さなくていいか?」
「っふふ、まだ聞くの? ……持ってていいよ」
アベンチュリンの返事を聞いて、レイシオは抱きしめる腕の力をより強めたのだった。
「うー……」
あれから三十分ほどが経ち、アベンチュリンはリビングのソファで仰向けになっていた。その目元には氷嚢代わりにタオルに巻いた保冷剤が当てられている。
「こんなに泣いたの久々だよ、明日仕事入れなくて良かった」
「だろうな。酷い顔だった」
「君がそれを言う? いいかい、まだ完全には許してないからね」
側に座っているらしいレイシオの聞き捨てならない言葉を拾い上げながら穏やかに談笑していると、いつの間にか近寄ってきていたらしいお菓子たちが揃って口を開いた。
『あ、アベンチュリン元気になった』
『うれしそう』
『最近、ずっと元気なかったの』
「……本当か?」
揃いも揃ってレイシオに告げ口をするものだから、思わず目元の保冷剤を無視して勢いよく起き上がった。
「ちょっと、レイシオも真に受けなくていいから!」
『レイシオ、次いつくる?』
「特に決めていない。いつでも来れるからな」
『いつでもいいよ、遊んであげる』
「ああ、構わない」
「あーもう、好き勝手言いやがって……」
プライベートを全部吐露されて完全に消沈したアベンチュリンは、不貞腐れたように再び目元を冷やしながらソファに寝そべった。
「君のことをよく見てるんだな」
「……わかってるよ。うるさいなぁ」
少しだけ保冷剤をずらしてレイシオの方を見れば、すぐにレイシオと目が合ってしまう。
「なんだ」
「いや? 家にレイシオがいるな、って思っただけ。なんでもないよ」
徐ろにレイシオが立ち上がったかと思えば、伸びきっているアベンチュリンの元へと寄ってくる。意図が見えずに目を丸くしながらその様子を伺っていると、アベンチュリンを見下ろしながら意地悪そうに口角を上げてみせた。
「まだ冷やしておけ。酷い目元だ」
「はぁ? 君のせい――うわっ」
目元にぐりぐりと保冷剤を押し付けられ、アベンチュリンは小さく悲鳴を上げる。何も見えないながらも、彼が嬉しそうに笑っていることだけは伝わってくる。
「替えを持ってくる」
控えめな言葉と共に唇に軽いキスが落とされたかと思えば、ふっと近くにあった気配が消えてしまった。気配を追うようにして再び視界を開放すると、キッチンの方で新しい保冷剤を探すレイシオの横顔には少し照れが混じっている。
「……逃げた」
「逃げてない」
そんなくだらないやり取りをしていると、安心したせいなのかアベンチュリンの目元には一気に眠気が絡みついてくる。このまま寝てしまったとしても、きっと彼は起きた時に隣にいるのだろう。
そんな甘ったるい考えを頭に浮かべていれば、今度はお菓子たちも暖を取ろうとアベンチュリンの上へと乗り上げてきて、じんわりと人肌よりも幾分か高い体温を提供してくる。すると、いよいよ眠気は本格的にアベンチュリンを落とそうとしていた。
「……ねぇ、寝ていい?」
「好きにすればいい」
「言うと思った。夕飯は君のご飯がいいな」
「……わかった」
苦々しいレイシオの返事から、彼なりにアベンチュリンに対して機嫌を取ろうとしているのが垣間見えて、思わず笑ってしまう。
そんな穏やかな時間に身を浸しながら、アベンチュリンは今度こそ本当に微睡へと意識を手放したのだった。