ふと、彼の顔を何日見ていないのだろうと思ってしまった。
メッセージはたまにやり取りをしているけれど、実際に会ったのはいつだっただろうか。記憶を手繰り寄せて考えてみたけれど、考えれば考えるほど彼の顔が遠ざかっていく。
あれ? 本当に最後に会ったのは――いつだった?
思い立って端末を手に取ると、レイシオとのメッセージ画面を開く。生存確認程度のそれは色気など感じられないけれど、男同士のやり取りは所詮こんなものである。思ってもいないことを散々吐いてきたアベンチュリンとて、さすがに思ったままの素直な言葉を書くには気が引けた。
『今日、通話できるかい? 久々に声が聞きたい』
文章だけでは照れが出て、それをごまかすようにスタンプを一つ添えた。別に返事がどうであれ、彼が元気であればいいと割り切って端末のバックライトを落としたのだった。
そんなアベンチュリンの予想に反して、あまり期待していなかった返事は割とすぐに送られてきていたらしい。アベンチュリンがメッセージを送った三十分ほど後には、仕事が終わった後なら、とシンプルなものが届いていた。
既に時刻は定時を過ぎ、残っている社員も少なくなってきている。少し探りを入れた感じでは、技術開発部をデスマーチに追いやっているプロジェクトに、どうやらレイシオも取り込まれているらしかった。アベンチュリンはもう帰り支度をしていたけれど、おそらく彼が帰れるのはもう少し後だろう。
「……仕事が終わったら、ね。いったい何時になるのやら」
呟いた独り言は誰の耳にも拾われることはなく、オフィスの広い空間に溶けていった。
――なぜ毎回このようなことになるのだろう。
むしろオンスケジュールで問題もなく終えたプロジェクトの方が少ないのではないか――レイシオがそう内心で毒づくほどにプロジェクトの状況は悪いものであった。
最早プロジェクトマネージャーが悪いのかどうかすらも分からない状況で、レイシオの頭脳を以てしても追い込まれた状況を打開することは難しく、ここ数週間はずっと眉間に皺を寄せ続けている。
レイシオは、空になった紙コップを捨てに行くついでに開いたプライベート用端末に、ふとメッセージが入っていることに気づく。それはアベンチュリン――つまり恋人からのそれで、珍しく声が聞きたいという恋人らしい要望が綴られていた。
「……はぁ」
重々しいため息はそのまま床に転がり落ちるようにして、重たくレイシオの肺から溢れていく。いつから会えていないのだろう。このプロジェクトが山場を迎える前から、ずっとタイミングを逃してしまっていたように感じる。
過去には喧しいと一蹴していた彼の上機嫌なお喋りの声も、自分よりも線の細いその体つきも、付けすぎなくらい華やかに香る香水も、今は何もかもがレイシオから遠ざかっている。
――会いたい、と一言添えられたらどれだけ気が楽になるだろうか。レイシオの名前を呼んでへらりと笑う彼を腕の中に閉じ込めて、くるしいよと文句を言われながら抱きしめたい。そう願ったところで、今はそれを実現できる余裕はないのだった。
『仕事が終わった後なら可能だ』
愛嬌もないビジネス文書のような文字列を彼に送り、レイシオは終業後に聴けるらしい彼の声に焦がれながらも、気持ちを切り替えるように深呼吸をしてオフィスへと戻っていった。
そうして、ようやくオフィスから抜け出した頃には、頭の中が疲労によってからっぽになってしまっていた。うまく回らないそれで本当は夕食のことも考えなければならないのだろうが、食事を決める元気すらも怪しい状態である。
飲食店には寄らず、そのまま自宅の方へと歩みを進めながらレイシオは端末の通話ボタンを押してみる。さすがに彼はもう家でゆっくりしている頃合いだろうと考えながら、ベルが鳴る音をぼんやりと聞き入れていた。
『やぁ、久しぶり。生きてるかい?』
「……ああ、どうにか。酷い案件に巻き込まれていてね」
『お噂はかねがね、戦略投資部にも伝わってるくらい忙しいみたいだしね。声も……なんだか疲れ切ってる。どうせ君のことだから、妥協できなくて無理してるんじゃないか?』
鼓膜を揺らす電子越しの声に懐かしさを覚えながら、彼の労わる言葉に心が少しずつ回復しているような気がした。
「否定したいところだが、あまり言い返せない」
『っはは! 相当疲れてるみたいだ。君のげっそりした顔が想像できちゃうよ。……大丈夫かい?』
大丈夫かどうかで言われれば、大人なのだからこの程度でダメだとは到底言えない。大丈夫だ、と一言伝えれば終わる話なのに、心の中にいる声の大きなこどもが彼を求めてぐずっている。
そう、本音を言えばもちろん――
「会いたい」
『えっ?』
彼の相槌が聞こえてきた瞬間、はっとした。思わず口を突いて出たその言葉に自分でも驚いて、電話口で狼狽えてしまった。彼の声を聞くのが久々だからといって、さすがに気を抜きすぎたのかもしれない。
『ふふ。珍しいね、レイシオ』
「いや、これは」
『言うつもりじゃなかった、って?』
「……君を困らせたいわけじゃない。忘れてくれ」
はぁ、とため息をひとつ吐き出して、髪飾りがついていない方の頭をぐしゃりと掻き乱した。
「本当に何でもないんだ。君が気にすることじゃない」
『はいはい、分かったよ。そういうことにしておいてあげる。……今はもう、家にいるの?』
「いいや、帰ってる途中だ」
自宅に近づくにつれてどんどん気が抜けていくのを感じながら、彼のやさしい問いかけに対して素直に返事をする。
『そっか。いつ会えるかなぁ』
「……まだ分からない。もう少しかかるだろうな」
さみしいね、とレイシオが言えない言葉をさらりと口に出すアベンチュリンを羨ましく思いながら、レイシオも彼に倣ってうん、と同意してみせる。飾らないこどものような相槌は我ながらどうかとも思うけれど、彼は笑って受け入れてくれる。
『そうだ。レイシオ、顔上げてみて? ――そう、君のマンションの、エントランス』
まるで見ているかのように指示されて、弾かれたように顔を上げる。言われた通りの方を見れば、見慣れた金髪の男がひらひらと片手をあげて微笑んでいるのだった。
『思いつきで来ちゃったけど、君もそう思ってて良かった』
耳元のスピーカーから聞こえる声と連動して、少し遠くにいるアベンチュリンが照れたように首をこてんと傾げている。ぼんやりしていた頭は急にクリアになって、レイシオは小走りでその方角へと駆け寄っていったのだった。
「……なぜ?」
「なぜって、しばらく会えてなかったし――あんな声聞いちゃったらね。上がってっても良いかい?」
もちろんと反射で返答しながら、彼が抱えている荷物を自分の手の中へと移した。
「これは?」
「どうせ食べてないだろうなってご飯も買ってきてたんだ。食べちゃってたら朝に回してくれ。前に君が美味しいって言ってた店のテイクアウトだから、味は保証するよ」
そうか、と普通の相槌をしていたのに、なんだか急に泣きそうになってしまう。実際に涙が浮かんでいるわけではないけれど、彼のやさしさに触れて緊張の糸が弛んでいるのだろう。
「……ありがとう」
「うん。疲れてる君は素直で可愛いね」
からからと笑うアベンチュリンは常に楽しそうで、鬱屈としていた心の内が彼に引きずられるようにして少し晴れていくのを感じていた。
レイシオの家に入ったあとは、今にもくたびれて眠ってしまいそうな彼を浴室まで見送ってから、ダイニングテーブルにテイクアウトした夕食たちを置いた。
――思っていたよりもずっと心が削れていたらしい彼の、すこし悄気たような顔を見た瞬間、思いつきで会いにきて良かったなと実感していた。会いたかったのはアベンチュリンのエゴだけれど、結果的にふたりが望んだ結果だったことが嬉しかった。
そんなことを考えながら、少しだけ荒れている彼の部屋を片付ける。と言っても汚いわけではなく、脱いだままの服がソファに掛かっていたり、本が至る所に積み重なっていたり、メモをするために使ったペンがあちこちに存在している程度だ。ただ、その様子からも心の余裕がなかった事が透けて見えるようだった。
「来てよかったかな」
完璧に見える彼の、人間らしくくたびれた一面を見て嬉しくなってしまうのは、それを見る事が許されている立場だからなのだろうか。ただ、うっかり口に出せば彼の機嫌を損ねてしまいそうなので、今後も伝えるつもりはない。
軽く片付けを終えてご飯を温め直していると、ルームウェアに身を包んだレイシオが戻ってきた。いつもよりも少し早く出てきたのは、おそらく夕食の準備をすると伝えたからだろう。
「ああ、おかえり。ご飯も準備できてるよ」
ゆらゆらと立っているだけのレイシオにそう伝えたけれど、いまいち反応がない。かなり気が抜けている様子の彼の顔を覗き込んだところで、不意にその両手がアベンチュリンを捉えてぎゅっと抱え込まれてしまった。
「……ただいま」
「やっぱり大きいよね、きみ」
唯一自由がきく両手で彼の背中を撫でたり叩いたりしながら、彼が満足するまでそれに付き合ってあげる。なんだか首の周りを吸われているような気がしなくもないけれど、それすらも可愛いと思ってしまうので随分と心を許してしまっているらしい。
「っはは、ご飯冷めちゃうよ。一緒に食べよう?」
痺れを切らせて半ば強引にレイシオを引き剥がせば、少し不満げに尖ったその口先に触れるだけのキスをする。すると、簡単に機嫌を直したらしい彼が、おずおずとテーブルの方へと向かっていった。
美味しいご飯はやはり疲れた心を解いてくれる。そう思いながら二人できれいに買ってきたご飯を食べ切った後、アベンチュリンは寝室に向かったレイシオを見届けてから、シャワーを浴びに浴室へと向かった。
さっぱりした状態で再び寝室へと戻ってくると、寝ているものだと思っていたレイシオはとろりと瞼を半分以上下ろしながら本を読んでいるようだった。
「寝てなかったんだね」
「ああ」
パタンと閉じられた本は、サイドテーブルへとそっと置かれた。
「もしかして、待っててくれたのかい?」
もぞもぞとベッドに乗り上げてレイシオの横に潜り込むと、その体は強制的にレイシオの胸の中に抱え込まれてしまう。言葉なんか無くても、それが返事であることは明確である。
「……少し冷えている」
「ちがうよ、君があったかいんだ。眠いんだろう?」
その他にもとりとめのない話をしながら、徐々にレイシオの返事の間隔が遠ざかっていく。やがてそれは寝息となり、一定間隔ですうすうと静かにアベンチュリンの鼓膜を揺らしている。
「――寝ちゃったかな」
その言葉に対して返事はない。寝息が乱れることもなく、本当に彼が寝入ったことを示していた。
よくよく観察するとその目の下の隈は青く、彼の端正な顔立ちに影を落としている。らしくないことをぼろっと零してしまうのだから、その心労についてはおおよそ見当がつく。
いつもはアベンチュリンの言うことを聞き入れて無意識に甘やかしてくる彼だって、こうして眠ってしまえば幼く見えるのだから不思議である。どんなに宇宙で名を馳せるような男だって、こうして見るとただの男の子に過ぎない。
彼の願うこと全てが叶うわけでもなく、社会で働く以上避けられないストレスというのもある。それは自分とて例外ではなく、同じようにレイシオの肩を借りる日もあるのだ。今日はたまたまアベンチュリンが肩を貸す日だったに過ぎない。
だからこそ、今はただ君の心の靄が早く晴れることを祈っている。
「おやすみ、――」
起きている時には到底口に出せないような甘ったるい二人称で挨拶をすると、誰にも聞かれていないのに急に恥ずかしくなって頬が熱を持つ。慣れないことをするものではないと思ったけれど、それでも言いたかったのだ。
そんなアベンチュリンの百面相など知らないままで、レイシオは傍らで健やかに夢の中を揺蕩っているのだった。