【食人ずく∶人間だった君へ/小説】感想文 久我が愛した『永栄の言葉』とは本来、山から濾過された天然水が流れてくる感じで出て来るものだったのではないか? ……と解釈すると、永栄は言葉を水のように飲んで、さらさらと小川を流すように言葉を綴っていたのかなと想像した。
だから、飢えた獣のように言葉(紙)を貪り喰うようになった永栄の状態に、結構な絶望感を覚えた。綺麗な川(言葉)を作る山(永栄)が荒れたようだ、と例えてもいいのかなこれ……。
永栄は、言葉を追求していくことで、言葉という概念の深い領域まで潜り続け、その途中で灯りを失った。灯りの無い真っ暗な闇の中で、非常口ではなく「言葉を探さなければ」と足掻こうとした。やがて永栄は、精神をどんどん擦り減らしていき、果てに壊れてしまった。
こだわりが強い者ほど、それ(こだわる対象)に呪われやすいのではないかと思う。永栄は多分、言葉に呪われた。
事実だけを述べると、永栄を呪った言葉に『久我の言葉』も含まれていたのではないかと思う。例えば、久我本人が思っているように「最高の歌」を作ろうという言葉が、永栄にプレッシャーを与えて、最終的に永栄が壊れるきっかけとなったのかもしれない。永栄が『言葉を生み出す事』に対して久我が思う以上のアイデンティを持っていたとするなら、久我の「言葉(そんなもの)より大事なことだってあるだろ」という一言は、永栄を精神病棟入りさせる決定打になってしまったのかもしれない。
けれどもそれらは久我が悪いわけではなく、永栄自身の中で呪いになっただけ。これは「呪いを生み出すのはある意味自分自身なのだろう」という、友人から聞いた話の受け売りから来てる考えです!
久我が永栄に対して、悪意を孕んだ言葉を送ったことはない。久我じゃなくても、永栄は他人の言葉で呪われやすい性質だったのではと思う。
今の永栄では、以前の(水の)ように言葉を飲むことはできない。だから焦って、貪るように紙を食べてしまったのかもしれないだろうけど、それは言葉という概念ではなくただの紙なので、生理的な拒絶反応で嘔吐いてしまう。けど、言葉が逃げてしまわないようにするにはどうしたらいいのかわからない、だから足掻いて苦しむという、悪循環が発生しているのではないかと思った。
永栄の『言葉が逃げてしまう』というのが、実は自分にはよく分からなかった。自分はそもそも言葉を扱うこと自体が下手だし苦手なので、『言葉が逃げてしまう』という、まるで言葉を生き物のように捉えている永栄がいる領域が、自分には果てしない高みにあるように感じる。それだけ、永栄はすごいところまで行ったのではないかと思う。
いつの間にか、辿り着いたことがなかった領域にいた永栄は、今までどうやって自分が言葉を使ってきたのか、分からなくなってしまったのかもしれない。永栄はゲシュタルト崩壊やスランプ状態に近かったのかな? それが歪んで拗らせると、確かに入院レベルになってしまう恐れはある。永栄にとって『言葉を扱う』というのは、唯一のアイデンティらしいから、それがなくなる(わからなくなる)と一気に存在意義も揺らぎかねない。
久我という、永栄を待ってくれている存在がいることが、友愛の暖かさを感じたと同時に、心配にも思った。久我は久我で、永栄に呪われてしまっているように思えた。
皮肉にも、久我はこの呪いにかかったことがたくさん創作物を生み出す起爆剤になった。
一方で、永栄は時が止まっている。久我の願い(永栄とまた同じ場所で話せる時が訪れること)が叶う頃には、久我にかかった呪いは久我の『力』になっているのではないかと、自分は予想している。
呪われた者の末路として、灯りを失い真っ暗な闇の中を彷徨うこととなった久我は、永栄(人間だった君)を想いながら創作を続けていく。久我の行動を、自分は『祈り』だと思った。祈りはいつしか灯りになる。
もしも、久我の灯りがいつか灯台規模になり、それが永栄にも見えたなら。そして永栄がその灯台を目指して進もうと思えたのなら、二人はまた話し合えるのではないかと、自分はそう思った。
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なんと食人ずく様から感想文の感想文を頂きました! 許可を頂いて以下に転載させていただきます!
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『人間だった君へ』感想文 への感想文 (By食人ずく)
僕としては、久我の感性や視点のほうが自分の中にないものなので、永栄が発狂してしまったとき、久我が永栄に対して持った感情がなんだったのか、なぜか勝手に不安だった。
久我は多分善良な人だから、発狂した人間を前にしたところで見捨てたりしないだろうけど、そういう人はおぞましいものともまともに向き合うことになってしまうから。
発狂とは精神の本質が見える瞬間で、それは超常的な美と同時に「なにかに敗北した」人間の惨めな姿を目の当たりにすることにもなる。
かつての友の発狂を目撃した久我の中に芽生えたのが、恐怖だったのか嫌悪だったのか崇拝だったのか、僕にはわからなかった。ただ久我は最後まで永栄を人間として扱おうとした(それが、「言葉より大事なものだってあるだろ」という台詞である)。それこそが久我の思い遣りであり、いじらしさによって呪われる様が哀しいと僕は感じた。
久我の強さは、自身が生み出した罪悪感と呪いに向き合う覚悟を固めたことだ。久我のような人の真っ当な生き方に、僕は好感を覚える(いつかポッキリ折れてしまわないか心配だし、意識的に休んでほしいけど)。
永栄は弱い人間だと思う。
創造と向き合うとき、こだわるのは結構なことだが、そのこだわりが身を滅ぼすようでは人としてまともに生きられない。人として生きられないなら、遅かれ早かれ身体が限界を迎えるし、創作人生もそこで潰える。冷静に考えて「損」だ。
だから大抵の人間は、身の丈にあった望みを、自分が持てるだけの能力の、場合によっては半分以下で叶えようとする。狡いのではなく、それが当然だし、生きるためにそうするのだ。
生物として存在しながら創作をするという行為、そのものが奇跡のバランスなのかもしれない。
しかし、繊細さこそが永栄の魅力でもあったのだろう。
創作は、頑固であればいいというものではない。柔軟であればいいというものでもない。自我を保ちつつ、周囲の反応に応える余裕があるのが(特に現代においては)理想的、というのが僕の自論だ。
永栄は、こだわる割に染まりやすかった。まさに水のように、他者(久我)の言葉に揺さぶられた。「最高の歌」の定義など、絶対的なものではない。なのに、永栄は唯一絶対を求めてしまった。
正直なところ、僕は永栄の行動や価値観のほうが理解できる。だからただの自戒でしかないかもしれない。
当然ながら、久我と永栄どちらが悪かったという話ではない。ただ、色々と運が悪かっただけなのだろう。もっと二人が成熟した状態で出会っていれば、もっと冷静にいい意味でドライに、お互いの能力を補いあうパートナーになれていたかもしれない。それより先に、永栄が別の理由で発狂してないとも限らないが。
生きているかぎり、精神(心?)というものには傷がついていく。大きなものも小さなものも、いくつも重なって、研磨されていく。トラウマ級の思い出だって、個人個人を象徴する大切な要素だ。皮肉なことに、その傷がなければその人の人生だとは言えない。罪悪感も呪いも、いつか魂を磨く一部になっていく。
これは永遠のすれ違いの話だ。
永栄は人間を脱することで創作の限界に挑んだが、人間としては存在できなくなり、創作以外のすべてを失った。
久我は人として在ることを決意し、永栄のことを想い続けながら生きることに決めた。きっと久我にとって、創作とは手段でしかない。絆や想いといった、もっと大事にしたいものがあるからだ。
もちろん、二人の命が尽きるまでに、また同じ言葉で語れたら理想的だろう。
しかし僕は、このすれ違った二人を、膨大で柔らかな空気がいつも包み込んでいるように感じる。
生命であるかぎり、いつかは約束の場所に還る。そのときには言葉なんてものすら必要なく、彼らは通じあうことができる。だからいつか、痛みも苦しみも後悔も、決してすべて無駄ではなかったと思えるはずだ、と僕は信じている。