心臓に糸がもつれて『こい』と呼ぶ 「恋に溺れる」という言葉がある。大抵は自分を見失うほど好きになるという意味で使われるが、そこまで夢中になれるのならば幸せなのではないかと、私はそう思ってしまう。別に、そこまで軽い気持ちのつもりはないし、まして親愛なんてそんな生易しいものでもない。けれど恋に溺れているかと言われればそうでもない。いっそ溺れてしまいたいけれど、残酷なことに彼はそれを許してはくれなかった。別の人に楽しそうに笑う好きな人を見れば否が応でも冷静になるでしょう? そんな光景を背に兎よろしくその場から逃げようとした。もっとも、それも本人に止められてしまったのだが。
「何してんの?」
いつの間にか背後にいる夏目くんに思わず零れるハート。きっと彼は私の姿が見えたから声をかけてくれたのだろう。けれど単純な私はそれだけでも嬉しくて。そうやってまた溺れさせようとしてくるのだから、なんて優しくて、やっぱり残酷。だから後夜祭の最初のダンスのお願いだってきっと彼の優しさに付け込んだだけ。
***
後夜祭。姉と一緒にダンスが行われている会場へ向かう。姉と分かれて一人壁の花と化していれば近寄る影。
「悪ぃ、待たせた」
そう言う彼の姿は気崩された制服ではなく奇麗な正装。いつもとまた違った雰囲気に頬が熱くなる感覚。
「かっこいいね」
「……おう。お前も、その……似合ってる」
ふわりと笑う彼があまりにも眩しくて思わず視線を逸らした。バックミュージックも相まって、まるで令嬢か、おとぎ話のお姫様にでもなった気分だ。
「じゃあ行くか」
差し出された手を取って色が舞う和の中に歩を進めた。
踊っている間はあっという間だった。お互い特に何を言うでもなくただ流れに身を任せる。ぽつりぽつりと口を開いても気恥ずかしさが混ざってすぐに終わる会話。それでも充分だった。そんな空間が心地よかった。いっそこのまま時が止まってしまえば、なんて陳腐な希望を願ってしまうほどには。そんな願いも空しく、音楽は止まり一時休憩。互いにお辞儀をして散らばる人々の流れに乗って端に移動する。相変わらず会話をすることはなかった。
シンデレラでいられる時間は終わったのだと、これ以上拘束するわけにもいかないと笑う。
「踊ってくれてありがとう、夏目くん」
知り合いでも探そうかと踵を返せば暖かい手が私の腕を掴んだ。
「……待って」
いつになく真剣な表情に心臓が早鐘を打つ。再び流れ始めた音楽のせいか妙に気恥ずかしい。あの……、と様子を窺うと同時に彼が口を開いた。
「……俺、お前のこと好きなんだ」
耳を疑った。だって、彼は好きな人がいて。私には興味がなかったはずで。様々な言葉が頭の中を駆け巡る。嫌いになったわけではないのだから二つ返事で了承してしまえば良いのだろうに、しかし私は素直に頷くことができずにいた。
兎は元来臆病なのだ。
「そ、れは……どういう……」
「恋兎、お前が好き」
彼が、私を、好き。何度も脳内で反芻してやっと飲み込んだ言葉にみるみる顔が赤くなるのを肌で感じる。理解が追い付かない。
「その、返事、聞きたいんだけど」
こちらを覗き込んでくる二つのパープルダイヤ。眩しい程の瞳に反してじわじわとぼやけ始める自身の視界を手で隠して、声にならない声をなんとか絞り出した。
「喜んで……!」
ぼやけた視線の先には、以前自分に向けてほしいと願っていた嬉しそうな笑顔。堰を切ったようにぼろぼろと溢れ出した涙はとめどなくドレスを濡らしていく。優しく涙を拭うその温もりは、声は、私がずっと求めていたもの。
「ね、お前に泣かれると弱いから……泣き止んで」
そうは言っても止められないのだからしょうがない。それでも何とか落ち着きを取り戻しながら、涙の代わりに言葉を零す。
「好きだよ。ずっと好きだった。大好き」
知ってる、とおもむろに掴まれたままだった腕を引かれ、勢いのまま抱き着く形で夏目くんの胸に飛び込んだ。
「お前が最初に俺のこと好きって言ったんじゃん」
ぎゅう、と抱きしめられればもう私の脳はキャパオーバーで。
「うん……」
そんな返事とも言えない返事をして、彼の背中に腕を回すのが精一杯だった。
これは、私の恋が初めて実ったお話。
最初で最後の、恋のお話。