ワルプルギスのナポレオンパイ 「店員さん、ナポレオンパイ一つ」
「うちは二つ!」
「はいっ、ただいま!」
魔法界に四月三十日が訪れた。商店街や繁華街から遠く離れた、私の小さなパティスリーにも人が来る。買っていくのは人それぞれだが、今日売れ行きが良いのは豪華なナポレオンパイだった。
滑らかなクリームをたっぷり絞ったパイ生地はカスタードといちごがおり重なるスイーツの王様。作るのは難しく手間暇がかかるが、その分華やかで美味だ。
なぜ人が華やかなケーキやミルフィーユを買い求めるのか。
そう、ワルプルギスの夜である。
ワルプルギスの夜は、我々に神秘と魔法を授けてくださった神へ篝火で祈りを捧げ、祝う祭りだ。皆思い思いの形で信仰心を表すが、豪華な食事、ワインとビール、オーナメントで家を飾り付けるなどが主流になっている。
その一環で私たち製菓業界は儲かるのだが、引き換えにとにかく忙しいのである。うちは小規模のパティスリーなので、人など雇えない。私一人でどうにか回しているが、この時期は食費を削って手伝いを雇うか真剣に検討する。
ワルプルギスの"夜"というだけあって、この祭事が本格的に盛り上がるのは夜だ。つまり、日中頑張ってしまえば夜は皆屋内に篭るので落ち着ける。
忙しいけどあと少し。きっとあの人がやってきてくれると信じて、取り置いたナポレオンパイを見ながら私はラッピングに取り掛かった。
時は早くも夜。人々が祈りを捧げる午後九時半。
「つ、疲れた……!」
すっかりくたくた、立ちっぱなしで足も痛い。昼食だって食べそびれて、腹がぐぅぐぅ鳴っている。疲れ果てた私はキッチンに簡易椅子を出して座り、ぺたりと上体を調理台に預けてあの人を待つ。
眠くて眠くて仕方ない。このままだと眠ってしまいそう。節々が痛む体をどうにか起こすと、冷蔵庫に入れて保管したナポレオンパイが目に入る。
あの人は来ないだろうか。最後に残した秘密のナポレオンパイ、この想いと共に食べてしまってもいいだろうか。
ぐう。
胃袋の急かすままにフラフラと冷蔵庫へ向かう。
ちりん。鈴の音。玄関からだ。
「まだやっているかな」
あの人だ。豊かな銀髪を揺らして、大きな体を狭そうに縮めながらドアから入ってくる。
彼がくるのはいつも夜。特別な夜にはいつも来てくれる。食べなくて良かった、待っていて良かった。
「い、いらっしゃいませ!」
「おすすめのケーキはあるだろうか」
「!でしたら、ナポレオンパイが、ひとつ」
「それを頼む。今日は、ワルプルギスだから」
小さく微笑む彼に頬が上気するのを感じる。表情の半分は見えないのに、その優しさ、柔らかさが胸を締め付ける。この人が大好きだ。
いつか、名前を教えてもらいたい。それだけでいい。
「お待たせしました」
箱詰したナポレオンパイを手渡すと、彼は少し無言で箱を見つめたあと、私の顔を見た。
「共に食べないか」
「えっ」
「私にはこれを大切に分かち合う相手がいない。ワルプルギスを祝う家族も、あいにく今日は皆揃わなくてな。ならば、共にと思うのだが、どうだろう」
「……喜んで」
名前を知るどころか、一足飛びに関係が発展しそうな夜に、私は深く感謝した。
神よ、銀髪のあなたよ、私の春を寿いでくれるのか。
今年のワルプルギスは、特別なものになりそうだ。