しあわせへの道程 決意とか覚悟とか、そんなものを決める前にはじまったジュンくんとの交際関係が、もうすぐ三年になろうという頃。私の年齢はいわゆる「結婚適齢期」という時期を迎えようとしていた。
周囲の友人には結婚や出産をしている人もでてきて、いい人とかないの、なんて言われることも珍しくなくなってきた。それでも、私にとってはまだ先のことで、イメージなんて全然できなくて──でも、もしこの先結婚することがあるのなら、その相手はジュンくんなのかな、なんてことを考えることがなかったと言えば嘘になる。そんな頃。
ジュンくんの隣で寝ている時に、手を握られることが多くなった。多くなったと言うか、始まったと言うか。それまでだって確かにそういうこともあった気がするし、最初に気がついた時は外で気軽にそういうことができない分、うれしいなとか、しあわせだなとかいう気持ちがあった。でも、隣で眠る度ほぼ確実と言って良いほどの確率で手を握られて、と言うか、もっと言えば何かを確かめるみたいに指を触られれば、もしかしなくても「そういうこと」なのかな、と思い至ることはあった。でもそれをシンプルに「うれしい」と思っていた時点で、最初から答えは決まっていたようなものだと思う。
「あんずさん。今までもこれからも、ずっと好きです。だからオレと、結婚してください」
個室のある、ホテルの最上階に位置するレストラン。そんな場所を選んで食事をするとなれば、最近のベッドでの様子と相まって、いよいよなのかな、となんとなく勘づいてしまっていた。昨日も今日も随分そわそわとして、うわの空な様子だったし。
でも、誰がなんと言おうと、髪を整えスーツをばっちり着こなして跪くジュンくんは、誰よりも格好良く見えた。
「……はい。よろしくお願いします」
本当は、アイドルとプロデューサーだからとか、せめて時期を考えてとか、色々考えることはあったと思う。でも、お付き合いを始める前から今日に至るまで贈られ続けた、あのお菓子やキーホルダー達を思い出させる蜂蜜色の瞳を前にして御託は並べられなかったし、嘘なんて到底つけそうになかった。それは、自分にだって。
良かった、と心底安心したように呟いたジュンくんの蜂蜜色はいつもよりきらめいていたけれど、それには気づかないふりをしたのに。紺のベルベットに収められた銀の輪に同じ蜂蜜色が埋められていることに気がついたら、私の方がなんだか目頭が熱くなってしまった。
「……え、あんずさん、どうしました? なんか嫌でした?」
「な、んでもない、大丈夫」
「いや、大丈夫じゃなさそうなんですけど……もしかして指輪は自分で選びたかったとか?」
「ううん、ちがうの。……ありがとう」
「? どういたしまして……? ……あ、でも、結婚指輪はちゃんと、ふたりで見に行きましょうね」
そう言って笑うジュンくんの顔がやわらかくて、好きで、うん、と素直に答えながら胸が温かくなったけれど。オレの給料三ヶ月分ってどんなもんですかねぇ、まぁそんなの関係なくいいやつにしますけど。なんてこわいことを言い出すから、涙も引っ込んでしまった。
そうして私たちふたりの間で約束を交わしてからそう間も空けないうちに、ジュンくんが「ご両親への挨拶っていつがいいですか」と聞いてきた。それには答えずにまずは、と話を振って、迎えた今日。
私たちはふたりで並んで、コズプロ副所長室のソファへ腰かけていた。
「それで、話というのは?」
「えっと……」
「茨くんも忙しいと思うので、単刀直入に。……私たち、その、結婚しようと思って」
一世一代の告白、くらいの気持ちで臨んだというのに、茨くんから返ってきたのは「そうなんですか」という一言だけ。かちり、とブリッジを上げた後に何か言われるのかと思いきや、コーヒーを一口飲んでそのまま黙ってしまった。
「……あの〜、茨?」
「何か?……ああ、一応祝辞を述べておくべきですかね。おめでとうございます」
「いや、その……ありがとうございます、なんだけど。……茨くんとしては、と言うか。Edenのプロデューサーとして、副所長として……別に、良いのかな」
「はぁ。……良いも悪いも、あなた方の様子を見るに、自分が何かを言ったところでその決心が揺らぐものでもないでしょう。そもそも、そんなぬるい交際だったのであればもっと早い段階で止めていますしね」
それはそう、かもしれないけれど。でも正直拍子抜けした、と思いながらもう一度茨くんと目を合わせれば、先ほどよりも強い意志を持った瞳に射抜かれた。
「あなた方が交際をはじめてから、三年……でしたっけ? その間、これといったスキャンダルもなかったですし。……とは言え、あなた方が自分に期待してきたこと──と言うか、身構えてきた理由は分かります。きっとアイドルとしての在り方がとか、そういうことを言われると思って来たのでしょう」
「……」
「ですが。それこそ、自分が創り上げてきたEdenの、Eveの、『漣ジュン』というアイドルを舐めないで頂きたい。あなた方が結婚したからと言って、その人気は揺るぎません。……揺るがせません、この七種茨が」
普段冷たささえ感じることのあるその薄青には、今、強く確かで、圧倒的な自信が宿っている。
「それから。自分は人としての幸せを蔑ろにしてまで、仕事に費やして欲しいとは思っていません。それはジュンにも、あなたにもです」
「……ありがとう」
「礼を言われることではないと思いますが。……まぁ、これは調子に乗らせる気がするのであまり言いたくはないのですが──ジュンには、あんずさんとの交際を経て得たこともあるようですしね」
これから先も、仕事に良い影響をきたして頂けることを祈っています。
そう締めくくった茨くんは、いつも通りの少し冷たい雰囲気をまとった彼に戻っていたけれど。話が終わったなら出て行って下さい、これ以上あなた方に構っている暇はありませんので、と言い放たれたって、私たちの気分が翳ることはなかった。
◆
「それで? きみたちはなにか、ぼくに言いたいことがあるんだよね?」
あんずさんとふたり揃って副所長室を出た直後。ポケットで震えた端末を取り出して確認すれば、そこには想像通りの名前があって、思わずため息をついた。だってたった今、茨から思ってもみない祝辞と激励をもらっていい気分だったところなのに、このお貴族サマはいつだって空気を読まない。
「もしかして、日和先輩から?」
「はい。『いつものお店のキッシュが食べたいから、買ってきて欲しいね』だそうです。ほんと、いつまでもこっちの事情構う気なくて困っちまいますよぉ」
「あはは。……でも、ちょうど良かったんじゃない?」
「へ? 何がですか?」
聞き返した先のあんずさんの時を得顔の理由がわからなくて、オレは首を傾げた。
「とりあえずキッシュ、買いに行こう」
「え、いや、それは行きますけど……って、いやあんずさんは行かなくていいですよ? オレが行ってきます」
「ううん、私も行くよ。それで一緒に、結婚の許可もらおう」
「……あー、なるほど……」
結婚の許可、という言い方が引っかかった──だってあの人は親でもなんでもなく、もらわないといけない許可なんてない──けど、あんずさんに言っても笑うだけだった。いわく、「日和先輩は、ジュンくんにとってお父さん……お兄さん、かな、とにかく家族でしょう」とのこと。とっさに否定したくなったけど、多分否定したところであんずさんは納得しないだろうなと思ったからやめた。
そうして三人分のキッシュを購入の上、足早に向かった先で待っていたおひいさんに紅茶を淹れさせられてから、キッシュを半分ほど口にした頃。こちらをろくに見もせずに口を開いたおひいさんは、冒頭の言葉を口にした。
「……え」
「なんで……」
「ぼくをあんまりなめないで欲しいね? 仕事でもないのにきみたちがESで一緒に行動してるのは珍しいし……まぁ、目を見ればわかるよね?」
「……」
「内容も大体察しはついているけれど、言うなら言うで早くして欲しいね」
ぼくはそんなに暇じゃないからね、と言う割に優雅にキッシュを食べる目の前の人は、存外やさしい目をしている。だから、いつだって自分本位なこの人を心の底から嫌いになれることはなくて──やっぱり、家族みたいなものなのかもしれないと思った。
「ええと、実は」
「いや、あんずさん。オレから言います。……おひいさん」
「なあに」
「オレたち、結婚することにしました」
はた、と瞬きほどの時間だけオレと目をあわせて動きを止めたおひいさんは、次の瞬間にはあんずさんの方を見て、そのアメジストの瞳を輝かせた。
「おめでとう。……本当に」
「ありがとう、ございます」
「ジュンくんもね。やっとだね、本当に……やっと」
もう少し遅かったらまたぼくがお世話を焼いちゃおうかと思っていたところだったんだけどね、なんてのたまうおひいさんについ口が出そうだったけど、そのアメジストが少しだけ濡れていることに気がついてしまって、とっさに言葉が出なかった。
「それで、婚姻届は?」
「……は? そんなの持ってるわけ、」
「あります。……証人、なってもらえますか?」
「え、あんずさん何言って、?」
あんずさんが鞄から取り出したのは間違いなく、先日ふたりで記入した書類。提出は周囲の人に報告してからと思っていたし、確かにまだ証人の欄は埋まっていなかったけど──それをおひいさんに頼むなんて聞いてない。
「うんうん、さすがあんずちゃんだね……って、なにするのジュンくん、返して」
「いや待ってください、証人を誰に頼むかなんて話、してないですよね?」
「え。……そう言えばしてなかった、かも? でも、ジュンくんは日和先輩に頼むんだと思ってた」
「ジュンくんてば、ぼく以外にお願いしたいひとがいるの? いないよね?」
当然みたいにそう言ったおひいさんとあんずさんは、オレの行動が理解できないみたいな顔をしている。……いや、そりゃあ、他に頼みたい人なんてぱっと思いつかねぇし、考えてみりゃおひいさんが妥当かもしんねぇけどさぁ。
「……う〜、確かにいない、ですけど……でも、」
「でも、なに? ここまで来てなにをもだもだすることがあるの」
「ジュンくんごめんね、ちゃんと相談するべきだった」
きっとめでたくてしあわせな場面のはずなのに、あんずさんをしゅんとさせてしまったことに罪悪感が募る。
「いや、あんずさんは悪くねぇです。オレが考えてなかったのが悪いんで」
ふぅ、と息をひとつはいて、誓いを立てるみたいに口を開いた。
「おひいさん。オレとあんずさんの、結婚の証人になってください」
「……ふふ。このぼくが証人になってあげるんだから、幸せにならないと許さないからね」