若きパイロットの困惑 空港内にある南陽航空の社内エリア。パイロットたちが行き交う廊下も、時間帯によっては人が少ない。しんと静かな無機質な廊下に、二人の人影が佇んでいた。
「南風、どうしてなんだ」
「別に……やっぱりやめようと思っただけです」
南風は下を向いて、とん、と背を廊下の壁に預けた。いつになく拗ねた表情の南風に、前に立つ風信は、腕を組んだまま首を傾げる。
「だが、あんなにやる気だっただろう? 受けてみればいいじゃないか」
「簡単に言わないでください、機長。やっぱりあの試験は俺にはまだ早いです」
南風は俯いたまま溜息をつく。「自信がないだけです。どうぞ、笑ってください」
失礼します、と言って去ろうとした南風は、その途端、頭の横に衝撃を感じて固まった。
「待て、南風。嘘をつくな」
そう言う風信の怒ったような眼差しが、南風のすぐ目の前にあった。
左の視界の端には、壁についた風信のがっしりとした右腕。
少し見上げる位置から注がれる視線に射すくめられる。その目にはすべて見透かされてしまうことを南風は知っている。
「……誰かになにか言われたか」
風信の言葉に、南風が目を逸らし小さく溜息をつく。
「過去問を見て勉強してたら……先輩の機長に……背伸びが好きなんだな、と」
南風の口から出たその言葉は平坦で悪意を見せないものだったが、風信にはその場面が想像できた。おそらく、その言葉は存分に嫌味をのせた声音で投げつけられたのだろう。
気にするな、と風信は言いたかったが、なぜ南風が折れたのかはわかっている。副操縦士にとって、機長とぎくしゃくした関係になることは避けたいものだ。
南風がぐっと唇を噛む。
「南風」風信はそう言って、壁についていないほうの手を上げ、南風の顎に添えた。指で優しく唇の下を引いて、噛んだ下唇をすっと外させる。
「お前はもっと背伸びしていい。いや、しないと駄目だ」
南風の目が潤み、わずかに睫毛が揺れる。
「そういうことを言われたら、お前のいつもの笑顔で冗談めかして言えばいい。ダメもとでちょっとやってみるだけです、と」風信がふっと笑う。「心配しなくても、そう簡単に受からないさ」
その言葉に、南風の口からも笑みが漏れる。「そうですね」
南風の目にいつもの輝きが覗き、風信は心の中で安堵の溜息をつく。
「それにしても」南風が首をゆっくり左右に振った。
「この体勢……誰かに見られたら誤解されません?」
「ん? あ、ああ、すまん」自分の体勢に気づいた風信は、さっと腕を壁から離し、咳払いをした。
「とにかく、お前ならできる。頑張れよ」そう言って軽く手を上げ、風信はそそくさと去っていった。
それを見送ったあと、南風はふうと息を吐き、壁にもたれかかったまま、しばらくぼんやりと虚空を見つめたあと、ふっと小さく笑い、軽い足取りで去っていった。
その間、廊下を通りかかる者は誰もいなかった。
だが、二人とも、少し離れた資料室のドアの窓から見ている視線には気づいていなかった。
部屋から出ようとしたその若いパイロットは、ドアノブに手をかけたところで手を止めた。ドアのガラス窓から廊下の先にいる二人に気づいたのだ。業務以外で話したことはあまりないが、顔と名前は知っている。
気にせず出ていこうとしたとたん、風信が勢いよく壁に腕をつくのが見えた。そして、南風の顎に手をやる。何をやっているのか彼の位置からはよく見えなかったが、二人の顔が重なって見えて、どきりと胸が跳ねた。
自習の部屋も兼ねている資料室のドアはしっかりしていて、二人が何を話しているのかは聞こえない。しばらくして、わずかに頬をゆるませた南風が前を通り過ぎていった。
首を傾げながら、彼はそっと部屋を出た。
だが、彼の心を掻き乱す出来事は、それだけではなかった。
少したったある日、パイロットの更衣室に一歩入ったところで、彼は足を止めた。ロッカーの立ち並ぶ部屋の奥から声が聞こえる。姿は見えない。だが、その声を聞いて誰かすぐにわかった。
「機長の体、ほんとにすごいですね」
熱っぽい声は、南風だ。ははっと小さく笑う声がする。「そうかぁ?」
風信機長だ。つづいて南風の少し抑えた声が聞こえた。
「あの、触ってもいいですか?」
……いったいあの二人は奥で何をしているんだ? じっとしたまま彼は耳をそばだてた。
かすかな衣擦れの音。
「すごい」息をのむような南風の声。「……おっきい」
「お前だって」風信機長の囁き声。「ほら、こんなに固くなってるぞ」
「ちょ……恥ずかしいじゃないですかっ……」
しばらくの間、静寂が流れた。そして、おずおずと言う南風の声が聞こえた。
「機長……俺、今日は準備してきたんです……だから……」
ややあって、ああと答える声がしたあと、机か椅子を少し動かす音がした。
「いいんだな?」風信機長の声に、南風の答える声は聞こえない。
そして、机がぎっと短く軋む音がした。
「……は……ンっ」
静かな室内の空気をわずかに振るわせるその艶めかしい声に、ロッカーの影に佇む彼の目が丸くなる。
いったい彼らはナニをしているんだ?
仮にも社内だ。いや、社内でなくても、機長と副操縦士の関係として、バレれば絶対まずいことになる。だが、二人は南陽航空きってのパイロットたちだ。こんなことでキャリアを潰していいはずがない。
彼は息を殺しながら考えた。こんなこと誰にも言えない。こうなったら、自分の中だけでしまっておこう。この秘密は墓場までもっていくしかない。
彼の動揺などよそに、奥からは二人分の息遣いと喘ぐ声が続く。
「な、なんふぉん……そんな顔するな……すこし肩の力を、抜け」
「で、できるわけ……ない、じゃ、ないですか」
苦し気な南風の声がする。
「い、いや、そのほうがラクだから……信じろ」
はあはあという息遣いの音だけが響く。
「……な? そのほうが、イきやすい」こちらも絞り出すような風信機長の声。
「ふ、、機長、余裕ですか……もっときてくだ、さい、よ」
「……ん、あ、煽るな…っ」
机が床をずれる音。
「あッ……ふ、強い……! も……む、むりッ」
二人分の荒い息と唸るような声が重なり、そしてズズズっと机がずれ、ドンと壁にぶつかる音がした。
「あっ……んぅ」
「……南風……!」
もう限界だった。気が付くと、彼は思わずロッカーの影から顔を出していた。
「な、なにをやってるんです?!…………え?」
驚いた二人が、彼のほうを見る。
二人とも、きっちりと半袖のパイロットシャツに身を包んでいた—―もちろんズボンも履いている。
二人は奥に置かれたテーブルに向かい合って座り、顔を上気させ、ふうふうと息をついていた。南風はテーブルに倒れ込んで腕を振っている。
風信機長が気まずそうに髪を直す。「あー、いや……」
「その、機長とちょっと、腕相撲を……」南風が体を起こし、首の汗を拭いながら笑う。
「まあ、負けちゃったけど」
「南風、手は大丈夫だったか?」風信機長が南風の左手をとって見つめる。
「ええ。それにしてもやっぱり機長、強いですね。まあ、あの二の腕だし当然かぁ」
風信機長がふっと小さく笑って、ぐっと腕を曲げる。半袖のシャツの袖口から盛り上がった筋肉がのぞく。
「俺もまだ現役だったな」「まあ、そのうちいつか機長を負かしますから!」南風もぐっと腕を曲げて見せる。
笑い合う二人を、彼はぼんやり放心しながら見つめた。
とりあえず、不適切なことが行われていたわけではないらしい。
不適切ではないことこの上ない。――力こぶの見せあいに腕相撲なんて、小学生か。
だがしかし、この二人はいったい――。彼の中の困惑は、まだ当分消えそうになかった。