ワンライまとめ平々凡々
とある休日。男は翻訳の仕事に区切りを付けてキッチンへ再び珈琲を淹れにリビングを横切ろうとした時、横目に入った青年の格好が如何にも彼不相応で思わず立ち止まった。
男と同居している青年は、リビングに扶持された黒色のカウチに座り映画を見ていた。奥底まで暗然たる黒が侵食する、ミルクや砂糖も入れていないであろうコーヒーが並々と注がれたコーヒーカップを片手に足を組んだ姿で。また、カウチに隣接されたセンターテーブルにはシガーケースらしきものと一冊の文庫本(分厚い英書だと考えられるもの)が置かれている。
男は青年が己に気が付いていないのを余所目に、青年の隣へと腰を下ろした。
「面白いか」
青年は男の気配に気が付いていなかったのか、大きく肩を上下させると何事も無かったのかのように組んでいた足をそろりと戻した。
「……映画?面白いよ」
男は青年を一瞥もしなかったが、かと言って映画を見ているような目線をしている訳でもなかった。
「いいや?映画ではなく、真似事の話だが」
男は目線だけを青年に流してくつりと笑った。何せ顔ごと傾ける必要が無いほどに、青年の顔は羞恥で真っ赤に染まっていたのだ。
「如何だった?俺は」
青年は気まずそうにコーヒーカップを口元に寄せると、小鳥が啄む様に真っ黒コーヒー琲を飲んだ。多分。
「特段、別に、なにも」
青年は壊れかけた機械のように全ての単語に間を置いた。特段。別に。男は目を細めて口角を上げる。如何にもご機嫌といった様子をこれっぽっちも隠していない。
青年は突如流れ始めた不穏な空気を察知して即座に腰を浮かせようとしたが、男に制されて遂に敗北を認めた様に深々とカウチに腰掛けた。青年が何かものを言おうとする前に、男が口を開いた。
「英書のみならばお前が大学で履修した何かに関与するものだと考察したのだが。その巫山戯た似非煙草を詰め込んだ箱と、冷えきった油脂の浮かぶ泥水はいっそのこと哀れだな」
「……煩い」
煙草菓子――『ココアシガレット』――と書かれた箱の中身は僅かばかり減っていた。だが一方、男に指摘された珈琲――コーヒーなのかはさておき――は全く以て減っていない様子だった。男はクク、と特殊笑みを零すと、青年の手から瞬く間にコーヒーカップを攫ってしまった。
「あ、ちょっと」
「お前は此方だろう?」
青年が新しく手渡されたコーヒーカップはまだ温かく、中身はミルクが加えられた事で大分まろやかになっているであろうコーヒーだった。ソーサーにはきちんと角砂糖が二つ添えられている。
青年が突如渡されたコーヒーカップに唖然とする中、男は飄々とした顔で胸ポケットから煙草を取り出した。口に咥えられた煙草と青年を男は目線のみ往復させる。青年は目を逸らしていたものの、男が一向に火を付ける気配が無かった為にのろのろと以前から渡されていたオイルライターで火を点した。
「Merci.」
男はそういうと(青年が思うに)長すぎる脚を組んで、薄く開いた唇の間から紫煙を燻らせた。
「…………伊達男」
青年のぽつりと落とした呟きに、男は目を細めて笑うと映画へ目線を移す。
男は普段室内で煙草を吸わないようにしているのだが、この時青年はそれに対して気がつくことは無かったし、また忸怩故にそれ所でも無かった。
青年が誤魔化すように飲み込んだコーヒーはいつも以上に酷く甘美な味がした。
・
気紛れ後、独占欲
「見て、あの猫君みたい」
そう微笑んだ青年の目の先には耳先から尾の先まで白く、双眸が蜜の飴玉のような美しい猫がいた。
可愛いと呟いて頬を緩ませる青年の無防備な首筋に、男は何の脈絡もなくほんの一瞬歯を立てた。青年はびくりと肩を震わせて、恰も何もしていないと言わんばかりの飄々とした顔をする男へ胡乱とした視線を向けてわなわなと震えている。
「なに……!?ここ外…!」
急速に顔が赤く染っていく青年を横目に、男はフン、と息を吐いた。
「俺だけで充分だろう?」
「俺はあの猫が君に似てるって言っただけで……。違う、飼いたいとかじゃ無くて、ましては君みたいなのが…」
男は顔を赤らめて拗ねている青年を一瞥すると、何かに満足したように目を細めて青年の腰に手を回した。
「ほ、んとに、何……」
青年は男と自分の腰へと回された手を暫らく交互に見ていたが、再び何かされるのでは無いかとはっと身構えて男を睥睨する。青年はまるで警戒する猫の様で、男はそんな青年にくつくつと喉を震わせて笑った。
「俺もお前だけで充分だ」
青年は此処で漸く自分が男にそう言葉を発するように誘導されていたのだと気が付いて、弱々しく握った拳で男の肩を素早く叩くと手を引っ込めた。しかし一方、そんな青年に男は喉奥を振動させて、遂に「お前は猫の様だな」と特殊な笑声を響かせた。
案の定男の腕から逃れた青年は、帰宅するまで男を睨むような視線を度々送らせていた。
これ以降男は青年に「Mon chaton」という言葉を使うようになったのだが、青年はこの言葉の意味など知る由もない。
・
流れし生命
ピ――ピ――ピ――という心電図の刻む電子音が、薄暗い部屋で単調に響いている。薄闇に包まれた部屋にはポークパイハットを深々と被り、夜の帳のような上衣を羽織った男と、消毒液を匂わせる清潔な白いシーツに覆われたギャッジベッドに横たわり、腕や胸元から管が幾つも伸びている少年が居た。
少年の胸元が小さく上下し呼吸している動作が見て取れたものの、首や腕には血が滲んだ包帯が何重にも巻かれて瞼も固く閉じている。
白皙の面に月の双眸を持つ男は、指先まで包帯の巻かれた痛々しい少年の片手をそっと手に取り、敬虔な信者のように跪いて瞼を閉じると己の額に少年の手の甲を当てた。
少年の手も男の手も双方共に酷く冷えていた。だが、少年の手には確かに血が巡っている。微かに振動し、生の時を刻まんとする少年の心臓からは確かに命の灯火が感じられた。
男は数分――いや、数秒だったかもしれないが――不意に少年の手を元にあった通りに戻すと、誰にも気付かれない程の溜息を吐いて僅かにベッドへ凭れ掛かった。
「(…馬鹿らしい)」
男はそう思った。亡き者が、ましては自分のような復讐鬼が、死に損ねた生者の存命に安堵を憶えるなどと。
――だが、確かに男はこの少年に希望を、未来を、輝きを視た。男が唯一共犯者と呼ぶ少年。七つの試練を超えし己が導くべき存在に値するこの少年を、男は確かに正しく愛していた。
共に駆けるのも須臾の刻、復讐者たる己が此の元を離れ決別する運命は目に見えている。ならば。
今この時、この泡沫の夢の間は。
己が後世に輝きを遺し潰えた今は亡き星であれど、今を駆け往く星の輝きを眺める事が――
「(……嗚呼、己もまた随分と酔狂な事だ)」
男は閉じていた瞼を開けると、瞬く間に霧散の如く闇夜に溶けた。
手の届かないあの星は
今宵も目が眩む程に輝いている
・
指先に灯火
積もり積もった雪の先にある春の暖かさに手を伸ばすように、まだ冷め切らぬ人肌の温もりを残したシーツを手繰り寄せるように。少年は青白く光る召喚陣の上で空虚へと手を伸ばした。彼を喚ぶ為に。
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に聖杯の寄るべに従い、人理の轍より応えよ――」
少年の腕が、震えた。首筋には汗が伝い、息も切れている。だがそれは少年の意志を妨げる理由にはならない。震える肺に空気を送り込み、少年は再び言葉を紡いだ。
「汝、星見の言霊を纏う七天。降し、降し、裁きたまえ、天秤の守り手を――!!」
目の前の時空が歪み、細かな霆のように走る黒から紫の炎が零れる。熱風が少年の頬を掠った。召喚室を揺蕩う炎にはほんの僅かな燻る煙草の匂い。
少年の伸ばした震える手に、懐かしくも冷たい指先が触れた。紫の炎は瞬く間に花弁の如く消え去り、廃棄孔で共に戦った彼が目前に現れる。
「……おまえには驚かされる。何事かと我が目を疑ったぞ」
男は困惑を含ませた紅玉の隻眼で少年を真っ直ぐ見つめていた。少年の瞳からは堰を切ったように涙が零れている。男が少年の碧い眼が涙とともに溢れてしまうのでは無いかと思ったほどに。震える声で、それでも笑顔で少年は男の名を呼んだ。
「がんくつおう、」
そう呼んだだけで男は酷く傷付いた様な顔をしたが、少年は構わずに触れるだけの指先を引き寄せて抱きしめた。抱き寄せた身体は揺らいでいて、まるで炎みたいで。でも寸分違わずにそれは彼だった。
「おい、俺に近――」
少年は男の言葉を遮って、抱き締める力を強くした。
「ねえ、オレを導くって言ったのはキミなんだよ」
男は自分を抱き締めて泣き続ける少年に溜息を吐きながらも、優しく少年の背を撫でて困ったように笑った。
「おまえと言う奴は本当に諦めが悪い」
「……それがオレの良い所でもあるでしょ」
「…ク、それもそうだな」
男は涙が止まりつつあった少年の涙を掬って離れると、口角を上げて例の特殊な笑声を響かせて紅玉の様な隻眼を鋭く光らせた。
「我こそは復讐者!巌窟王、モンテ・クリスト伯爵である!嗚呼、いいだろう。おまえが、真に心より求めるならば!消えるまでの僅かな間のみではあるが、この炎――存分に使ってみせろ」
・
幻夢は明日を導くか
血に濡れた手、消滅の間際に聞こえる断末魔、瞳から喪われる光、身体を切り裂かんと脚から這い寄る怨恨。心臓が震撼すれば感覚が。静寂が鼓膜を覆えば咆哮が。瞼の帳を降ろせば情景が。冷たい床に爪先を触れさせれば恐怖が。死が、亡き者が、ある筈の無かった未来が。明日はお前だと、次はお前だと、暗闇の深淵から、死の淵から手を伸ばす。
「共犯者」
その中で、暗闇の深淵と同じ色をした燈が己の手を掴んだ。
「おまえが過去を省み口惜しむ時間など無いに均しい筈だろう」
少年は何かを言おうとしたが、その何かはごぽりと水音をたてて無に溶けた。
「瑣末な事だ、音にする必要はあるまいよ。声にしたとて詮無きこと。なあに、おまえの蒼き瞳は何よりも雄弁だからな」
男は小さく息を吐く。それは夢から現実へ浮上するような、煙草の紫煙を吐くような呼気であった。衣擦れの音がしたが目の前が暗闇に包まれていて、男が動いたのかも自分が何処に在るのかも、果たして自分は今立っているのかでさえも定かでは無い。しかし、男はこの状況を歯牙にも掛けずに言葉を連立させていく。
「振り返るな。おまえが掬うべき希望は此処には無い。弔う事も、己の死を願うのも、過去に思いを馳せ悔やみ嘆くのも。今おまえの枢要とは成りえんだろうよ」
少年の指が黒色を掻いた。しかしそれは揺らめいて、指の間を摺り抜けて行く。
「オレ達は既に解かれた身だろう、共犯者」
共犯者――そう――男は、少年にマスターという呼称を使っていなかった。少年は己の瞳から透明な何かが零れるのを感じたが、それが何であるかは分からなかった。
「明日を生き往く決意を魅せ決別し、互換に決意である俺を喚んだのはおまえだろう。――まァ、寄せられたのは誤算だったのだが」
男はくっくと喉を鳴らした。黒色に染まり顔の見えない男の笑声は酷く優しい響きをしていた。
黒に染まった男の指先が己の額に触れたと同時に、身体が紫の焔に包まれる。その焔は熱さも痛みも、己の血肉を焼くことも無かった。ただ意識が遠くなり、視界が焔に包まれていく。少年は声に出ない聲で男を呼んだ。それは喉を震わせるだけだった。再び衣擦れの音。そして。
「嗚呼。おまえが望むのならば、おまえが喚ぶのならば。俺は応えねばなるまいよ、マスター。待て、然して希望せよ__と」
革靴が床を蹴る音が遠のいて行く。音がまだ聞こえるうちに、少年の意識は暗闇へと溶け落ちた。
きっと、彼の夢を見ることも、少年が彼を思い出し立ち止まることも、もう二度と無いのだろう。けれども、彼の事も、彼と駆け抜けた日々も、胸に抱いた想いのひとつひとつの総ても。少年の記憶に、魂に、色褪せること無く刻まれている。
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起床を促す電子音が鼓膜を揺さぶる。少年は窓の無い白に覆われた自室で、まだ意識に霞がかかったままゆるりと瞼を開けた。七時きっかりの画面を目前に電子時計に手を振り降ろせば、ピッという音を最後にまた正しく時を刻み始める。まだ微睡みの中にある身体を起こして身体を伸ばしていると、少年の起床を知っていたかのように扉が開き、革靴が床を蹴る音が近づいて来るのがわかった。
扉が開くと共に室内へと招かれた微かな香りには、苦い煙草と温かな珈琲の酸味が乗せられている。少年は微笑んで音の方へと顔を向けた。
「おはよう、アヴェンジャー」
「嗚呼。おはよう、マスター」
これまでとは何の変哲もない。そんな日々をオレ達はこれからも駆けるのだろう。