手合わせだかだかと、木板を揺らして駆け寄ってきたのは、ジェイだった。
普段からあまり深刻そうな表情とは無縁な所、今は焦りと困惑をありありと浮かべている。
「あ!アルロー教官!早く来てくださいっ、大変なんですよっ!」
「おいおい。どうしたんだ藪から棒に」
余程慌てているのか、それに答えずアルローの手を取ると、直ぐに踵を返してしまうジェイ。
早く早く、と急かす彼に連れられてきたのは、騎士団の宿舎だった。
一体こんな所で何が、と思っている内に連れてこられたのは、宿舎の中庭。
とはいえ、それは名ばかりで、実際は必要最低限度の広さが取られた訓練場だ。
調査拠点故に広くは取れないが、体が鈍らない程度の訓練は出来るようになっている。
そこに今、ちょっとした人だかりが出来ていた。
「なんの騒ぎだ、こりゃあ」
「だから、大変なんですって!何とかしてくださいっ」
そう言って、アルローの背を押し、人だかりの中を強引に進ませるジェイ。そうやって押し出された最前列から見えたのは、二人の人間が素手で殺し合うかのような光景だった。
撓められた指先が眼窩を抉ろうと伸び上がり、すんでのところでその腕を絡めとったかと思うと、関節を支点に骨を折ろうとするのが分かる。
それを嫌って距離を取るにも、胸板を蹴る動きに容赦はない。
それで体勢を大きく崩さない男も、一瞬とはいえキメられて痛むだろう腕を一瞥もしない少年も、並外れている。
距離が空いて仕切り直しかとも思ったが、男の方はその時間を与えるつもりが無いらしい。
かなりの上背があるだろうに、今は地面すれすれと見える姿勢で一息に距離を詰めていく。
その様はまるで疾走するジンオウガさながらだ。
低い位置からの襲撃に、少年は飛んでそれを避ける。
通常、やたらと飛ぶというのは、その先の行動を制限する悪手だ。しかし、翔蟲の扱いに習熟していればその限りではない。
今も、青白く光る蟲が同じように輝く糸を伸ばし、少年の体を更に一段上へと引き上げる───直前で、まだ細い足首が、蛇の様に伸びあがった手に捕まった。
がくりと体勢を崩し、しかし直ぐに、引き寄せられていた足が、自分を捕らえる男の顬を狙う。
振り抜かれた足が数本髪の毛を攫い、今度は男の重心が僅かに揺れた。
その間にも蟲ごと糸を手放した少年は、重力に逆らうこと無く上体から倒れ込み、流石に腕一本で少年の体重と勢いの重みを支える事は難しかったのか、足首が解放される。
そのまま、地面を転がり距離をとるのかと思われた少年はしかし、引き寄せた脚が地面を捉えたかと思うとバネの様に跳ね上がり、瞬きの間に男の懐へと入り込んだ。
こうなると、これまで優位だった男の上背の高さは不利に傾きだす。
僅かな動きで鳩尾を狙う貫手に、初めて肉を弾く音が響き、周囲の騎士たち何人かが身構え、また何人かが見入っていた事に気づいたように肩を揺らした。
貫手を弾かれたと見るや、弾かれたまま上体を捻り、体重を乗せた肘を突込もうとするが、それも片手に止められる。
かくなる上は、と。躊躇なく股間を蹴りあげようとした足を取られ、ご丁寧に足払いまでされて、背中から地面に転がる事になった。
咄嗟に受け身は取ったものの、足を固定されては満足には行かず、僅かに噎せるような咳が漏れる。
そこに影が差し、見慣れた足裏が見えた。
ズドンッ、とガンランスでも撃ち込んだような音と共に土埃が舞う。
教官、と弱々しい声が隣から聞こえたけれど、そちらに目を向ける事は無く、代わりに二、三度、落ち着けとでも言うように頭を撫でる。
アルローの耳には、地面を抉る音だけが聞こえていた。
その感覚を肯定するように、土埃の向こうに、見慣れた青白い光が見える。
仰向けに倒された少年と、その顔ギリギリの地面を穿つ、脚絆に包まれた足。その間で、狙いを逸らすために張られた鉄蟲糸が、解けるようにして消えていった。
「また一段と腕を上げたね、愛弟子!」
そんな事を言いながら、子供にするように両脇を抱えあげる男。対する少年は、不満げに頬を膨らませている。
お互い、先程までのギラギラと殺気に満ちた様子とは大違いだ。
アルローの隣に立つジェイなどは、可哀想なほど困惑した様子で、え?を繰り返しながら両者を見ている。
他の騎士達も、落差に困惑している者が殆どだ。
そんな周りの反応などお構い無しに、反省点や今後の課題を話し合った師弟は、最後にお互い礼をして、ようやくアルロー達に向き直った。
それで改めてわかったが、弟子である少年の方は、見事に痣だらけだ。一方で、師である男の方は綺麗なものだ。
「だ、大丈夫ですか、カサガケさん。俺、回復薬貰ってきますっ」
あわあわと駆け出すジェイ。その後ろ姿を不思議そうに眺める師弟に、アルローは大きくため息をついてみせる。
「カムラの里じゃ、こういう手合わせが普通なのか?」
「里守の方もいらっしゃるので、里全体で普通かは分かりませんが、僕が大きくなってからの手合わせは概ね。それに、あに様は上手いので、見た目ほど後に響く事もありませんよ?」
さも普通の事のように言う少年。その隣では、上手いので、の部分に反応した男が嬉しそうに頭などかいている。
獣の喰い合いのような手合わせが日常だと言うこの師弟に対して、流石にアルローも「そうかい……」以外の言葉はそう簡単に浮かんでは来なかった。