光に溶ける 「この世界で一番美しいものってなんだろうね?」
ここの砂浜は雪のように白かった。
純白の砂浜が、なだらかな弧を描くように遠くの海岸までのびている。ティースは照り付ける日差しに目をしばたたきながら、さらさらとしたその砂の上に腰を下ろした。長い栗色の睫毛の間から、夢見る少年の碧の瞳が垣間見える。
イサークはわずかに周囲を見渡すと、再び少年に目を落とした。
「例えば、ここの砂浜とかな?」
「たしかに、きれいだけどね・・・」
イサークが適当に答えたことくらい、十二歳のティースにでも分かった。
「船長に聞いてみな。あの人はいろんな美しいものを見てきたろうから」
昼下がりの晴天。先日の蒸し暑い空気を押し流すかのような風が、時折吹いている。浜から突き出したむき出しの岩々は波と風により長い年月をかけて削られ、磨かれて、自然のアーチのようになっていた。その上の緑の茂みにカモメが数羽、羽を休めている。
翠とも蒼ともとれる色合いの海が眼前に広がっている。生き物のようにうねって寄せては返す、泡立つ波際と純白に続くグラデーションに見惚れてしばらく無言になっていた。そして少年は、やっぱりぼくは海が好きなのだと再確認するのだった。
「・・・ティース、そろそろ戻ろう」
イサークの声に少しびっくりしたように、少年は振り向いた。「あ・・・」
「“現実”に戻ってきたか?」
ティースの顔を覗き込み、白い歯を見せながら手を差し伸べる。そのどこか悪戯な笑みは、イサーク特有のものだ。離れた年を感じさせない、友人のような親しみ深さがある。他の船乗りたちと比べると、彼と打ち解けるのが早かったし、船上でよくふざけ合っているから、実際のところ友人なのである。
ティースは彼の手を握って立ち上がりはしたものの、どこか不服そうな目を向けていた。
「もう少しここに居たい。なんならイサークさん先に帰ってて」
「いいや。連れてこないと船長に怒られる」
ただでさえ、俺はあまり彼に信頼されてないからな・・・と、頭の中で続ける。
「一人で帰れるよ。道は覚えてる」
ティースは不満の表情を浮かべて食い下がったが、イサークはそのまま手を引っ張って言った。
「駄目だ。もう行くぞ」
「・・・どうして」
それから先は口籠りはっきりと言えなかった。正確には・・・“どうして自分だけ、子供扱いをするのだろう”だ。
船員の中でも唯一年の近い十六の青年はいるのだが、オフリオはここまで子供扱いされていないようだ。船乗り歴が長いせいもあるだろうが、ティースは自分だけが子供扱いされているような気がしてならなく、それがとても不満だった。緩い石階段をのろのろと上がり、二人は町へと戻って行った。
高いヤシの木々が目立つ少々寂れた港町だ。無骨な石造りの建物は風景に馴染み切って年代を感じさせる。傷んだ帆布はそのまま日よけとして利用されていて、割れた壺や廃材など、砂埃を被ったがらくたが転がっていた。
細い通りは帽子を深く被って顔もろくに見えない男たちが行き交い、その間を縫うようにやせ細った野良猫がうろうろしていた。ティースは通行人の一人に睨まれたような気がした。
イサークは少年の手を引っ張り前を歩かせた。
「子供の誘拐なんて、簡単なんだよ」
いつも明るい口調の彼が、声を落として呟く。イサークは傭兵として同行しているので、陸(おか)では武装をしている。そんな彼がついているので、ティースが誘拐される危険性は低いのだが、肩に添えられた彼の手に力が入るのが分かった。
大がかりな補給があるために、彼らが乗っている帆船“セラピス号”は波止場につけて荷積みをしている。船長たちはというと・・・大方、どこか部屋でもとって一杯やっているに違いない。
まさしくその通りで、補給で立ち寄る港町での唯一の楽しみがこれだった。重たいフロックコートを脱ぎ、シャツとベスト姿のホレーショ・ガレオン船長は窓際に座し、小さな丸テーブルの上にはそれぞれ別の銘柄のワインが入ったグラスが並べられている。
「これを至福と言わずなんという?」
向かいの席にはフェルナンドが煙草をふかしており、船長はナノに向かって満悦の笑みを浮かべた。
「“愛しの彼女”を眺めながら、最高のワインを飲み比べてる・・・!」
ホレーショはそう言ってゆったり足組すると、片手に持っていた白ワインをぐいっと飲み干した。
部屋の扉が閉まる音がする。
「どうして船乗りは自分の船を女に例える?」
船長と同じところへ視線を落とし、ナノが口の端をゆがめた。
「船乗りに限った話じゃないだろ」
戻ってきたイサークがつかつかとやってきて、傍のベッドに転がり込んだ。並べられたワインに気が付くと、俺にも、と手を伸ばす。船長は鬱陶しそうに一瞥した。
一呼吸置いて、ティースは部屋に入った。周りの景色に目もくれず彼の隣まで行って、空いている椅子を引いて腰かける。それからじいっとテーブルの上に陳列された、色とりどりの色彩に魅入るのだった。
「どうだ?」
いいだろう、とホレーショは得意げに言った。こんなに船長のすぐ傍まで来るのは、ちょっぴり久しぶりでティースはなんだか嬉しくなった。
「みんな同じに見えるよ」
ハハ、と笑って一つのグラスを指で寄せる。
「同じに見えても、味も香りもそれぞれ違うんだ。個性がある」
船長という人は、出会った頃から独特の香りを漂わせている。その香りがティースは大好きだった。深い潮のようなのだが、不思議と心が落ち着く、ヘリオトロープのような甘い香りが混ざっている。それと少々の煙草のにおい。きっと色々なところを旅して染みついた香りなんだろう。
嗅覚が幸せを噛み締める。ティースは顔を上げて船長を見つめた。ホレーショはごく自然な表情を向けていたつもりだったが、その海灰色の瞳には、少年に対する耐えがたい愛しみで溢れている。
「どうした?・・・ティース」
「ん・・・」
彼は、少年のどこか物寂しい様子にすぐ気が付いた。遠くからでも、ティースの笑顔は印象的なのだ。雨が降った直後に降り注いだ黄金色の陽光みたいに、辺りを明るく照らし出す、その無邪気で純粋な笑みは、いつしかホレーショに安心感を与え、心の中に温かさを広げてくれていた。
それがどうだろうか。今はそう、なんだかティースらしくない。船長は答えを促すかのように、少年の肩にそっと手を置いた。
「なんでも言ってみろ」
うん・・・と少年は相槌を打った。ポケットに入れていた細い巻貝を取り出す。漆黒だが、独特な光沢があり七色に艶めいている。
「砂浜で拾ったんだ・・・あの白い砂浜をもっと見ていたい。一人で行っては駄目?」
船長の瞳がわずかに動揺で揺れた。
「ああ、もちろんいいとも」
彼は優しく微笑んだ。
「・・・俺も行ってもいいか?」
ティースはすぐに立ち上がって、船長の手を強く引っ張る。
「うん・・・!一緒に行こう」
・・・少し安心した。その笑顔をずっと見ていたいと、思わず口元がほころぶ。
「あの子はいつも幸せそうだ」
フェルナンドが煙草を灰皿に押しつけて消した。
船長のいた“特等席”にイサークが腰かけて、無言でグラスの一つを手に取り一飲みにする。それからすぐに別のグラスを手に取って、香りを確かめる。眉をひそめ判ったような顔つきをしているのがどこか滑稽に映り、珍しくナノは小さく声を出し笑うのだった。
「ああ。 “幸せそう”だな」
イサークがわざとらしく答える。ワインの繊細な違いは分からないが、二人きりになって、彼の緊張が解けているのは分かる。
「だが辛いときでも笑っているのは、少しお前と似ている」
「・・・辛いのか?ティースが?」
浜辺で問答したのを思い出したが、それがどう辛い気持ちに繋がるのか疑問である。イサークには分からなかった。
「船長は気づいたみたいだ」
フェルナンドはそう言って、ゆっくり息を吐いた。束の間の休息。確かに至福の時間だ。それに対し、イサークの表情はやや曇っていた。
「・・・なあ、俺たちがしくじって、ティースを孤独にしたと思うか?」
―――狂血鬼。禁忌を犯し、殺人鬼に成り果てた吸血鬼のことだ。初めて出会ったが、想像を絶するものだった。
あれに、ティースの父デュランは処刑されたのだ。
そして、ティースはそれを目撃している。まるでショーでも楽しむかのように―――おびき寄せられ、弄ばれた。存在そのものが悪夢である。
陸では本来心が休まることはない。二人は闇夜の悪夢に備えなければならなかった。
「あれはどうにもならなかった」
ナノが視線を落とした。
しかし瞳の奥には、消えることのない強い意志の炎が宿っている。
「しくじったんじゃない、イサーク。お前が責任に感じることじゃない」
そう言って、うなだれた腕に手を添わす。イサークは真剣な目を向けたまま、その手を握り、彼の、煙草の残り香のする無骨な指に接吻を与えた。
フェルナンドの瞳には強い炎を宿していたが、凪のように穏やかな表情をしている。
「船長がついてる。ティースには導がある、大丈夫だ」
目が覚めるような青空が広がっている。軽やかな浜風がヤシの葉を揺らし、少年の頬を優しく撫でていく。ティースは船長の手を強く握ったまま、嬉しくてつい小走りになってしまっていた。大好きな憧れの人を独り占めしている優越感に浸っていたのだ。
昼間なら、狂血鬼の存在に怯えることはない。専用に細工を施している護身の杖も部屋に置いてきてしまった。ホレーショは引かれた腕を手繰り寄せ、少年をひょいと持ち上げて背中に回した。
「ああ!重くなったな」
おんぶされると思っていなかったから、ティースは面白おかしくて声を上げて笑い、それにつられて船長も笑った。
覚束ない足取りで大股に何歩か歩き、地面に両足をつけると、二人は並んで再び歩き出した。
「沢山あったワイン、全然飲んでなかったね」
「イサークにくれてやるさ。酒なんていつでも飲めるからな」
緩やかな石階段を降りると、純白の浜辺が眼前に広がる、美しい海の光の乱反射に目が眩んだ。陽光が照りつける中、波の音だけが静かに耳に響く。
砂浜には二人以外、誰一人いなかった。ティースは靴を脱いで駆け抜けて行って、青いシフォンの波際に足を委ねた。火照った足裏を程よく冷やし、水飛沫は心地良い。ホレーショは、波際ではしゃぐ少年の背を穏やかな表情でただじっと、見つめていた。この特別な空間を切り取って、大事にしまっておくことができたら、どんなに幸福だろうか。ここでは、時間がゆっくりと流れていくように感じる。
「泳がない?」
すたすたと帰ってきたと思ったら、少年は満面の笑みを浮かべてそう問いかける。
「ティース、お前泳げるのか?」
二年前まで、海さえ見たこともなかった子だ。泳げるはずはない、と思ったが、この心地良いリズムに水を差す気にはなれなかった。
「海は初めてだけど、泳げると思うよ。川で泳いだことあるから」
ティースのブラウンの髪はなぜかもう半分くらい海水で濡れている。零れる笑顔は光に溶けていった。
岩のアーチの下が波の影響を受けにくく、程よい浅瀬になっている。海面の光が反射して、天然の岩壁をきらきらと照らしている。ホレーショは革靴を脱ぎ捨て、ズボンを手繰り寄せ準備はしたものの、泳ぐまでの気にはなれなかった。そこにティースが後ろから勢いよく押し倒して、驚きの声を上げる間もなく、二人は浅瀬に身を投じた。
「船長も泳ぐんだよ!」
ティースは笑顔を振り撒きながら、ホレーショの上に被さるように身を乗り出した。上着を脱いだその柔らかな肌に触れた時、一瞬指に力が入るのが分かった。
「おい、服が・・・びしょ濡れだ!」
船長は苦笑いしながら両腕を解いたのだが、ティースは彼の片腕から手を離そうとしない。
「俺は泳ぐのが・・・」
まさか?という顔をして、船長を海面に引きずり倒して再び、ずぶ濡れにして笑った。彼は海水を含んで重たくなった朱色のベストを剥がすと砂浜に投げた。
濡れた薄茶色の髪を掻き上げて、覚束ない調子で泳ぐティースの背に目を細める。
「いい感じじゃないか、ティース」
「泳ぐのが上手い人たちがたくさんいるから、いろんな泳ぎ方、見て覚えたよ」
海水が口に入り込み、軽くせき込みながら、海中に足をつけないよう岩壁のほうへ泳いでいき、海面から上がって腰に手をやると、ティースはすぐに異変に気付くのだった。
「あ・・・。 なくなってる・・・」
すぐさま辺りを見回すようにして、ポケットからすくわれたのであろう黒い貝殻を探した。
「どうした?」
髪の間から漏れる落胆の表情に、船長も海面に目を落とした。
「あの貝殻か?この下は波がないからすぐ見つかるだろ」
少し、寂しそうに笑うティースの肩を、慰めるように叩いた。
「見つけられるかな・・・」ティースは悲しそうに海面を見つめた。「気に入ってたんだけどな・・・」
船長は添えた腕をぐるりと回し、身を寄せるように屈んで、ポケットからあるものを取り出した。
「これは何?」
「遠眼鏡のガラスだよ」
ちょうど修理していたんだ、と言ってティースに手渡し海中に浮かべた。ティースは目を丸くして、息を飲んだ。
まるで海面に丸鋸で穴を開けたみたいに、ガラス越しにくっきりと海中の世界が見えたのだ。足元の砂は生き物のようにゆったりとうごめき、巻き上げているではないか。木片やロープの切れ端、海藻、色とりどりの小石がまばらに落ちているのが、手に取るように分かる。降り注ぐ光が海中に虹色の波形を映し出して、幻想的に揺らめいていた。
「すごい・・・!こんなによく見えるの?」
「ああ。きれいだろ」
船長はニヤッと笑みを作ると、立ち上がり岸へ歩いて行った。
「これで探してみる!」
少年は再び、嬉しそうに浅瀬に躍り出る。
ティースは幼少の頃から自然が好きでずっと戯れていた。勉強もろくにせず、サボって森の中で一日過ごしてしまう事もあった。それでも飽きることは決してなかった。新しいことを見出せば、それでしばらく何日も夢中になれる才能があったのだ。
岩壁から離れていけばいくほど、海底の傾斜はきつくなっている。さざ波はティースの身体をすくい取っていくほどの力強さはなかったが、胸の上まで浸かったところまでいるのを見て、船長は声を張り上げた。
「おい、あんまり行き過ぎるなよ」
「もう、足元見えないや!」
ティースも声を上げて答えて、ホレーショが瞬きをした時にはもう、頭を海面につけて潜り込んでいた。
「ティース・・・!」
・・・ガラス越しに見た世界とは違い、ぼんやりと色は滲み、物体は形を成していなかったが、ティースは幻想的な光の筋が海中のずっと先まで続いていたのを見た。彼の曇りない二つの眼は、砂の中に埋もれた黒い巻貝を捉えていた。七色の艶めく貝殻。やや離れすぎていて、自分が落としたものかは自身がない。流されたのかもしれないが、とてもよく似ている。少し潜って泳げば届く距離に感じる―――。
そう確信して、少年は深く息を吸い、海中に身を沈めたのだった。
だが運悪く、身を沈めてしばらくして、強めの波が押し寄せてきた。体のバランスが崩れ、前へ進んでいるのか、後へ押し流されているのかも分からないまま、息だけが苦しくなる。
ティースは、海底へと一心に手を伸ばした。
ふいに、自身の体がふわっと浮かび、勢いよく持ち上げられるのを感じた。彼の長い腕が、ティースの腰にしっかり回されていた。
「なにしてる・・・!」船長は安堵と呆れが混じった顔つきで、苦しく喘ぐ少年を見つめていた。「無茶をするんじゃない・・・!」
濡れた身体を抱きかかえ、なだらかな額にかかった髪を拭う。
ティースは息を整えながら余裕そうな表情を見せ、ホレーショの頭を抱きしめてケラケラと笑った。冗談じゃない、と心に思ったが、そんな心配をよそに彼は嬉しそうに言うのだった。
「見て」
少年が手にしていたのは貝殻だった。黒い巻貝の貝殻。だが、落としたものとは別のもののようだ。
「ねぇ・・・助けてくれなくても、自力でやれたよ・・・ぼく」
そう言って、腕を振りほどこうと小さく身を揺らす。
「・・・・・・っ」
幾分か強くなった浜風が、再び頬を撫でつけて返す。
ティースはしばらく沈黙して、なにか思い詰めているようだった。海面に目を落とし、心の中に湧き上がった不満を吐き出すように言った。
「どうしてみんな、僕のこと子供扱いするの?」
言葉にした瞬間、少し胸が苦しくなるのを感じた。
「子供扱いだと?」
それは、ホレーショも同様だった。そんな風に思われていたとは少し心外だったのだ。
その動揺した眼差しに食い入るように、純朴な碧の瞳が、ホレーショをじっと見つめる。彼の、なにを考えているか分からない奥深い海灰色の瞳は、暗く陰りを落とし、過ぎ去った少年の日の記憶を思い返していた。
ホレーショも、ティースと同じく“独り”であった。
兄弟はおらず、士官学校に入学するまでずっと、使用人、先生から庭師まで・・・大勢の大人たちに囲まれて暮らしていた。不在気味の父は厳しく、自分を一人前にするためだけに執着しているようで、命令ばかりする。家は広かったが、どことなく窮屈な、息苦しさを感じる日々を過ごしていたのだった。
「すまなかった、ティース・・・。そういうつもりじゃなかったんだ、俺は・・・」
分かって欲しそうに、厚い掌を濡れた頬に添えた。ティースが寄りかかってくる。ふわふわと漂うような感覚に身を委ねながら、動揺するホレーショを抱き寄せた。
水に濡れていても、好きな香りはする。
「約束したんでしょ どうせ」
その小さな体で背負うにはあまりにも重たい記憶。
ホレーショは確かに、ティースの父デュランとそんな約束を交わしていた。
“あの子を頼む”と。
彼は押し黙っていた。少年は濡れた頬に紛らわせ、涙を数滴滑らせた。指でティースの頬に触れ前にもっていこうとしたが、その顔は逸らされてしまった。
「船長、ねぇ」少年は口元に手を当て、耳打ちをした。「・・・潜って」
息を整え、一緒に、同じタイミングで・・・。離さないように、抱きしめ合う。無音の世界が広がる。
ホレーショは、ゆっくりその目を開いた。そこでようやく彼は、少年の顔を正面から捉えることができたのだ。好奇心に満ちた翠の目はきらめいて美しい景色を吸い込み、口元には甘えが滲んでいた。
責任ある立場、煩わしい心配事、その全てが拭い去られて、在りし日に戻ったよう。
大人たちの目を掻い潜り、二人だけでそっと隠れ悪さを働いている時みたいな、少年的な笑みが、ホレーショの口元から零れた。少しいたずらな、やんちゃな笑顔である。ティースはホレーショの笑みの欠片を握りしめ、白い歯を見せてニコリと笑った。ころころとしたあぶくが目の前を通り過ぎていった。
少年は静かに顔を寄せて、彼の唇に接吻をした。
吐息が入ってくる。
その吐息に呼応するように押し戻した。
ティースは目を見開いて、わずかな泡が乗った睫毛の隙間から、海の色に溶け込んだ無限の蒼を見た。深愛と慈しみが、彼の瞳の深淵に静かに満ちていた。それは力強くもあり、どこか悲し気でもある。
暖かな浜辺に仰向けになれば、濡れた肌の水分はいつの間にか、すっかり蒸発していた。ティースとホレーショは黄金色の陽光に照らされながら、幾分か眩しそうに目を細め、青く広がる空を見つめていた。
「・・・どうしてさっきから、僕の手握ってるの?」
ティースが起き上がると、船長の手が強く握りしめられて、彼ものろのろと起き上がる。
「もう離さないからな」
ティースはふうんと相槌しながら、潮で固まった彼の髪を指で崩している。人懐っこい小鳥に髪をつままれているような気分だ。
「ずっとだ・・・」
「ずっと?」
「離した途端、また海の中に駆け込むだろうが」
苦味のある微笑の中に、少年のような愉しさが残されている。
「もちろんでしょ!こんな綺麗なところで、まだ泳ぎ足りないよ!」
ティースは立ち上がって、船長の重たい腕を引っ張った。だが、初めの時のような力強さはもうない。
「だからさ・・・ ちゃんと守って」
浜風が髪を揺らして、少年のらしくない悲しい表情を隠した。船長は奥歯を噛みしめながら目を上げ、その顔を一心に見つめた。
「ああ、いつだって俺が付いてる」
風が降りやんだ時には、いつもの明るい無邪気な笑顔に戻っていた。彼の表情もつられてほころぶ。
「手を離さないんだったら、船長も一緒に来ないとね」
「今度はなにをする?」
「貝殻を探すよ。これは船長にあげる」
ポケットの中から、潜って取った黒い貝殻を、その握りしめた手の中にねじ入れる。ホレーショが貝殻を指でつまむと、ティースはその隙間から小蛇のようにするっと抜け出していった。その放たれた愛くるしい小動物は愉快に駆けだし、白の砂を蹴って周囲の光を再び吸収する。
「もっと面白いものを見に行こうぜ」
船長はそう言って、動き回る小動物を巧みに捕まえて背中に回した。彼の大きな背中に甘えるように顔を埋め、しばらく黙って、深い呼吸を続ける。日陰に放置されていた朱色のベストはまだ少し湿っていたが、陽だまりを集めて温かい。ホレーショのさざ波みたいな低い声を背中越しに聞き入って、目を瞑り、じゃれるように小さな鼻先で首筋を撫ぜる。
少年の、孤独と葛藤を包み込むには十分なぬくもりが、そこにはあった。