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    鶯時-おうじ-

    @koyadoo

    創作落書きを並べるだけ
    センシティブ多め。SSは設定画を見てくれた人が読めます。
    協力してくれた友、好きでいてくれるあなた、静かなる観測者に最大の敬意を。

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    鶯時-おうじ-

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    軽い気持ちで書き始めたイサナノソルで現パロ。甘酸っぱい青春なお話です。微エロ。途中放置しちゃったけど、完結させた!偉い!
    筆致が途中でちょっと変化があるのはご愛敬で・・・。

    背中合わせのままで(現パロ) どっちから先にそういう気持ちになったのか、と言われるとそれは分からない。ただ、二人は同郷に生まれ小さい頃からずっと幼馴染だった、といわれたらそうなんだろうと納得できる程に、仲が良かった。
     実際のところ、フェルナンドがイサークと出会ったのは高一の夏からだった。同じ学科の同じクラス。イサークが転校してきたのだ。彼の第一印象は、気の抜けた炭酸みたいな、なにを考えているのか分からない‘美男子’。なのに、視線はきょろきょろと、人をよく観察している、どこか計算高いが愛嬌を感じさせる蒼い目がある。小狡いが、どこか憎めない。そんな彼が、ふわふわと歩いてきて、ナノの隣の席についた。
    「悪いけど、教科書見せてあげて」
    先生に促されるまま、ややぶっきらぼうに数学の教科書を置いた。フェルナンドは成績優秀だったが、交友関係においてはあまり柔軟な性質ではなく、無口で体はがっしりとし、鋭い碧の眼光とが相俟って、一部の生徒からは少し怖がられている。それを逆に利用して威張る生徒がいるほどだ。彼自身はどうでも良いと思っていて、表面上の付き合いはするけども、誰にも深入りはしない。そんな少年だった。だがイサークと出会って、彼は少し、変わった。
     季節は巡り、高校二年の夏の初めの事である。
     「屋上に出るの禁止になったってさ」
    小銭を手に、一階に併設された購買へ向かいながらナノがぼやいた。今年は梅雨が開けるのが遅いのか、朝降った小雨がそのまま湿気を滞らせて、生暖かい空気を広い廊下に充満させていた。
    「気持ちよかったのになぁ屋上。どうせ、危ないからとかだろ」
    イサークが大きな欠伸をして、ナノと一緒にのろのろと階段を下りている。昼休みになったばかりなので、辺りは購買へ向かう生徒たちで賑やかである。
    「隠れて煙草吸う生徒が後を絶たないから、閉じたらしい。先生もあそこでよく吸う癖に」
    「このガッコ、結構厳しいよね?」
    「いや、普通だろ・・・」
    イサークが制服をきちんと着ていたのは、転入して数か月か・・・ブレザーのネクタイは式典の時以外はつけていないし、つけていてもすぐ解けそうな緩さだ。それが彼の性格を表しているみたいだった。シャツをしまっても常にどこかしらはみ出していて締まりがなく、子鹿のように跳ね回っているうちに、いつの間にか全部出て行ってしまうのだった。
     一方ナノは当たり障りのない、校則に則ったごく模範的な生徒だ。それが横に並んでいるので、傍から見たら少しちぐはぐな二人組である。お互いに、この人と居ると疲れないな、と頭の隅で思っていた。それが二人の心を緩やかに、次第に固く、結び付けていった。
    「引っ越す前にいた友達とたまに連絡取り合ってるんだけど、そこの学校はここまで厳しくないってさ」
    「不良校じゃないか、それ」
    フェルナンドが苦い笑いを浮かべて、イサークを見ると彼はスマホを取り出しアプリの‘友だち’リストをスクロールしていた。おいおい、どれだけスクロールしているんだ・・・居すぎだろう‘友だち’。
     ああ、それとも俺が少ないだけなのか・・・。
     薄暗い一階の広い廊下で、白い光がイサークの顔をぼんやりと浮かび上がらせていて、それをやや遠巻きにナノが見つめていた。
    「買ってくるよ、良かったら」
    ハッと嬉しそうに目を上げると、少々引き気味の大人びた目がそこにある。
    「焼きそばパン二個と、イチゴミルクで!」
    ありがとう!と声をかけながら握りしめていた五百円玉を渡す。―――ある連絡先を探している。会話履歴から追った方が早そうだなと操作を変えながら、溜息混じりに廊下の柱へ強くもたれかかった。
    「俺達って付き合ってるよな・・・」
    誰にも聞こえない程の小声で、不満を漏らす。見覚えのあるアイコンがようやく見つかる。
    (会いたいな・・・。今日一緒に帰れるかな・・・)
     フェルナンドは恋愛についても、不器用で鈍感だった。イサークの分を買って昼食が両手から零れ落ちそうになっており、少し後悔をした様子で戻ってきた。なにか文字を打とうとする指が動き、静止して白い光が消えた。彼の長い睫毛の間から哀愁を帯びた視線が一瞬遠くの方を見、すぐにナノを見て笑顔にすり変わる。恋愛には鈍感でも、イサークの微細な表情の変化には敏感なところがあった。特に彼の表情の変化は天気のようにはっきりしている。
    「・・・どうしたんだ?」
    教室に戻って食事中、スマホを片時も離さないイサークにしびれを切らし、話しかけるとベランダに出るよう促される。空には灰色の雲が重たく垂れかかっていた。
     イサークは紙パックのストローを咥えたまま、肩をがっくりと落としながら、項垂れた手に持ったスマホに、未練がましく視線を落としている。
    「俺フラれたかも」
    大きなため息と、馬鹿馬鹿しいといったオーバーなリアクションで、ベランダの手すりに両腕を投げ出す。正直そのままスマホを投げ捨ててやりたいくらいだった。
    「・・・いつから付き合ってたんだ?誰と?」
    ナノも手すりに手をかけて、頬杖をついてもたれかかった。
    「別の科の子。一年の冬くらい?」
    「まじか・・・」
    全く気が付かなかった。付き合っていた子がいたとは。
     確かに、イサークは誰にでも爽やかに接することができ、調子も良くて物怖じしないタイプの―――いわゆる自然にモテる男子そのものであり、数人の女子に取り巻かれているところを何度か目撃したことがある。器量も良いから、彼に片想いしている女子も少なくないだろう。・・・たまに、思うのだ。どうしてこんなに無口な俺とつるむのかと。あんなに人と喋るのが好きなのに、真逆を行く俺と一緒に居て何が楽しいんだろうかと。
    「また、次があるだろ」
    興味がないのだろうか、なんとなく上の空で、感情の籠もらないフェルナンドの返答に、ムッとしながら彼の広い肩に腕を回して小声で言った。
    「それで・・・ここからが本題なんだけど。 実は俺、クラスに気になってる子がいてさ・・・」
    ・・・全く、呆れる。
    「お前がフラれる理由が分かった気がするな」
    ベランダ下にある青々と茂ったハナノキが風に揺れる。午後の始業を告げるチャイムが聞こえる。今日は一日中こんな天気なんだろうか。二人は校庭を眺めながら、気が滅入るような小さいため息をついた。

     長かった一日の学校生活が終わろうとしている。フェルナンドは行きたい大学が決まっているらしい。塾へ通っているため先に帰っていた。俺だったら、塾に行くくらいなら、バイトでもしたい・・・そうぼんやりと考えながら、読み切る気は更々ない、自習で借りていた本をまとめて返却した。
     イサークは昼に砕かれた心を背負ったまま、のろのろと図書室を出る。目の前の階段を下りるのが下駄箱への最短ルートだが、上靴を脱ぐ気分が乗らないままに、気ままに遠回りしようと、右へ曲がった。
     廊下の突き当たりは家庭科室で、その手前は空き教室になっている・・・と思っていたが、定時制の教室だったことを知る。蛍光灯が煌々と点されて、黄昏時の廊下に日中のような光を落としていた。下校時刻にこれから勉強なんてな―――と、不思議な気持ちになりながら、好奇心が勝り通り過ぎ様に教室を覗き込む。
     六~七人の生徒が疎らに座っていて、講義を受けている。ジャージとパーカー姿の、自室から飛び出してきたような姿の者もいれば、作業着の者もいる。
    (私服で授業受けてる?ちょっと羨ましいな)
    そんな風に思いながら廊下をゆっくりと歩き、後ろ扉を通り過ぎる時に、もう一度教室を覗き込んだ。
     イサークが前から通り過ぎて行くのに気がついていたのか、一番後ろの席に座っていた者が右手で頬杖をついたまま、こちらを見ていた。
     肩より長い真っ直ぐな薄紅色の髪が目に入った瞬間、その美しい色合いに一瞬男か女か分からなかったが、実際には男だった。目が合いびっくりしていると、彼はイサークに向かって緩く、微笑みかけた。薄手の白いシャツの上に、丈の短い黒のジャケットを羽織っている、痩せ型の男。
    「・・・!」
     慌てて目を逸らして、廊下を通り抜ける。切れ長の、やや冷たい印象を受ける目つきは、少しナノと似ていた。
    (なんか、怖い人に目をつけられたかも)
    怯えるように階段を飛ばして下り、サッと靴を履き替えて、自転車置き場に向かう。その日は、誰かと一緒に帰ることもなく、一人で下校をした。いつもより心細く感じながら。

     「ナノ、図書室の奥、定時制の教室だったって知ってる?」
    翌日、何時限か過ぎた休み時間に、イサークはナノの席に足を運んだ。次は移動授業のため、教室にいる生徒は疎らである。塾にも行ってるのに、眠そうな顔一つせず平然と過ごすナノを心底尊敬する。
    「知ってるよ。俺には関係ないから詳しくは知らないけど。定時制って年齢もバラバラだし、それぞれの事情があって来ているわけだろ?ちょっと独特の雰囲気があって近づき難いな」
    「そう言われると、そうだったかも・・・」
    確かに独特の雰囲気はある。制服もないし年齢もバラバラ。全日制の自分たちとは違う、明確な線引きを感じる。共通点は、勉強をしに此処へ来ている、という事だけかもしれない・・・今のところは。
     イサークに微笑みかけたあの男の顔が、脳裏に染みついて離れない。ガラが悪くて怖そうだったが、人懐こさが感じられて、友達を作るのが上手そうな・・・自分と同系統の雰囲気が感じられた。
    (それに、ちょっと綺麗な人だったな)
    首を傾げて天井を見つめながら、手ぶらでぼーっと突っ立っているイサークを、呼び戻すようにナノが教科書で彼の腰を叩いた。五分前のチャイムが鳴る。
    「先行ってる」
    叩いても動じないイサークを、変な奴だな・・・くらいにしか思わなかったナノが呆れて教室を出て行く。やがて、教室には誰もいなくなった。がらんとした教室で一人、のろのろと持ち物を準備している時に、始業のチャイムが鳴った。ようやく、事の重大さに気が付いて慌てて駆けだす。
     ・・・なんでもない日常。変わり映えのしない毎日。勉強して、運動して、昼飯を食い、また勉強する・・・。部活は入っていない。それについて深い理由はないが、イサークには特に熱中したい事がなかったのだ。入学したての鮮明だった色彩が、同じような日々の繰り返しで摩耗していき、少しずつ色を失っていくような感覚があった。色褪せる日々に対するやるせなさと、平坦な道を歩き続けることを大人たちに強いられているような、抑圧的な毎日に猛烈に反発したくなる瞬間がやってくる。
    『見た目は成鳥と変わらないが、鳴き声がピヨピヨしている、白色レグホンなんだ。君たちは』
    ホームルームで説教を垂れる教師が、そう零していた。
     ・・・その通りだ。なんとでも言うがいい。
     放課後。そうして気づいたら―――昨日と同じように、イサークは図書室の先の廊下に立っていた。
     夜はまだ涼しい日もあって、紺色の夏用ブレザーを羽織っている。エンブレムがついた白いワイシャツは第三ボタンまで外れ、中途半端にズボンからはみ出している。見かねた先生に注意されない限り、このスタイルだ。くたくたになった濃紺の学生鞄を肩に背負い、恐る恐る、後ろの扉から教室を覗いた。
     昨日の‘彼’が今日もいる―――。
     一度そっとしゃがみ込んで一呼吸置いてから、再びゆっくり起き上がり、彼が自分に気づくのを待った。手足が長くてモデルのようだ。机と椅子が小さく見える。席に緩く腰かけ、真剣にノートを取っている。シャーペンを握る手にはシルバーのバングルと、同じくシルバーの指輪がキラキラと輝きを放っていた。
    「・・・」
     ふいに彼の視線がこちらへ向いて、少し驚いたように二度見をした。
     それがどこか可笑しくて、イサークは思わず吹き出した。真面目にノートに視線を戻すも、再び廊下の男子生徒に目がいってしまう。その視線には外見とは似つかわしくない、少年のような稚さと人懐こさがある。イサークは悪戯っ子のようにニヤついたまま、どこか満足したように、廊下の脇に膝をつけて座り込み、スマホを眺め始めた。

     外はだいぶ陽が落ちて暗くなり、気づいた時には、廊下の蛍光灯が煌々と白い光を等間隔に落としていた。イサークの腹の虫が鳴ったと同じくして、チャイムが鳴る。少し間を置いてから、教室の方から椅子を引く音が聞こえてくる。
    「・・・!」
    扉がガラッと開き、数人が出て行ったあとに開いたままの扉の先にちょこんと座っているイサークが居て、男が再び驚いたような顔を見せ、颯爽と近づいてきた。
    「・・・帰ってなかったのか」
    低い、穏やかな声だ。イサークは青年を見上げ緩慢に立ち上がり、照れ恥ずかしそうに頬を搔いた。
    「えと・・・はは、・・・なんか、気になっちゃって」
    「結構いい時間だぞ」男は窓の外を見て、全日制の生徒があまり残ってないことを確認している。「気になったって、昨日の・・・?」
    そう言って、昨日の‘微笑み’を投げかけた。青年から上品なサンダルウッドの香りがしてきて、強い引力のように彼を惹きつける。
     一瞬にして、目の前が非現実の世界に変わったような感覚がする。
    「・・・どうして俺を見て笑ったの?いとこと間違えた?」
    ハハハ、と笑い声を上げてスマホを見た。時間を確認したようだ。
    「面白いな、君。休み時間、十分しかないのが惜しいよ・・・」
    「それはこっちと同じなんだ」
    そんな変わりないよ、と窓べりに肘をかけ、背の高い彼がイサークを見下ろした。彼の所作一つ一つが、初対面とは思えないほどの親しみと年上の余裕を感じさせ、イサークの浮足立った心持ちを不思議となだめていた。
    「・・・授業は九時まであるんだけど・・・」
    質問をする前に、回答が飛んできた。十七の少年には到底なにを考えているか推し量ることはできない、魅惑的な眼がじっとこっちを見ている。
    「ずっとここに居座るつもりなのか?」
    「じゃあ、連絡先交換しませんか?」
    実のところ、居座るつもりでいた。だが九時は・・・流石に長すぎる。
    「ありがとう。それじゃ、是非」
    (・・・やった・・・!)
    「今日は帰れよ?イサーク」
    スマホを閉じ、再びチャイムが鳴る。
     ‘ソル’という名の青年は白い歯を見せて笑いかけ、再び教室に戻って行った。イサークは心を奪われたように、しばらくその場に立ち尽くして動かなかった。
     代り映えのない日常に突如色が戻る。
    ―――『今週の土曜はどう?』
    今度の友人は、同級生ではない。多分、二十歳前後くらいの―――・・・自分に兄が居たらこんな感じなんだろうかと、想像する。
    『空いてますよ』
    彼の素性は全く分からない。愛嬌のある笑顔は全部作り物で、第一印象通りの怖い人だったとしても、良かった。彼の存在そのものが、イサークを強く惹きつけてやまないのだ。彼の声、髪、外見の全てが。香水もアクセサリーもとても似合っているしセンスが良い。
     大人びていて、憧れる。
    『それじゃ、時間と場所はまた後日に』
    『ありがとうございます!なんか、急に・・・すみません』
    『いいえ、こちらこそありがとう』
    ・・・駐輪場でそんなやり取りをした。持っていたスマホを鞄に放り投げ、自転車の鍵を外して飛び乗る。辺りはすっかり暗くなっていた。すきっ腹が逆に心地が良い。この気持ちはなんと言ったらよいのか――――――。
     恋、と言ってもいい。 そう―――‘恋’だったのだろう。


        *


     都心部のように賑やかではないが、寂れてもいない、ほど良い街にいる。駅前のロータリーを抜けると商店街があり、道沿いには安居酒屋や古着屋や喫茶店が疎らにある。街路樹のケヤキがひしめき、風に揺れながらさんさんと光を浴びて、黒青い影をくっきりとアスファルトに落としている。
    「貴重なデートの日を悪いな」
    喫煙所から出てきたソルが、改めてイサークを見るなりそう言って冷やかした。重ね着風なオーバーサイズのグレーベージュのトップスに、黒のスキニーというシンプルな組み合わせだったが彼の容姿を引き立てるには十分で、きっとモテてるんだろうという想像は容易だった。
    「それが、フラれたばかりなんスよ」
    苦笑いを浮かべると、申し訳なさそうに目を細めた。
    「おっと、それは・・・悪かったな」
    そう言って、ベルトに付いている小さな革のウエストポーチに煙草を押し込む。
    「気にしないで。向こうはファッション感覚で付き合ってたみたいなんで」
    「・・・ほんとうか?」
    ソルは薄手の黒い柄シャツにシルバーのアクセサリーを合わせ、蛇柄のパンツを履いている。エナメルの靴が、彼の小さな顔と鋭い眼光にぴったりとマッチしているが、やはりどこか威圧的で、近づき難い印象を与えている。それにもかかわらず、声色はとても穏やかで優しく、特にイサークを見つめる目には、年の差を感じさせないあどけない親しみ深さがあった。
    「・・・傷ついた心を癒すなら、思い切り声を出すのが一番だよな?」
    彼はにっこりと笑い、慰めるように肩を叩いて、歩き出した。
     「・・・・・・ソルって歌がめちゃくちゃ上手いな」
    靴を脱ぎ捨てソファに両膝を立てて座るイサーク。ポテトフライを齧りながら、羨望の眼差しをソルに向けていた。
    「・・・俺、バンドでギター弾いててさ、バックコーラス、やってるんだ」
    薄暗いカラオケルームにソルの顔ははっきりと見えなかったが、はにかんだ笑顔は彼が男性だということを一瞬忘れさせてしまう。
    「バンド!?かっこいい・・・イメージ通りだ!」
    イサークが嬉しそうに声を上げた。
    「それじゃあ今日はもう、ソルの歌声を聴いていよう」
    そう言って、夢見がちの蒼い眼が揺れて、彼の隣へ身を寄せる。イサークの細く締まった肩が、わずかにソルの肩へ触れた。
    「お前のために来たのにな・・・」
    ソルが困った顔を向けると、陶酔にも似た表情のイサークがぼうっと液晶を眺め、ゆっくりとソルの方へ向いて来る。憧憬の念を抱いた少年の眼が、そこにはあった。
     ソルは黙って微笑んで彼の頭に手を伸ばし、膝の上へと誘う。どこからともなく、サンダルウッドの香りが鼻をくすぐる。何気なしに歌うバラードが、子守歌代わりになり心地が良いのだが、まだ気恥ずかしさが滲む。その気持ちを拭い去ろうとするかのように、骨ばった長い指が、イサークの潤った柔らかい金の髪を撫でる。
     イサークは彼の手に触れ、そっと握った。
     自分の手はひんやりとして、ソルのは温かい。そのまま彼の中指に嵌められている無骨なシルバーのリングを、回すようにして手に取って、宝石を眺めるかのように見つめた。
     ソルの掌がゆっくりイサークの頬を撫ぜると、彼は現実に引き戻されたように目を見開き、指先は幻影のように離れて行った。指輪をあるべき場所へ戻し、息を飲みながら恐る恐るソルの方を見た。狐を射止めた狩人のような目に、イサークは身動きが出来ない。暗がりの中で、エメラルドの目が鈍く輝きを放っている。
    「・・・俺の家にくる?」
    撫でて行った掌の感触と体温が、イサークの頬にじんじんと残されたままでいる。
     彼は小さく頷いていた。

     彼のマンションは然程遠くはなかった。簡素な門をくぐるとこじんまりとした中庭があって、白い小石が敷き詰められ緑が植えられていた。よく見ると、白い石に混ざって青や緑の透明なガラス石が散りばめられていて、それが丁度、熱帯魚が泳いでいる水槽の敷石のように見え、イサークは不思議な気持ちになった。
     ソルに関しては欠点が今のところひとつも見つからない。築年数が高いわりに内装を完全リフォームしているタイプのワンルームは、照明からフローリングまで流行りのタイプで、洗練されていた。
    「・・・タマゴヘビだよ。知ってる?」
    五十センチ程の水槽の中を、イサークがしゃがみこんで興味深そうに眺めていると、背後からソルの声が聞こえた。とぐろを巻いたクリーム色の小ぶりのヘビが、胴体に頭を置いてこちらをじっと見つめている。
    「この子は、卵しか食べないから牙がないんだ。殻は消化できないから、後で口から固まったのを出す。どう?可愛いだろ」
    「そんな蛇がいるの? ・・・名前は?」
    「名前はないよ」
    振り向くと彼の姿はなく、冷蔵庫のドアを開く音がした。
    「冷血動物に名前は付けない主義でね。名前を呼んで懐くような生き物じゃないし」
    「ふうん・・・。(独特な感性だな・・・)」
    合皮のソファに浅く腰かけ、小さく息を吐いた。彼の手に触れて、頬を撫でられた事をちょっと思い出し、胸の高鳴りを感じながら、普段の自分らしくない緊張感を漂わせてしまっている事に気づき赤面する。
     どうして自分はこんなところに居るんだろう。数日前まで廊下越しに見ていた憧れの人の部屋に居るのだ。無論、強引に連れてこられたのではない。自分の意思でここに居る。それなのに、気持ちの整理がつかないままに落ち着きがなく不安になっている。喜びと期待で胸を膨らませながら、「お前はここに居るべきじゃない」と、第二の自分が後ろ髪をぐいぐいと引いていた。
     同時にソルには、イサークを引き込み誘い入れるような強い引力があった。彼の薄い唇から放たれる言葉は愛しみがあり思いやりに溢れ、その魅惑的な視線と香りで、そぞろな少年の気持ちを完全に射止めていたのだ。
    「ジン、ソーダで割って良い?」
    「え・・・ 俺、高校生だよ」
    ハッとして苦笑いするソルに、一緒になって笑う。
    「そうだな、忘れてた。まだ高校生だったんだ。私服でいると忘れるな。だってこんなに・・・落ち着ついているからさ」
    「緊張しているんだよ・・・ただ」
    作った炭酸割を一口飲んだ後、別の飲み物を用意して目の前の低いガラステーブルに置き、まるでイサークの肩に手を回すかのように、片腕をソファに大きく投げ出しながら隣に座った。
     目の前には流木とヤシガラが敷かれたタマゴヘビの水槽があり、小さな間接照明が灯っている。目立つものはそれだけだった。イサークがようやく柔らかな背もたれに体を預けたその時、彼の腕が頭の後ろにあることに気がついた。
    「・・・すぐに慣れるよ」
    腕がゆっくり滑り落ちてイサークの肩に触れる。強烈な視線を感じて恐る恐る目を向けると、稚い子をあやすような優しい瞳の奥で、暗い火花を散らすソルが微笑んでいた。少年には分からない、計り知れない思惑が秘められていて、独占的で、勝ち誇った狩人のような佇まいがあった。
     イサークは本能的に言い知れぬ恐怖を感じ、抵抗を向けようとしたが、身体は杭で打たれたように微動だに出来ない。ここはまるで水の中のように息苦しくて、不自由でありながら、甘美で誘惑的な空気に包まれていた。色を追った少年は、哀れにもソルという茨に絡め捕られてしまった。もう、遅い。彼の世界の、惑溺の抱擁に身を任せるしかないのだ。
     はじめは浅い、躊躇するような接吻だった。ジンのほろ苦いアルコール臭がわずかに鼻を抜けていった。ソルも気づいていたのだ。自分が‘許されている’という事を。この口づけに対して、あまりにも抵抗がないことが判って素直に嬉しくなった。
    「・・・っ」
    イサークの小鳥のように丸く開け放たれた瞳には、感情の色がまだなくて、電撃を食らったように動かなくなった体が、置かれているだけだった。ソルはそれをなだめるように優しく眺め、イサークの顎に指をかけ再び、押さえつけるようなキスをした。
     湿った唇の間から薄い舌が侵入してくる。そこで初めて、彼の舌の中央に球状のピアスがあることに気づく。喋っている時に見えたかもしれないが、特段気にしなかったし忘れていた。だがここでの彼の舌は執拗に存在感を放っていて、イサークをかつてなく欲情的にとらえ、内部深くまで刺激した。
     身体が急激に熱を帯び、目の前が霞んでいく。霞んでいく最中、冷静な彼に似つかわしくない鈍い光を秘めた鋭い、野性的な眼光が垣間見えた。蛇のような・・・牙の無い蛇が大きく口を開け放ち、ウズラのタマゴのように飲み込まれていくような感覚。タマゴヘビの餌なんだ―――陶酔を孕んだ瞳を潤しながら、イサークは静かにそう悟った。大人びたジンの薬草とサンダルウッドの魅惑的な香りが一層攪乱させて、気持ちを切り離せなくする。
    「・・・・・・」
    「・・・イサーク?」
    ソルの指が少年の頬に緩く絡みついたまま、耳元で低い囁き声が聞こえる。
    「・・・いいの?」
    イサークは黙ったまま、彼の硬く締まった細い腰に両手をあてがい、ゆっくりと引き寄せて再びその唇に触れた。
     それが返答だった。

     七月に入って季節は一層夏めいてきた。スカイブルーの空ははつらつと澄み渡り、綿のような真っ白な雲が浮かんでいて、緑は太陽の雫を浴びてきらきらと光を振り撒いている。冴え冴えとした景色を横目に、授業中のフェルナンドも晴れやかな気分・・・というわけにはいかなかった。二限目のチャイムが鳴ってしまい、気に留めているある席に再び目を向ける。イサークは今日も遅刻をしている。
    (それか、欠席か)
    何十分か過ぎた時に教室の後ろのドアがゆっくりと開いて、猫のように音もなく彼が入ってきた。先生はもう慣れたように呆れた表情を落とし口をつぐんで、後で話があるといったような目をイサークに向けてから、何事もなかったように授業を再開した。
     イサークもイサークで、悪びれもせず涼しい顔で教科書を開いている。
    「最近、寝不足気味で。生活リズム変わったというか・・・まあ、そんなとこ」
    ややばつの悪そうな表情を湛えながらも、それを言い終える頃にはいつもの見慣れたイサークに戻っていた。
    「確かに目の下にくっきりとクマが」
    「あ、やっぱある?」
    お互い苦い笑いを浮かべて笑い合ったが、どこかぎくしゃくしたような、歯車がうまく噛み合わない感じがあった。まるで歯車の間に薄いセロファンが挟まったまま動き続けているような気持ち悪さだ。フェルナンドは思考を巡らせていた。イサークが一年前の冬に付き合った彼女と別れてから、何かが変わった気がする。その原因が失恋なのか、それとも新しい恋人ができたのか。それを知りたくてたまらなかった。彼の家庭環境が良いのは知っているから、気になるのはそこだ。そろそろ答え合わせがしたい。
    「イサーク、あの、別れた後から少し雰囲気が変わったな」
    「え・・・」
    困惑した声の中に恥じらいがある。・・・あぁ、これは。
     ナノが全てを見透かしたような、薄ら笑いを浮かべ、イサークの肩に手を置いてポンポンと叩いた。
    「俺には判っているぞ」
    イサークの瞳孔がきゅうと縮まる。
    「なにを!?」
    「新しい恋人が出来たろう?」
    彼が口をつぐんで窓の外をとっさに見たのを、フェルナンドはニヤニヤしながら眺めていたが、内心は面白くもなんともなかった。いつも明るく元気に笑っていた友人が、急に気怠く、不遜で大人びた態度を見せるようになった。‘寝不足’というが、実際はそれだけでは説明がつかない。学校にはしょっちゅう遅刻するし、授業は真面目に受ける気がないのか居眠りをすることが増えた。ナノを一番不満な気持ちにさせたのは、疲れた顔をしながらも、イサークの顔色は前よりずっと色味を増して、潤んだ蒼の瞳は夏の青空をくっきりと反射させていて、幸せそうに見えたことだ。そんな友人を毎日目にしていると流石に、黙々と勉学に励む自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
    「違うよ。」
    イサークの口だけが笑っている。その笑顔に、見え透いた嘘があるとフェルナンドは感じた。
    「・・・どうして話してくれないんだ。俺は・・・素直に嬉しいよ」
    珍しくナノの感情の壁が崩れ、内面が露わになった。窓の外を見て気持ちを紛らわせようと努めたが、彼の表情には寂寥感が色濃く漂っていた。
    「ナノ・・・」
    イサークは息を飲んだ。自分の事をここまで考えていてくれているとは、思っていなかったから。
    「ごめん。そう、嘘」
    同時に、自分が無意識に思い上がった態度を取り続けていたことに気づき、急に居心地が悪くなる。
     正直になろう、少なくとも一番の親友の前では。
    「付き合ってる人いるんだ、実は」
    彼は無言のままだ。なにも思っていないのか、なにを考えているのか、今のイサークに推し量る術はなかった。ただ、次の言葉を促されているような気がしたので打ち明けることにした。
    「・・・ほら、前に定時制の話したろ?そこの生徒で、年上の男なんだけどさ・・・」
    「・・・男?」
    ナノの声色が低く、ひっそりとした。
    「ちょっと、詳しく聞かせろよ」
    ナノの言葉を遮るように、授業のチャイムが鳴る。この時ほどチャイムの音を呪ったことは無い。
    「聞かせろよな?」
    畳みかけるナノに、被さるように頷いた。

     その日の放課後は、いつになく風が重かった。校舎の窓から見えるハナノキの葉は鈍く揺れ、陽の光もどこか遠くに感じられる。
    『放課後行ってみれば、いるかもしれない』
    イサークのその言葉が、ずっとフェルナンドの胸の内に響き続けていた。理由はよく分からない。ただ、付き合っていた人が〝女〟ではなく〝男〟だったことが、ささくれを剥いてしまった後の赤みがかった傷跡のように、じんじんと沁み痛み続けていた。心のどこかで、なにかを認めたくない気持ちがある。それをはっきりと口にするには、今の自分にはまだまだ準備不足だったし、なにより気持ちが混濁している。
     怖さと同時に、強烈な好奇心が取り残されている―――。
     フェルナンドは制服の上着を脱ぎ棄てるようにし、荷物を持たず、教室を出た。鞄を持っていないのは、そこへ行くことを“寄り道”だとする証拠だ。自分にそう言い聞かせていた。
     向かう先は、図書室の奥にある定時制の教室。相手の名前は聞いていない。というより、彼は言わなかった。話したくなかったのかもしれない。
     階段を一段ずつ、意識して音を立てずに降りる。誰にも見られたくない行動だという自覚があった。自分でも、こんなことをしているのが信じられない。図書室の奥の廊下は、夕暮れの光と蛍光灯の白がまじって、曖昧な色に染まっていた。空き教室の扉は閉まっていて、煌々と明かりが灯っている。
    (どうせ、何も見えないかもしれない)
    そう思いながら、教室の横の小窓に近づいた。前から覗きに行ったら目が合いそうで、それがなんとなく嫌で、フェルナンドは手前の扉の前を隠れるように素通りした。後ろ側の扉から、教室をそっと覗きこむ。ガラス越しにのぞくその空間は、全日制の教室とは明らかに空気が違っている。天井の照明はあたたかみのない白。制服ではない生徒たちが、まばらに椅子に座っている。誰も喋っていない。
     その一番奥の席に、彼はいた。
    (きっとあの人だ・・・。)
    イサークから、特徴を聞いていたからすぐに判った。そしてなにより、ナノさえも強く惹きつける不思議なオーラがあの青年にはある。首元が開いた白いシャツ。薄紅色、ハイトーンカラーの真っすぐな長い髪。モデルみたいな、小さな顔。黒いジャケットを羽織って、ノートに視線を落としている。
     ふと、前の席の誰かが立ち上がった拍子に、その“男”もわずかに顔を上げる。
     フェルナンドは瞬間、呼吸が止まったような感覚を覚え、すぐに窓から離れ立つ。目が合うことはなかった。けれど、それで十分だった。制服のポケットに突っ込んだ手の中には、スマホが握られていたが、誰に連絡を取るつもりもなかった。ただ、取りこぼしたものを何かひとつでも、拾い上げたような気持ちになっていた。
    (・・・もう、帰ろう)
    鞄とブレザーを教室に置いてきたままだと気が付いたのは、下駄箱の前に立った時だった。

     塾がない日で本当に良かった。勉強なんてする気は全く起きないし、もうしたくもない。なにもかも、どうでもいい気分になっている。フェルナンドは、帰宅するなり部屋の電気もつけずベッドにのろりと寝転がった。ナノの部屋は余計なものはなく、こざっぱりとしている。歳の離れた弟と妹がおり、二人の騒ぐ声が一階から聞こえる。それを黙って耳を澄ませながら、仰向けになって額に腕を乗せた。カーテンは開いたままなので、部屋は薄暗く青白がかり、しんと静まり返っていた。
     瞼の裏には、今もあの男が居座り続けている。想像通り彼はずっと大人びて、美しかった。
     どうしてイサークは初めはっきりと言わず、少しはぐらかすようにしたのか考えてみた。なにか後ろめたさでもあったのだろうか。恋人が同性だったからか?ほんとうにそれだけの理由で?・・・ただ、男と分かった瞬間に反応を示してしまった事に少し後悔はある。
    (別に嫉妬なんて、ちっともしていないのに)
    無意識に唇の内側を噛み続けている。ほんのり血の味がしてきたところで気が付いてやめた。
     ・・・二人の関係を思い出しただけで、再び胸の奥にざわりと波が立つ。
     友人が毎日少しずつ変わっていった理由も、彼の瞳が蒼さを増していった理由も、きっとあの男が全部持っている。


        *


     あの夜の部屋は、妙に静かだった。いつもより音楽も流していなくて、暑さを和らげる風交じりの雨音だけが、やけに耳に残った。
     ソルは先にシャワーを浴びていて、乾ききっていない髪を無造作に撫でながら、合皮のソファに背中を預けていた。照明は落としてあり、部屋の隅でオレンジ色のスタンドライトが灯っている。
     イサークはボタンをとめずワイシャツを羽織ったまま、床に脱ぎ捨てたブレザーの上に座り込んだ。暑かったはずなのに、肌の上に触れた冷房の風が不意に鳥肌を立てさせた。
    「・・・どうしたの?」
    そう聞いたのは自分の方なのに、ソルは笑わなかった。ただ静かに、濡れた髪をかきあげて、こちらを見ている。
     その目がやさしかった。
     わずかに濡れた手が、頬に触れる。ぬるい熱と、ムスクっぽい石鹸の匂いが鼻をくすぐった。香水のような複雑な香りがするこの石鹸は、どこで買ったか知っている。それだけで、気持ちがふわっと浮いたような気がして、思わず口元が綻ぶ。
    「イサーク」
    しかし、名前を呼ばれると、胸の奥がちくりとした。なぜだろう。ソルに名前を呼ばれるのが好きだった。ほかの誰でもなく、自分だけを見ている気がするからだ。
    「ん? なに―――」
    言い終える前に、顔に影が覆いかぶさる。唇がふれた時、ほんの少しだけアルコールの匂いがした。深いキスではない。ただ、存在を確かめるような、浅くてゆるい口づけだった。
    「したい・・・」
    口づけに反して、彼の声は抉るように深い。
    「今っ?」
    雰囲気をあえて崩すような、あっけらかんとした声を上げてみる。そういうふざけた調子も含めて、ソルはイサークの事が好きになっていた。ソルも調子を合わせるようにニヤッと笑って見せた。しかし彼の瞳は、色気を含んで甘い汁を滴らせているようで、どこまでも本気だった。そう、抗うことは決してできない。ここではイサークは、ずっと溺れた状態なのだから。それでも、仕草や表情で彼なりに抵抗はして見せる。それが無駄だと分かっていても。
     イサークはやがて腕を伸ばし、ソルのシャツの裾を掴んだ。ソルは目をつむり勝ち誇って、もう何も言わなかった。
     そのまま二人は、ゆっくりとベッドへ移った。

     服が脱がされていく感覚は、もう何度か経験しているはずなのに、その夜はどうしてか、やけに遠く感じられた。まるで夢の中で起きていることのようだった。ソルは静かだった。触れる手はやさしく、けれど少しだけ、執着のような力がある。イサークはただ、されるがままだった。もうそのことに抗いたいとは思わない。
     ・・・こんなふうにされるのが、嬉しかったから。
     彼の舌にはピアスがある。それが、体の奥にふれるたび、体の芯がじんわりと熱を帯びていく。どこかで、自分の声が漏れていた気がする。どこかで、スマホの置かれた“あの場所”がちらりと目に入った気がする。でもそれを気にする余裕なんて、もうなかった。
     馬乗りになったソルが、イサークを包み込んでいく―――。
     イサークは、ただ溶けていた。ソルの体温と、香りと、手の中で。
    「・・・ねぇ。ピアス、開けよ?」
    雨は止んでいた。ソルが耳たぶを甘噛みして、似つかわしくない、子供のように甘えた声で囁いた。冷房の風が感じられないほどに、身体が火照っていた。汗ばんだ掌がイサークの腕を這い上がり、蛇のように指に絡みつく。
    「どうして?」
    イサークはクスクスと笑いながら、深い息をしているソルの胸にころんと顔を埋めた。
    「お揃いのピアスがいいんだ・・・」
    汗で湿ったイサークの柔らかい金の髪を、何度も何度も撫でている。愛おしい、愛おしいと、彼の手が話す。
    「だめ。校則違反になる」
    やや遅れて、くぐもった返答が聞こえてきた。
    「校則、守っているのか?」
    「・・・・・・」
    彼の返答はもう聞こえなかった。ただ、無言で、濡れた唇をソルの肌に押し当てて。
     ソルは、祝福を授けるように――あるいは、何かの印を刻みつけるかのように――イサークの頭上へ、注意深く接吻を落とした。
    「痛くないの?」
    好奇心と、わずかな不安を浮かべたイサークが目を上げた。ソルは小さく頷く。
    「・・・分かった。いいよ。目立たないやつなら」
    碧の瞳をキラッと輝かせて、すごく嬉しそうな顔をする。ソルってこんな顔するんだ―――イサークは思った。
     彼は起き上がって、イサークの太ももを持ち上げるように手をかけた。
    「・・・じゃあ二回戦な」
    「へ!? ちょっと!」
    「あはは、冗談だよ」
    少年みたいな笑い声で笑うソルに、イサークもつられて笑った。
     身も心も、その惑溺に沈んでいる。

     ―――そうやって今も、彼のことを考えてしまっている。
     イサークは片手で頬杖をつき、気怠い眼差しを黒板から窓の外へと移した。夏の青空と、セミの鳴き声が遠くから風に乗って聞こえる。目が覚めるような白と青。反して教室に漂うのは眠りを誘う静けさと、あまりにも退屈な色で満ちている。
     何席かまたいだ斜め後ろの席に目を向けると、ナノが口を結んでノートを取っている。スポーツではなく座学を選んでいるはずなのに、どうしてそんなに体格がいいんだろうか。
     ナノがイサークの視線に気が付ついて、お互いの目が合った。表情は変わらない。そのままだった。いつもの彼だった。それなのにどこか一瞬、突き放されたような感じがした。
     イサークが無表情でこちらを見ている。・・・どうした?フェルナンドは少し目を細めて応えた。
    「・・・!」
    制服のズボンのポケットに閉まっていたスマホがブルっと震え、イサークは前に向き直った。
     先生の目を盗み、左手でそっと取り出し素早くロックを解除する。
    (ソルからだ)
    トーク通知だったが、いつものようにろくに確認せず、アプリを立ち上げる。
     何の話かと思った。「今日何時に来れる?」・・・みたいな。トーク画面が開かれるや否や、眼前に飛び込んできたのはテキストではなく動画だった。親指が画面に触れて、その動画は無情にもフルサイズで再生された。
    「ぎゃッッ!?」
    薄暗くもはっきりと分かる肌色。ベッドの上に寝そべって、あられのない姿でいる自分。その上に被さるように、イサークを全身で飲み込んだもう一つの肌色が、揺れ動く。
     罪を犯した左手は脊髄反射で画面を閉じていた。ポケットにスマホをねじ戻し、ノートの上に突っ伏す。全身が氷のように冷たくなり、じっとりと汗が噴き出す。
     ―――ミュートにしていなければ、確実に死んでいた。それだけは不幸中の幸いだった。
     しん・・・と静まりかった奇妙な静けさと、クラスの冷ややかな視線が集まっていることに当人が気付くには、やや時間がかかった。
    「・・・・・・」
    「そのスマホを渡しなさい」
    呆れの混じった怒りの言葉が、教卓から投げかけられる。イサークはハッと顔を上げた。
    「ま、ま、待ってください!」
    注意深くロック画面を開き、電源ボタンに指をかける。
    「早くそれをこっちに」
    「今、電源を切りますから!!」
    今、先生に中を見られたら、停学どころでは済まされないだろう。それはイサークにだって分かる。
     耳まで真っ赤にして顔を伏せながら、手を伸ばし、大人しくスマホを先生に没収されている姿を、フェルナンドは後ろから無言で見つめていた。先生がイサークの前に立ったとき、左側をかばうように顔を向けていたのも、彼は見逃さなかった。

     「スマホ、取り返さないのかよ」
    昼休み。クラスの生徒たちから逃げるように、二人は6月に南京錠がかけられたばかりの、屋上への扉が見える階段の踊り場まで登ってきていた。ナノは今日、弁当を持参していて、イサークが一階の購買から戻ってくるのを待っていた。
    「放課後まで没収されることになっちゃった。まぁいいけど」
    イサークが紙パックのイチゴミルクを飲みながら、階段を上がってきた。フェルナンドは、腹が減ったのでもう弁当を食べ始めている。
    「その後しっかり説教されるやつだろ」
    それな、と苦笑いしながら、ナノの隣に腰かけた。授業終わりに先生に注意されて、しまったシャツはもう出かかっている。どこか遠くを見つめる目は、どこでもないどこかをずっと見ているようだった。
    「待っていてやるよ」
    「・・・いいの?すげぇ遅くなるかもよ」
    塾は?と聞こうとしたがやめた。待っててくれると言ってくれたのが、純粋に嬉しかったからだ。ナノは今日が塾がある曜日だとうっかり忘れて、口が滑っただけかもしれない。「やっぱり、すまん」という断りが、きっとある。事前に家族の許可が取れないのは後々怖いが、今日はソルの家に押しかけてやるつもりだ。・・・早く、会いたい。
    「あと、左耳もできるだけ髪で誤魔化せるといいな!」
    ナノが笑って、ウィンナーを口に放り込んだ。イサークの顔が赤くなる。
    「わ、分かってるよ!・・・あ。分かる?・・・バレるかな、コレ」
    ピアッサーで開けたばかりの、小さなシルバーのワンポイントピアスが光る。
    「禁止だからなあ。最近先生に目つけられてるし・・・これがバレたら停学にされるぞ」
    イサークの表情が一瞬曇った。
    「停学はいやだな。・・・こんな俺でも好きなんだよ、学校」
    「そんなに好きならどうして遅刻するんだよ」
    ナノの鋭い質問に、ぐうの音も出なくなる。滅多に人が訪れないこの静かな踊り場に、ささやかな笑い声が響いた。踊り場の上部に備え付けられた、掃除が行き届いてない曇った窓ガラスから、淡い昼下がりの光が降り注いでいる。

     その後の出来事は、だいたい二人の予想通りで、イサークは放課後教員室でこってり絞られた。けれど、予想外のこともあった。ナノが居残り続けていてくれたことだ。
     先生の説教が終わり、ため息混じりにスマホの電源を入れながら下駄箱に向かっていると、『図書室にいる』という短いメッセージが残されていた。イサークは慌てて電話をかけた。
    「まじで、待ってくれていたんだ・・・」
    しばらくして、ナノが図書室側の階段から降りてくる。一時間以上は待たせたと思うが、彼は涼しい顔をしていた。
    「・・・塾の日じゃなかったの?」
    「そうだけど、今日はそういう気分じゃなくて」
    「サボったってこと?」
    ああ、と言ってナノは、靴を履きペットボトルの麦茶を一口。
    「たまにはいいだろ」
    口を離したあとのくぐもった笑いの中に、悪戯の影と、たまらなく優しい音があり。それがイサークの心のどこかを、そっと、撫でていった。
     ナノが塾を、休む日など一日もないのに―――。驚いて言葉を失い固まっていたイサークを見、ナノは自分がどれだけ〝ガリ勉〟として彼の目に映っていたかを思い知り、つくづく後悔をする。
    「ほら、帰るぞ」
    突っ立ったままの彼を促すように腕を引っ張ると、それは思ったよりずっと軽く、ふわりとこちらに寄り掛かってきた。
    「ナノ・・・」
    脱力したそれは、両手を下ろしたまま、ナノの胸に深く深くもたれかかった。
     ナノの胸は、温かい、春の日向みたいなぬくもりがある。
    「なんだ?」
    「・・・ありがと」
    フェルナンドは、自分の胸でホッとしたような吐息が漏れるのを感じた。
     お互い、顔を見合わせることはしなかった。

     イサークもフェルナンドも夏が好きだった。日が長いためか、一日が長く感じられるようで得した気分になるからだ。無論、暑すぎる日はきらいだ。ガンガンにクーラーの効いた室内で、キンキンに冷えたアイスクリームを頬張るのがいい。そんなくだらない会話を挟みながら、ゆるい風が吹く夕暮れの道をのろのろと歩いていた。
     こうして一緒に下校するのは、久しぶりだ。転入したての頃は寄り道をしながらよく一緒に帰っていたのだが、二年になるとナノは塾に通い出し、イサークは別の友人たちと居るか、あるいは独りぼっちか、やがてソルの方へと流れて行ってしまった。日中はこんなに一緒にいるのに、下校はすれ違ってばかりなのだ。
     久しぶりというのもあり、いつもより会話が弾んだ。そこで二人は、通りがかりの公園の自販機で、飲み物を買って一休みすることにした。ナノは、塾に行っている体にしたいらしく、もう少しだけ時間をつぶしたいのだという。
    「乾杯っ」
    「なんで」
    イサークの掛け声に、ナノが笑いながらもそれに付き合う。
    「いいだろ、なんか」
    にぃと笑ってみせたが、本当は、彼氏が毎晩酒を飲む習慣があって、調子を合わせているうちに口が滑ったのだ。
     公園の蛍光灯が白く発光し、羽虫が羽ばたいている。公園には誰もいなかった。遠くで一日の終わりを告げるような、セミの鳴き声が小さく聞こえる。
    「・・・授業中、なにをそんな驚いていたんだ?」
    一息の無言が思ったより長くなり、フェルナンドはたまらず聞いてしまった。
    「・・・」
    イサークは冷たい雫を垂らす缶をくるくると撫でながら、しばらく黙り込んで目を伏せていた。少し、耳が赤くなっているように見えるが、それは気のせいかもしれない。
    「言いたくないならいいや」「ハメ撮り盗撮された」
    「・・・なっ・・・!?」
    二人の声が重なっても、内容のインパクトの方が勝ってしまった。
    「え・・・。は・・・?」
    マジで言ってんのか?という次の言葉が、ナノの顔に書かれている。しかしその言葉が出てこない、いつもの冷静さを欠いた友の姿が、面白おかしくてつい噴き出してしまった。
     しかし、イサークの笑みにもまた、全然楽しくないという含みがあった。
    「別に怒ってない。びっくりしただけ」
    怒れないんだきっと。ナノの胸の中で言葉だけが消えていく。
     砂場の砂を足で撫でながら、イサークは少し寂しそうに笑う。
     名前を教えてもらった。
     〝ソル〟という男は、放課後に一度、見てきたから分かる。鋭く射抜くような目に、どこか人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。独占欲が滲むような、傲慢さすら感じさせる佇まいが印象に残っている。
     けれど、それでも両想いなのだと聞けば、どこか納得もできる。彼は、きっと相手にだけは限りなく優しく、時には紳士的にさえ振る舞うのだろう。だからイサークが心を奪われるのも、あながち不思議ではない。
    「そういえば」
    浮ついた足元がふいに止まって、イサークの心の声が漏れた。
    (今夜、ソルのとこに行くんだった・・・)
    「・・・イサーク?」
    すっかり忘れていたと、藍色の空を見上げて佇む友を現実に呼び戻す。イサークはナノを目に入れると、首を横に振った。
    「今日はもう帰ろう」
    「・・・だな。いい時間だ。ありがとな、イサーク」
    ナノがスマホを見て頷く。辺りはずっと暗くなってきている。液晶画面がナノの顔を煌々と照らし、二人は過ぎ去った時間の感覚をようやく取り戻す。
    「こっちのセリフだよ。フェルナンド」
    そこでようやく二人はお互いの顔を見つめ合ったのだが、薄闇に包まれた辺りとその静けさが、互いの照れや気恥ずかしさを優しく覆い隠してくれているようだった。
     ポケットにあるイサークのスマホが、一瞬振動したような気もするが、今夜はもう見なくていいと思った。

     家庭環境には恵まれている方だと思う。裕福でもなく、貧しくもない、ごく普通の家庭で両親は突き放すでもなく、干渉するでもなく、適度な距離を保って見守ってくれている。けれどその〝自由にしていい〟という無言の応答は、ときに引き返すのが困難になる状況まで、自分を追い詰めてしまうこともある。
     イサークは風呂上がりの火照った体のまま、自分の部屋の椅子に深く腰かけ、窓を開け放ち、夜風に当たっていた。ふいに、机の上に封印していたつもりの、伏せたスマホに手を伸ばす。
    『動画のこと、みんなには黙ってるから』
    というナノからの新着メッセージが目に入った。ナノのメッセージはいつも、ぶっきらぼうな一言だ。
    (ああ、もちろん。ナノだから話したんだ)
    言いふらすようなやつじゃないことは、知ってる。あとはちょっぴり、誰かに打ち明けておきたかった気持ちがある。
     しばらく返信を考え、結局、スタンプをひとつだけ送った。
     暗がりの公園、帰り際のナノの表情を、思い出している。感情は整わないまま、ただ真っすぐ、自分を信頼して、無言で支えてくれるような、優しい顔つきだった。
     俺は、そのとき・・・どんな顔をしていたんだ?

     ―――戸惑わせて、ごめん。

     そんな思いが脳裏に浮かんだ時、イサークの心の中でなにかがほどけていくような感覚があった。甘くてほろ苦いものが、すう、と喉元を通り過ぎていく。
     瞬きの音が聞こえるほど静かな夜だった。首にかけていたタオルが、思い出に触れたように、そっと床に落ちる。
    (・・・俺は、どうしたらいいんだろう)
    無意識に、左耳のピアスを指先でいじりながら。
     落ちたタオルは拾わない。
     そして、まだ未読のトークが、画面の向こうでずっと待っている。
     このままでいいのか、ほんとうに?
     少しだけ、〝彼〟に会いたくなる。ヘビに飲まれているときは楽なのだ。ただ、委ねているだけでいいのだから。
     ナノといると、あれこれと考えてしまってだめだ。気を使ってしまって、疲れるんだ。
     洗濯に出すのを忘れていた服に、染みついたままの彼の香水が、どこからともなく、名残惜しそうに鼻をくすぐってくる。
    「ソル」
    スマホに手をかけ、返信の手を打つ。
     無視をするのはよくない。
     返信を打ったスマホを再び机に伏せ、部屋の電気を消し、ベッドに倒れ込んだ。風のない静かな暗がりの中、ふいに、遠くを走る電車の音が柔らかく響いたとき、イサークは部屋の窓を開けっぱなしにしていることに気が付き、そっと、窓べりに手をかけた。

     その日は、なんだか一日がとても早く過ぎ去った。イサークは珍しく遅刻せず、朝一番に登校し、クラスメイトをざわつかせた。先生にスマホを取り上げられ、個別指導を受けたのだから、それなりに反省しているんだろうと、大半のクラスメイトはそう考えた。遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んできたのは、フェルナンドの方だった。
    「盛大に寝坊した」
    休み時間にはお互いあまり言葉を交わさなかった。ようやくやっと、会話という会話を交えたのは昼休みに入ってからだった。
     ナノは窓べりに浅く腰かけ、イサークの席を見下ろす形で、頭をぽりぽりと掻きながら笑っている。
    「いつものリズムが狂ったんだろ」
    イサークのどこかよそよそしい、歯切れの悪い返答が続く。
    「そうなのか?よく分からない」
    ナノはいつも通りの調子で答えていたが、友の違和感には嫌でも気づいた。
    (ひょっとして、彼氏関連のことで、あの後なにかあったのか・・・?)
    「・・・ううん、なにも」
    フェルナンドが慎重に質問をし、それを聞いたイサークは小さく首を振った。反するように言葉はいつになくはっきりとしていた。
    「・・・ナノ」
    青の瞳が揺れる。でもその目には、すでに確かなものを見出しているようでもある。
    「今日も一緒に、帰ろうぜ」
    その笑顔はどこまでも、夏の青空のように澄み切っている。
     ただ無垢で、眩しくて―――そんな顔を自分に向けられていることに驚き、ナノは思わず、返事をするのが遅れてしまった。
     何かを言おうとした唇が僅かに開いたまま、音にならない。背中を押すような緩い風だけが通り抜けていく。
    「実はさ・・・」
    ずいぶん遅れたナノの言葉に、イサークが目を見開いた。
    「俺も同じこと、言おうと思ってた」

     ひたすら、見えない何かをかき集めている。ソルという男を見たあの日から、友人がもう手の届かない遥か彼方へ行ってしまったのだと、静かに悟り、改めて自分の本心と向き合うことができた。そして、その事実と置かれた現実は、自分自身を苦しめもしていた。
     名前をつけ難い感情の輪郭が露わになったとき、自分に何が出来るかを考えたら、もう、ただ寄り添ってあげることしかできなくなっていた。
     先日の公園での後、帰宅したナノは靴を脱ぎながら、なにもかも遅かったんだな、と苦笑した。くよくよする自分があまりにも情けなく、もうこのことはなるべく考えないようにしよう・・・そう思いながら、くよくよと思考を巡らせ続けた。だからあまり眠れていない。
     寝坊はしたが、不思議と、気持ちの整理はついていたのだった。
     自分はイサークの一番になれなくてもいい。これまでよりちょっとだけ、一緒の時間を大切にできればいいのだ。
     ・・・そして今、イサークの〝今日も一緒に帰ろう〟の言葉に、ナノの心もまた、張りつめた夜の風が朝焼けに溶けていくように、そっと、ほどけていった。
    「今日はアイス食べて帰ろ」
    「いいな、それ」
    風のように過ぎていった学校での一日を惜しむことなく、二人は学生鞄を片手に、歩き慣れた道から逸れていく。夕方だが陽はまだまだ高く、世界に夏の色を落としていて、並んで歩く二つの青い影がおぼろげに、ゆらゆらと揺れる。
     ふと、イサークは笑顔になりナノを見上げたら、彼の口元も緩んでいた。
    「なんかいい事あった?」
    「・・・あったかも」
    「・・・だよな」
    二人は小さく微笑み合って、照れ恥ずかしく、うまく言葉は伝えきれないまま。それでも、それぞれが小さな幸せの形を見出していて、大切に静かに胸にしまっている。
     雑木林の狭い石階段を上っていくと、小さな神社が見えてくる。鳥居の手前の古いベンチに腰かけて、下のコンビニで買った、冷たくて甘いアイスをかじる。
     ナノが静かに、ゆっくりと口を開いた。
    「塾、やめようと思ってる」
    イサークはハッとナノを見、無言のまま、再び前に向き直った。
    「・・・もったいないよ。どうして?」
    いつもよりずっと低い、寂しい声が聞こえる。目標があって、あんなに頑張っていたのに。
    「あと一年とちょっとしかないだろ」
    「え?」
    フェルナンドの視線を感じ、彼の方を見た。視線が重なって、夕焼けに染まったナノの目元が、堪えるように、きゅっと締まる。
    「一緒にいる時間を、増やしたいんだ。だから・・・進路も考え直した」
    これからきっと、もう会えなくなる、そんな気がするから―――。
     もう〝遅い〟のは承知の上だ。しかし、あまり前のめりになっては、イサークを困らせてしまう。
    「その・・・。二人の邪魔は絶対しないから。もう少し、俺はお前と一緒にいたくて・・・。それ以上はないんだ、ほんとうに」
    イサークの持った溶けかけのアイスから雫が垂れて、足元にポトリと落ちた。
     またも無言のまま、前に向き直って、噛みしめるみたいにアイスをかじる。
    「・・・俺も同じ気持ちだ。ナノともっと一緒にいたい」
    「・・・!」

     きっと、お互いが、ずっと同じ気持ちを抱えてたんだな―――。
     
    二人のため息が静かに重なったが、その吐息は悲哀ではなく、安堵だった。
     「・・・イサーク」
    しばらく沈黙が流れたのち、ナノが小さく呟いた。
    「ピアス、取ったのか」
    「うん・・・。停学になりたくないから」
    そう言いながら、イサークは緩く首を振った。
    「そうじゃなくて。 ナノに、会いたいから」
    あの時は、学校が好きだなんて、嘘ついちゃったけど。
     ソルのことが嫌いになったんじゃない。でも、気が付いたのだ―――彼とは歩く歩幅が違い過ぎると。憧れからの恋愛は背伸びの連続だった。そしていつしか、呼吸をすることさえ忘れてしまっていた。
     呼吸すること。思考することを、もっと思い出したい。たくさん悩んで考えて、笑って、ときには泣いたっていい。
    「・・・・・・っ」
    ふいに、イサークの薄い肩に、ナノの厚い掌が触れる。
     その手がゆるりと滑り、イサークを抱きしめた。
     ―――強く、やさしく。
    「ナノっ・・・!」
    彼は答えなかった。思わず口の端が緩んだ。
     ・・・知ってる。そういうやつだ。しょうがないやつめ。イサークはとびきりの笑顔で、彼の背に腕を回した。
     それはとびきり暖かくて、愛おしい。
    「・・・ありがとう。」
     ふわりふわりと浮ついていた足元が、ようやく地面に着地する。
     色をくれる人は、自分の一番近くにいた。

     気が付けば、夕闇のカーテンが広く空を覆い、小さく星を宿そうとしていた。
     もう、帰らないとな、と、ナノは鞄に手をかけて立ち上がろうとした。ベンチの上のイサークの左手が、立ち上がる彼の腕を今一度強く引き寄せ、その無防備な唇を奪っていった。
     二人の間を抜けていった夏夜の風のみが、その光景を目の当たりにした。
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