夢みた日々の小部屋 ――――――破る。捨てる。・・・燃やす。燃やす。燃やす。それは傍から見たら自暴自棄になっているように見えることだろう。しかし、ソルはいたって冷静であった。感情はない。こうなった自分がどれだけ惨めに映っていることだろう。笑いたければ、笑うがいい。当然の報いである。
まだ陽がのぼって間もない時刻、肌寒いこの朝はソルの心のように恐ろしいほどの静けさを湛えていた。暖炉の炎はかつての思い出を食らって焼け付くように燃え上がっている。
「どうだ。 美味いだろう」
フン、と鼻で笑ってやると、炎はよろこびの声を上げた。
彼らの私物は大して多くはない。だいたいは自分が持っていたものを分け与えていたから。かつての愛弟子、フェルナンドが握っていた練習用の木刀を二つに割ったところで、脇腹にズキリと鋭い痛みが走る。
(よくやったもんだな。)
あの夜。ソルは切り付けたアレクに全神経を向けていて、横目に彼を視界に入れた時にはこの果物ナイフで刺されていた。育てた甲斐はあった。失うものは大きすぎたが、フェルナンドに至っては、ソルは全く未練がなかったのだ。師匠を刺して姿を暗ますとは、なんと〝美しい〟袂の分かち方だろうか。この傷を治療するのに使ったのは、ナノに作らせた応急用の軟膏である。文字もろくにかけない農村の子が、教えた文字で懸命にメモを取り、ちゃんとレシピ通りに作れている。これでこの傷はすぐに快方に向かうだろう。・・・なんと皮肉なものか。ソルは喉の奥で笑う。
しかし、アレクは別だ。彼を失うにはあまりにも・・・自分はあまりにも〝愚か〟だった。俺が、アレクを殺そうとした・・・?それは違う。理想の形でアレクを永遠に留めておくにはあの方法しかなかった。あの子はもう、自分の手から離れつつあったのだ。フェルナンドへ、あの子の恋が傾いたのが判った。その瞬間に俺のアレクは消えた。
もう少しで、完全な愛を手にできるところだった。
それなのに、彼に邪魔をされたのだ。フェルナンドに。
ふと、火に投げ込む手を止め、握った布切れを口元へ近づけ、鼻を覆い深く息を吸い込んだ。
(ああ・・・アレク)
このシャツは、今なお、お前の匂いがする。今の自分なら、愛しさのあまりその布さえ食らってしまいそうだ。
毎日、ソルの寝床でアレクは笑みを作って待っていた。寒そうに、子猫のようにベッドにもぐりこんでくる日もあったかな。
・・・それが、ナノと寝ると言い出した。次の日も、その次の日もだ、と。
人の人生を織物に例えるならば、ソルのものはところどころ解れたり歪んだりしている。大抵ならその場で解れを直して綺麗な状態を保つものだが、彼の場合はそのまま織り込まれていくのだ。ある感情が独歩し、頭の中を支配してしまう。こうなったら止められなくなる。ソルは、うまれた頃からそんな感じだ。そうやって人生を何度か台無しにしている。頬の傷もそんなところだ。
思い出を焼いた火で茶を沸かし、やたらと広く感じるテーブルの上にティーカップを置いた。濁った翡翠色の瞳を、炎の熱気が幾度となく撫でつけていく。その愛撫はあまりにも残酷で、その輝きはあまりにも眩しすぎた。部屋に充満した朝の空気さえ重い毒のように感じてくる。次第に全身に痛みが駆け抜け、疼痛へと変わる。
ソルは外套を羽織った。
少し、遠出をしたい気分である。馬を借りて気の向くままに街道を走らせる。数日間は戻らなくてもいいかもしれない・・・そんなことを考えながら、馴染みのある街並みを横目に緩く通り過ぎていく。首には金糸が織り込まれた朱色のストールを深く巻いて、口元を隠すようにしていた。無意識に、愚かな自分を他人に見られることへの防御反応のようでもある。
こうしていることで〝逃亡した二人を発見する可能性〟はある。彼の尊厳を保つために補足をするが、それは決してソルの本望ではない。あれは―――〝あの時間〟は、もう完全に壊れて修復不可能となっているのだから。
彼らはきっと怯えているに違いないだろう。化けの皮が剝がれた狂気の殺人者を突き付けられるのは、こちらも願い下げである。
薄い雲が空一面ベールのようにかかって、世界に白を落としている。今のソルにとって、曇天の光さえも眩しく感じる。そういえば、朝食もろくに摂っていないことを思い出し、彼はゆっくりと馬を降りた。
その直後、後ろから数人の子供たちがまばらに、風のように通り抜けていった。
孤児のような、粗末な服装の子供たちだった。その中の一人の少年に、自然と視線が惹きつけられる。彼の言いようのない視線を感じたのかその少年は振り返って、肩越しにソルを見た。
やや薄汚れた金の髪を肩まで垂らした少年は、こちらを見て僅かに微笑んだように見えた。
(アレク・・・?!)
・・・まさか。人違いだろう。 刃を向けた相手に向かって微笑むわけなんてないから。
「待ってよ」
笑いながら、前の子の後を駆けていく金の髪の少年。ソルは、視線を外すことが出来ないまま、少年が消えて行った先へと吸い込まれていった。しかし彼の理性は、どこか拒絶をしていた。
・・・アレクだった。
いや、違う。でも・・・アレクだったら?
また過ちを繰り返すのか?
会いたい。
触れたい。
あの子の笑い声を、また聞きたい。
そこは枯葉と埃が溜まる薄暗い路地裏だった。ふいに、角を曲がったところから穴だらけになった籠が転がってきて、ソルの靴先に当たった。拾い上げ、角の先を見やる。
「あ・・・」
声にならないほどの声を漏らす、背の高い少年と鉢合わせした。彼は転がる籠を追いかけてきていたようだ。
「・・・君のか?」
少年は艶やかな栗毛色の髪で、意志の強そうな濃い碧の目をしていた。
―――ソルは静かに、息をのんだ。
「うん」
そう言って、ボロボロの籠を受け取る。左手には、廃材のような木の棒を握り締めている。それはまるで、稽古中のフェルナンドそのものだった。
視線の先は袋小路になっていて、壁際に樽や木箱がまばらに積まれている。そこに先ほどの金の髪の少年が腰かけて、足をぶらぶらさせながらこちらを不思議そうに眺めていた。
「おはよう。」
表情を変えないまま、少年はソルに向かってそう言った。ソルはしばらく無言のまま立ち尽くし、胸の奥が押しつぶされそうになりながら、震えた唇からやっとの思いで言葉を絞り出す。
「こんなところで、なにしてる?」
彼らへの言葉である。アレクと、フェルナンドへの。
〝早く、帰るぞ〟何事もなかったかのように、そんな言葉を投げかけようとする自分が憎い。
ソルはすぐに後悔をした。見ず知らずの子に何を言っているのだ、と。
少年たちは顔を見合わせ、不思議そうな表情を浮かべている。
「す、すまない・・・」
視線を外したら、彼らが消えてしまうような気がして。瞬きをしても、彼らの存在が薄れてしまうようで・・・。
フェルナンドそっくりの少年が、そんなソルを現実に引き戻すように、少し笑いながら言った。「どうして、謝るの?」
「変な人。でもちょっと面白い」
金の髪の少年は、やはり表情を変えないで言う。
しかしその言葉には、ソルへの僅かな温もりが隠れているようでもある。
「お腹すいたね」
瞬きをしてしまった。
けれど、少年たちはまだここに居る―――。
「お腹、すいてるか?」
「すいてる」
ソルは無意識に手を差し伸べていた。
「じゃあ、一緒においで。」
朝食はとびきりだった。小さな店の、ささやかな朝食。少し硬めのパンに、野菜とひき肉が入った暖かいスープ。それと僅かばかりの果物。特段豪勢なわけでもない。けれど、それは三人にとってとびきりの朝食だった。
「美味しいね」
「美味しいな」
二人の少年が目を合わせて笑いあっている。
ソルは黙って、二人の会話に耳を澄ませた。
フェルナンドは早起きして、よく薪割りをしていた。口数は少ないから、何を考えているかあまり分からん子だった。特に俺が両親と取引をしていた事実を知ってしまった後は、あからさまに反抗的になった。自分の剣を持たせてやったときの、瞳の輝きは忘れない。あの時俺はふざけていたが、お前の目は真剣だった。
しかしナノは、誰よりも優しい男なんだということを俺は知っている。彼には、目の前の者を倒すことよりも、自分の身を守るような教え方をした。そして、誰かを守ることと、自分が生きることは両立しないこともあるということを。そのとき、お前は迷ってはいけないのだ。
フェルナンドには、いずれ〝分かる〟ときが来るだろう。今あの子の手を引いているのはお前なのだから。アレクがナノの背中を見つめる目を思い出すと・・・彼が焦がれるのも、自然な成り行きだったのかもしれない。
「どうしたの?食べないの?」
金の髪の少年がこちらを見て笑いかける。顔が少し埃で汚れているのを見たソルは、サッとハンカチを取り出し彼の顔を拭おうとする、寸前で手を止めた。
待つんだ―――。この子は関係ない。
「汚れているよ。顔が・・・」
そう言って、少年に真っ白なハンカチを手渡す。
「・・・。ありがと」
アレク。あの子は可哀想な子だ。奴隷として体を売っていた。触れたら壊れてしまいそうなほど繊細な、ガラス細工のような子。それなのに彼の心は厚いヴェールで何重にも覆われていて、本心を深くしまい込んでいる。それがまた、俺の心を強く惹きつけた。意図的だったのか、自然とそうしていたのかは分からない。十代前半の彼は既に、大人の心を弄ぶ術を身に着けていた。
そしてこの少年は不運なことに、俺と出会ってしまったのだ。店に居るアレクは、完成された一種の美術品であった。愛を知らずに愛されたことのある者だけが放つ危うい微笑。あれは瞼の裏に、今も強烈に焼け付いており離れない。
「これあげる」
アレクに似ている少年が、ソルの口元へ木苺を運ぶ。膝の上に置かれた手に、僅かに力が入る。
ソルは瞳を閉じて、手を使わず、口で直接それを受け取った。その動きには、独特な甘えがにじみ出ていた。アレクにはそうする。ソルは、彼を愛している。酷く陶酔していると言っていい。たとえそれが、歪な愛の形であっても。
夢ならもう覚めてくれないか―――。
ゆっくりと瞼を開けると、あの時の危うい微笑が、そこにあった。
「・・・アレク・・・」
口の中にいっぱいに広がる、甘酸っぱい味と僅かなほろ苦さ。
「なに・・・?」
ソルは目を見開いた。頭にずっと鳴り響いていたその名を、ついに口にしてしまった。
少年はその名を聞き返したようだった。否定も肯定もしていない。
・・・お願いだから、もうなにも言わないで欲しい。
日光が眩しい。曇っていた空にはいつの間にか光がさしていた。木枯らしが吹き、ナノが寒そうに身を震わせる。ソルは首に巻いているストールを解き、ナノの首にかけてやった。
「使うといい。これからずっと」
「え・・・くれるのか?」
「・・・この先もっと冷えるからな」
少し照れくさそうな表情をしながらも、ストールをしっかり巻き直して顔を埋めている。
「きれいなストール。いいなぁ・・・俺も」
ソルを真ん中に、ナノとアレクがその両側を歩いている。
「二人で仲良く使うんだぞ」
彼は笑って、二人の肩にそっと触れた。アレクがソルを見上げて少しだけ微笑んだような気がする。下ろした手に、アレクの爪先が触れ、指が絡んでくる。
ソルが見下ろすと、アレクはもう前を向いていた。
「ねぇ、あのさ。俺たちの秘密基地に来ない?」
握った手を引っ張りながら、アレクが声を上げた。
「秘密基地?」
「名案だ!今日こそ見つけられるかもな」
ナノも嬉しそうに声を上げた。
「三人いれば絶対見つかるよね・・・!」
秘密基地という場所は、町を逸れて少し傾斜がかった丘を登った先にあった。曲がりくねったおかしな木が生え、大小の岩が群生しており、地面は緑のシロツメグサで覆われている。大人が一見したらなんの変哲もない場所かもしれないが、子供たちがそうと決めればそこは特別な場所。それが秘密基地。
「この岩は人工的に見えるし、等間隔に配置されているから、なにかの遺跡かもしれないんだ」
フェルナンドは目を輝かせながらソルに言った。
「そこまで言うなら、俺が調べてやろう」
いつもみたいな、ちょっとふざけた笑顔で答える。
・・・ふむ。ただの〝岩〟である。
「・・・。これは遺跡のようだな」
神妙な面持ちで答えてやると、そうだろ、やっぱり!とナノは嬉しそうに岩の上に飛び乗る。
「ほら、ここだよ。二人とも、早く探そう」
「なにを探してる?」
「幸運の四つ葉のクローバー。」
・・・シロツメグサか。二人は足元に目をやった。生家の庭にもあったな。幼少の頃、母の隣でよく編み物を手伝っていた。体を動かすことより、指先を動かすことの方が好きだった。髪も伸ばして物静かにしていたためか、同世代からはよく揶揄われたものだ。
「・・・ほら、出来た」
そう言って、アレクの頭上に小さな花冠をポンと置く。
「!・・・なにこれ。すごい・・・!」
「次は一回り大きいの作ろうか」
得意げに、編み込みのビーズが揺れる。嬉しそうに、でも「真面目に探してよ」と笑う声が跳ね返ってくる。
不思議と暖かい風が頬を撫でて行く。
「・・・顔の傷、痛くないの?」
しばらくして、アレクがソルの隣にやってきて、そっとたずねた。ソルは爛れた左の頬へ指を置いた。
「痛くはないよ。だけど見るたびに心は痛む。醜いから」
沈黙が訪れる。ソルは目を伏せたまま、しかしアレクの視線がじっとこちらに向いていることが分かる。
「そんなことないよ。 俺は好きだったよ」
声にならない声が、漏れた。
「今なんて・・・」
少し遠くの方から、ナノが声を上げた。「見つけたっ!あったぞ」
アレクは立ち上がって、ナノの方へ駆け寄って行く。少し遠くで、二人の笑い声が聞こえる。
「やっぱりすごいなぁ、ナノは・・・!」
静かに、なにかが満たされる音がした。
自ら手放した幸福が、打ち砕いた人生の輝きが、目の前に、ある。あの日常が今、戻っているのだ。
・・・それより、もっと良い。彼らは所有も愛も知らない。二人の間に、薄汚れた己の指先はない。
「あげるよ」
フェルナンドの影が、腰を下ろしたソルを覆う。
「え・・・?俺に?」
見上げた先には、ナノの凛とした表情。片手を朱色のストールに添えて、はにかんだ。
「ソルが来てくれたから、見つけられたんだ」
青々として、真っすぐな茎。少し小ぶりな四枚の葉。後ろで屈んでいるアレクが、そっと花冠を頭にのせている―――。
誰も壊さなければ、こんな幸せがあったんだ。
ソルの瞳から、一滴の涙が零れ落ちる。
荒涼とした大地に一滴の涙が落ちた。地面は涙を吸い取り、跡にはなにも残らなかったが、その一粒はどんな時間の経過より尊いものへと変わる。
幻想でもいい。それでもいいから。もうしばらく、このままで居させてくれないか―――・・・。
・・・両目が開かれる。
冷たい石造りの建物に囲まれて、狭い曇りの空がソルを迎える。
(ここは・・・?)
辺りを見回すと、二人の少年と出会った袋小路に腰かけていた。うたた寝でもしていたような、そんなような感じがする。
「どうしてこんなところで・・・」
首に巻かれたストールの感触に落胆の念を浮かべ、立ち上がろうとゆっくり視線をずらした木箱の先に、それは置かれていた。
木枯らしに吹かれて、丁度飛んで行ってしまうところを掴んだ。四つ葉のクローバーである。
青々とした葉を眺めているうちに、ソルは違和感を覚えた。
(まて、今の季節は冬だ。シロツメグサの花が、冬に咲くはずはない。)
〝夢〟とは信じがたい、生(せい)の感触。この手がシロツメグサの花冠を編んだ強い記憶の跡がある。けれど自分は目を〝覚ました〟ようだった。では、この手にあるものは何だ?
あの二人が今にも笑いながら、通りから飛び出してきそうな予感がした。ソルの両目には乾いた涙の跡があった。
ストールを解き、アレクが座っていた場所にそっと、置いた。それから馬を探したが、もうどこかへ行ってしまっていた。時刻は夕刻過ぎ。働きに出ていた住民たちが我が家へと吸い込まれていく中、ソルは一人流れに逆流するようにそぞろ歩く。そのけがれた手に、四つ葉のクローバーを握り締め。
道が途切れるところまで来た。あの子たちはどこにもいなかった。丘を登ったところにあった秘密基地に行ってみようかと思ったが、ソルはあの場所から遠ざかるよう歩いていた。シロツメグサなんて咲いていないのを知っているから。フェルナンドの名を呼んでいたアレクも、ソルの名を口にしたフェルナンドも、いるはずなんてないから。彼らは逃げているのだ。自分から必死に遠ざかろうとしているのだ。
三人の生活の中で、幸せな〝家族〟の一幕もあったかもしれない。それは幻である。彼らは家族ではなく、ソルという男の周りを飛び回る小鳥。小鳥たちには本来帰るべきところがあった。これは、迎えるべくして迎えた結末なのである。
そう思うと、不思議と後悔の念はなくなるのだ。
時間を戻したいかと聞かれたら「そうでは無い」と言うと嘘になるが、どうしたっていつか必ず同じ結末はやってくる。戻しても意味は無い。俺はアレクを永遠に自分の物にしたい事実は変わらないから。そしてフェルナンドがそれを決して許さないのだ。
こんなにも虚しいのに、こんなにも絶望の淵に追いやられたというのに、ソルは自死を選ばなかった。それさえも自分の人生の一部であることを、そっとどこかで悟っていたのかもしれない。
俺が選んだのは生き続けることだ。死の間際まで、アレクという美に酔いしれる事こそが俺の人生だ。俺が生きることで、アレクの存在を肯定し続けることができる。・・・壊れてもなお、愛し続ける。形としてなくなっても、指先に肌の感覚が残っているのが分かる。
(なんで置いてきてしまったんだろう。・・・寒いな)
凍える指先を見つめながら、ソルは苦い笑いを浮かべた。
その手の中には、幸運の四葉のクローバーが、季節外れの輝きを放っていた。