かぐくらside U
最初は些細な違和感だった。
HAMAハウスの中は広いとはいえキッチンやリビングで肩がぶつかってしまうなんてことはよくあることだ。俺はなるべく人に触れないよう慎重にしているが、それでも触れてしまうことはある。ぶつかる程度ならその箇所がピリッと、ゾワッとするくらいなのでなんとか耐えられる。というか表面に出ないように出来るようになった。パーソナルスペースが異様に狭く、すぐに触れて来ようとする夏焼さんやアホ竹は警戒していても触れてきてしまうことはあるが、頑張って回避している方だと思う。
違和感を感じたのは夜半さんに対してだった。
数日前、夜中に水を取りに行った際、新作肉まんの開発だかなんだかでキッチンを占領していた夜半さん。余程集中していたのか俺の存在に気がついていなかった。俺もテーブルに並べられる不思議な色合いの肉まんを見ていたため、夜半さんが近くに来ていることに気が付かなかった。
ドンッ
「うわっ、」
「わぁ!しおか!」
思いっきり背中同士がぶつかった。背中は肩や腕なんかより広範囲に渡って触れ合うので、拒絶反応が他の部位よりも大袈裟に出てしまうはず。
それなのに、
「ん?しお、どうしたんじゃ、そんな未確認の物を食してしまった時のような顔をして」
「………?」
触れてしまった後のゾワゾワする感覚が全くなかった。
「夜半さん、」
「なんじゃ、しお」
もしかして。
「俺の、手…、触ってみて、くれませんか」
「そんなことか?よいぞ?」
そう言って夜半さんが俺の手を握る。
なにも感じなかった。いや、何も感じないわけではないが、ただ少し、握られた手が暖かくて。
「し、しお!?どうしたんじゃ!?痛覚に異常を感じたか?!眼球にゴミが付着したというやつか!?それとも急に腹を壊したのか!?」
いつも飄々としている夜半さんのテンパる姿は珍しくて思わず笑ってしまう。
俺の頬には気が付かないうちに涙が伝っていた。
人に触れることが出来た。何年ぶりだろうか。ずっと触れたくて、触れられなくて我慢してきたことが急に実現して、混乱と嬉しさと、人の温かみに涙が止まらなくなってしまった。
「夜半さんって…本当に人間…?ロボットとかじゃない?」
「ん?ボクはロボットでわないな。」
ロボットではないことはこの手の温かさでわかっていた。わかっていたけれど、確認せざるを得なかった。だって、あの日から俺は人間に触れることが出来なくなってしまったから。
夜半さんに握られた手をぎゅっと握り返し、呟く。
「ねぇ、…迷惑じゃなかったら、これから俺の願いごと、聞いてくれない?」
「ボクに出来ることならよいぞ、その代わりにたーくさん美味いスイーツを作ってくれるか?」
「そんなのお安い御用。」
俺と夜半さんの契約が成立した日だった。
side M
最近潮の様子がおかしい。
夜な夜な僕が寝たことを確認すると部屋を抜け出して30分ほどで帰ってくる。それもここ1週間毎日だ。
僕は寝たフリをして様子を伺っているが、部屋を出る前は少しソワソワした様子で、帰ってきた時は満足そうな顔をしている。そんな顔はあの日以来見ていなかったのに。
部屋を抜け出すようになってから2週間。部屋で就寝準備をしていた僕に潮が声を掛けてきた。
「ねぇ、むーちゃん。」
いつになく真剣な顔にドキリとしてしまう。
「どうした、うーちゃん。」
ベッドに腰掛けた潮は右手をグーパーして見つめながら
「隣、座ってくれる?」
と言った。
拳1個分を開けて隣に腰掛けると、潮は手を僕との間に置いた。少し動いたら触れてしまう距離だ。
「あの…さ、むーちゃん。」
潮の視線は僕との間に置かれた手に注がれている。
「手、触ってみて…くれない…?」
バッと顔を上げて潮を見る。期待しているような、不安そうな、色んな感情が籠った表情だった。
「うー、ちゃん?」
「俺ね、もしかしたら大丈夫かもしれない、だから、ねぇ。」
懇願するような目だった。
「わかった。」
潮の手の甲に、僕の中指をそっと触れさせる。
その瞬間。
バチッ
潮が僕の手を弾いて触れた手の甲を守るように摩っていた。
「あっ…あぁ…ごめ…」
「うーちゃん!」
潮はそのまま部屋を勢いよく走って出ていってしまった。最後に見えた表情は涙を溜めて不安と疑問でいっぱいという顔だった。
弾かれた手を見つめる。うーちゃんには何か希望が見えていたのだろうか。こんなことを試そうとしたのは初めてのことだった。
うーちゃんを抱きしめたい。その気持ちは今でもずっと変わらない。手の痛みより胸にチクチクと針が刺さったような痛みが響く。
でも、うーちゃんの方が辛いだろう。何かに縋る思いで僕の手に触れようとしてくれたのに、自分の身体がそうはさせてくれなかった。この痛みは潮の痛み。
この時間だ。寮の外に出ることはしないだろう。1人で苦しんでいる潮を放って置くことはできない。触れられなくても隣にいたい。
僕は潮の姿を探すことにした。
もう日付が変わりそうな時間だ。平日の今日は流石にリビングに人はいなかった。キッチンも、脱衣場も、バルコニーや玄関の前も探したが、姿は見えなかった。潮の体質を知らない人の所に潮が訪れるとも考えられない。…外に出てしまったのか?
もう一度玄関に向かおうとした時、使われていない部屋のドアが少し開いていることに気がついた。その部屋の電気が付いていることにも。
近づくと中から声が聞こえる。
「…お……だ……じゃ……」
「…っ、ひっ……お…れ……」
潮の声だ。潮が泣いている。
わかった瞬間ドアの隙間から中を覗く。潮はそんな姿見られたくないだろうが、傍に居られないことのほうが辛かった。
「…え…?」
隙間から見えた姿に崖から落とされたような衝撃を受けた。
「しお、大丈夫じゃ。大丈夫。」
そこにいたのは潮と、夜半さん。
潮は、夜半さんにすがりついて泣いていた。夜半さんの胸に顔を埋めて、しっかりと服を握っていた。
夜半さんの手は……
潮の頭を撫でていた。
見ていられなくてその光景に背を向ける。壁にもたれかかり、ズルズルとしゃがみ込んだ。
「潮、なんで。」
潮がもし人に触れることができるようになったのなら、1番最初に触れることが出来るのは自分だと信じてやまなかった。それが、
「夜半さん…」
先程はたかれてしまった手の甲を眺める。
どうして潮に触れられるのか、どうして潮が縋りついて泣いているのか、
なぜその相手が僕ではないのか。
潮のしゃくり上げる声を聞きながら唇を噛み締めることしかできなかった。