事後「まさか、こんなことになるとは……」
アドラー・ホフマンは天井を見つめながら、ぼさぼさのウルフヘアーを無造作にかき上げた。目元には微かに疲労が滲み、微妙に焦点の合わない瞳がぼんやりと暗がりを泳いでいる。胸元の緩んだタートルネックは汗ばんで少し伸び、コートに至っては床に投げ捨てられていた。
隣では、ウルリッヒが涼しい顔で横たわっていた。銀色の上着はきっちりと整えられており、白いツナギはシワひとつない。頭部に浮かぶ磁性流体はゆったりと波打ち、柔らかな動きで感情を示していた。穏やかな満足感、あるいは余裕すら感じさせる様子だった。
「ふふ、キミがこんなに可愛らしい顔を見せるなんて、ボクも想定外だったよ。」
ウルリッヒの磁性流体がゆるりと渦を巻きながら形を変え、小さな円を描いたかと思うと、まるで笑っているように波立った。揶揄するような声音に、アドラーは僅かに眉をひそめた。
「……あんた、さっきまでの態度と違うじゃねぇか。」
「キミはね、いつも自分が主導権を握っていると信じて疑わない。けれど、今回はどうやらボクがその自信を崩してしまったようだね。」
ウルリッヒの声音は柔らかいが、確信に満ちていた。磁性流体がするりと滑らかに形を変え、まるで満ち足りた猫の尻尾のように優雅に揺れている。
アドラーは、確かに“主導権”を握るつもりでいた。いつものように皮肉を交えながら、ウルリッヒを翻弄してやろうと思った。「俺の方が経験豊富だろうが」という自負すらあった。だが、気づいた時にはウルリッヒの手の内に落ちていた。
「上手いのがムカつく。」
苦々しげに呟くアドラー。だが、その目はどこか遠く、思考を巡らせていた。理論的に考えれば、ウルリッヒは暗号解読班の元班長。解析と状況把握、戦略的思考に長けた存在だ。義体であることを差し引いても、彼が相手の動きを読み取り、わずかな隙を突いてくるのは当然のことだった。
「……それにしても、まさかボクが“トップ”になるなんてね。」
ウルリッヒがくすりと笑いながら言った。磁性流体は波打ちながらゆるやかに回転し、彼の満足げな気持ちをそのまま映し出していた。アドラーはその様子を横目で見ながら、むっつりと口を閉ざす。
「まぁ、ボクとしてはキミの表情がこんなにも柔らかくなるなら、たまには“ボトム”でも悪くはないかもしれないね。」
「うるせぇよ……。」
アドラーは顔をそむけたが、頬の赤みがわずかに残っているのを隠しきれていなかった。ウルリッヒはそれを見逃さなかった。
「どうしたんだい、アドラー?」
「あんたの顔見てるとイラつくんだよ。」
アドラーはぶっきらぼうに言ったが、声に含まれる棘は以前ほど鋭くなかった。むしろどこか照れ隠しのような響きがあった。ウルリッヒの磁性流体はそれを見抜き、また楽しげに形を変えた。今度は、まるでハートのような形が浮かび上がる。
「……あんた、今わざとだろ?」
アドラーが睨むと、ウルリッヒは肩をすくめた。
「ボクが? そんなつもりはないさ、アドラー。」
その言葉は信用に値しない。アドラーは目を細めたが、何も言い返さなかった。代わりに、ゆっくりと身体を起こし、ベッドの端に座った。乱れた衣服を直しながら、ため息混じりに呟く。
「……俺の方が経験あると思ってたのにな。」
「残念だけど、経験値の問題じゃない。」
ウルリッヒもまた起き上がり、滑らかに立ち上がった。彼の義体は完璧にバランスを保ち、磁性流体は柔らかく揺れながらアドラーの周囲を優雅に舞った。
「ボクはね、キミの“予測”の隙間を突いたまでさ。」
「クソ……頭脳戦でも負けた気分だ。」
アドラーは乱れた髪を引き締めるように、リボンをぎゅっと結び直した。自嘲気味に笑いながら、ウルリッヒに目を向ける。
「で? これからどうする、ウルリッヒ。」
「キミが望むなら、ボクはまた“ボトム”に戻ってもいいけど?」
ウルリッヒは挑発的に微笑み、磁性流体がくるりと回転して花弁のように広がった。
「あんたな……っ!」
アドラーは顔を赤らめながらも、決して否定しなかった。静寂の中に漂うのは、かすかなコーヒーの香りと、互いの体温の余韻。気まずさを誤魔化すように、アドラーは床に散らばった服を拾い上げた。
「……コーヒーでも淹れるか。」
いつものように、不機嫌そうに呟きながらも、その声にはどこか柔らかさが滲んでいた。