輪ゴムラプラス第七資料室。
温度は人肌よりやや低く、湿度管理された空調が壁の奥で静かに唸っている。
棚という棚はすべて、統一されたフォーマットの青灰色のファイルとタグ付きの資料箱でぎっしり埋まっており、通路はぎりぎりひとり分。足音も、ため息も、ここでは吸い込まれていく。
コンクリ床の上で、金属脚の椅子がわずかに軋んだ。
「——はい次、はい次、……ハイ輪ゴム多すぎ。」
アドラー・ホフマンは、デスクの端から崩れるように積まれた書類を手際よくさばいていた。
その手元には、ページを束ねる無数の輪ゴム。薄茶色で細く、乾いてカサついた手触り。束ね終えた書類から輪ゴムを外すたび、彼はそれを無意識のうちに手首へ巻きつけていった。
最初はただの“仮置き”だったのだろう。
だが輪ゴムは次第に重なり、絡まり、キツく食い込んでいく。
五本、六本、いやもう何本目かはわからない。
輪ゴムの束は手首の皮膚を絞めつけ、赤い線を残していた。押されるような圧迫感が静かに、じわじわと染みこんでいく。
それでもアドラーは気にする様子もなく、ひとつひとつのファイルを素早く読み取り、仕分けし、次の山に手を伸ばす。
彼の意識は今、完全に“処理速度”に向けられており、手首に何が起きているかなんて考えてすらいなかった。
そして——、書類の山がひとつ終わる頃には、彼の左手首はまるで傷痕のような跡で赤く縁取られていた。
§
ラプラス第七施設、資料ブロック奥の給湯室。
隣の自販機は時折ガコン、と古びた音を立てながら、誰にも求められていないコーヒーを吐き出している。
アドラー・ホフマンは、ステンレスの電気ケトルに指先をかざしながら、湯が沸くまでのわずかな待ち時間をぼんやり過ごしていた。
その顔には、どこか「昼の休憩くらいは誰にも邪魔されずにいたい」という空気がにじんでいた。
しかしその静寂は、案の定やってくる。
ぬるり、とした声色。呼吸のように柔らかい、しかし油断ならない口調。
「アドラー、ちょっと手を見せたまえ。」
「……は?」
振り返れば、案の定の男がそこにいた。
ウルリッヒ。白いぴっちりとしたツナギに、銀色のショートジャケット。胸元にはIDカードが揺れ、彼特有の浮遊する黒い磁性流体が、頭上でくるくると不穏な速度で回っている。今日は、どうやら“ザワつきモード”らしい。
アドラーは眉を片方だけ上げた。
湯がちょうどいい温度になったので、マグにコーヒーパウダーを放り込みながら、気のない声を返す。
「あんた、またどっかで見ちゃいけないもの見て、勝手に想像してんだろ。」
「言い訳は後だ。」
ウルリッヒは一歩近づき、目を細める。頭上の流体がピタリと止まり、今にも触れてきそうな気配を漂わせた。
「さっきキミが腕まくりしていた時に見えた。……その手首の痕、切ったりしたのか?」
アドラーはしばし沈黙したあと、カップを持ち上げてひと口すする。
静かに湯気が上がり、彼はそこでようやく長いため息を吐いた。
「なあウルリッヒ。お前さ……早とちりがすぎんだよ。」
「ボクは真面目に訊いている。これは軽視できないサインだ。キミ、まさか——ストレスによる自傷的——」
「輪ゴム」
ピシャリと遮るように言い切る。
その言葉には説明の一切を含んでいた。
アドラーはポケットに手を突っ込み、しわくちゃになった輪ゴムの束を取り出して見せつけた。茶色く、少し伸びたそれは、確かに数十本はある。
「書類。あのクソ資料の山に、輪ゴムがこれでもかってくらい付いてきた。」
言いながら彼は一本抜き取り、指に巻いて見せる。
「いちいち捨てんのも面倒だったから、まとめて手首に巻いてた。結果、跡がついた。以上。終了。」
コーヒーの香りとともに、アドラーの言葉は冷たくも淡々と漂う。
ウルリッヒはその説明を聞きながら、しばし無言で輪ゴムの束を見つめていた。
頭上の磁性流体が、どこか申し訳なさそうにぐるぐると渦を巻く。
ウルリッヒはしばらくアドラーの手首を見つめたあと、そっとひとことだけ漏らした。
「……そんなもん体に巻くな。」
「はぁ?」
アドラーはコーヒーを置き、呆れ顔で振り返る。
「じゃあお前、手で持って回ってみろよ。ラプラスの備品管理、今も昔もカッチカチなんだよ。輪ゴムひとつだって『再利用が前提です』って言われんだぜ?」
事実を並べただけのトーンだったが、ウルリッヒの頭上でうごめく磁性流体が、すこしだけ萎れたようなかたちになる。
雲がしょんぼりするような、変な光景だ。たぶん、反省のポーズ。
「……ふーん。ボクは本気で心配したんだがね。」
「本気でそう思って駆け込んできたのか? お前、心配性すぎて老けるぞ」
「ボクの性質上、老けるという現象は発生しない。」
ウルリッヒは淡々と答え、コップを手に取った。
「ただ、キミが死んだらコーヒー要員が減ると思っただけだ。」
「おい」
アドラーは思わず口元をひくつかせる。
「もうちょい人間的な心配の仕方ってもんがあるだろ。たとえば、こう……“大事な仲間を失いたくない”的なさ。」
「では訂正しよう。」
ウルリッヒは一拍置き、磁性流体をふわりと浮かせながら言い放つ。
「キミが死んだらラプラス全体のスケジュールがめちゃくちゃになるから困る。」
「ドライすぎて逆に泣きそうなんだけど。」
アドラーは呆れ顔のまま、輪ゴムの痕が赤く残った手首を指でちょいちょいと隠した。
「ま、そんなら心配すんな。俺はまだ死ぬ予定ないし、輪ゴムで死ぬほど繊細でもない。」
「分かった。」
ウルリッヒは頷くと、磁性流体をゆっくりと巻き戻すように頭上に戻した。
「だが念のため、今後は肘から上に巻け。跡が見えない範囲にすることだ。誤解を生まないためになり」
「……なんだそりゃ、医者かお前は。」
「友人からの心配をそう受け取るのかキミは。」
一瞬、空気が止まる。
アドラーは小さく目を細めた。
「……あんた今、友人って言った?」
「うっかり口が滑っただけだ。忘れてくれ。」
「はいはい、録音したからな。三回聞き直す予定でな。」
磁性流体がバチッと跳ね、静電気のような火花がふたりのあいだに飛んだ。微かに生じた焦げ臭さと共に、ほんの一瞬だけ互いの間に笑みのようなものが走る。
そして——その午後も、ふたりは何事もなかったように、黙って書類を仕分け、黙ってコーヒーを淹れ、誰よりも息の合った“犬猿の仲”を続けていくのだった。