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    FuzzyTheory1625

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    FuzzyTheory1625

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    アドラー四肢欠損どこかで雨が降っていた。そんな気がした。
    でも、この無菌室の天井から滴るのは、ただの蛍光灯の白い光だけ。雨粒も、音も、存在しない。
    耳の裏で鳴る電子音——人工呼吸器の無機質なビープ音が、水音に似ていると錯覚させる。それだけだ。

    部屋を支配するのは、湿った粘つくような呼吸音。
    いや、それはアドラー・ホフマンのものではない。
    彼の肺はもう自力では動かない。首元に突き刺さった管が、機械的に空気を押し込む。
    胸が不自然に上下するたび、ベッドのプラスチックシートがカサカサと擦れる。
    そのリズムは、まるで他人の心臓が脈打つような、よそよそしい音だった。

    「……寒く、ないか?」

    ウルリッヒの声は、ひび割れたガラスのように静かで、鋭い。
    慰めではない確認だが今のアドラーにとってその一言すら鉛のように重い。
    返事などできるはずがない。首は動かない。口も開かない。
    動くのは、涙腺の死んだ瞳だけ。焦点はどこにも合わず、ただ虚ろに揺れる。
    白目がわずかに黄ばみ、血管が浮いた眼球は生きている証拠であると同時に、死に損ねた残骸のようだった。

    「……ああ、馬鹿な質問だったな。」

    ウルリッヒは視線を逸らした。磁性流体の頭部がわずかに形を崩し感情の揺れを隠すように揺らいだ。
    アドラーの身体——いや、身体と呼ぶにはあまりにも無残な塊の上には清潔な毛布がかけられている。
    その下の隆起は、四肢の形を無理やり模した詰め物だ。保温でも衛生でもない。
    ただ、「かつて人型だったもの」を惨めに保つための哀れな偽装。

    事故だった。無慈悲な、運命の悪戯。
    脊髄の損傷から壊死が広がり肉は腐り切り落とすしかなかった。
    指先が溶けるように消え腕が落ち、脚が削がれ、口を閉じる力も、瞬きする力も、ついには声帯すら奪われた。
    皮膚はところどころ青黒く変色し、縫合跡は赤くただれ、消毒液の匂いが鼻を刺す。
    脳以外、何も残らなかった。

    「今日で……目が覚めて、四日目か。」

    アドラーは、微かにまぶたを震わせた。
    それが返事なのかただの筋肉の痙攣なのか判別は不可能だ。
    だがウルリッヒはそのかすかな動きに、まるで会話をするように言葉を返した。

    「よく生きてたな。ボクなら、あの時点で息を止めてる。いや、キミが強いんじゃない。ただ、死に損ねただけだ。…みっともなく、な。」

    言葉の後、ウルリッヒは沈黙した。
    磁性流体の表面が、ぐずぐずと不規則に波打つ。失言だったと気づいたらしい。

    「……違う、そういう意味じゃない。すまない、ボクは……」

    アドラーの口元から、濁った気泡が漏れた。
    唾液が泡になり、顎を伝ってベッドに染みを作る。
    かつては冷笑を浮かべ、どんな権力者の前でも軽口を叩いていた男の顔は今やただの"脳の入れ物"とかしていた。
    皮膚は青白く、唇はひび割れ、歯茎は退縮して歯が剥き出しだ。
    だらしない。あまりにも、だらしない。

    「……もう、いやなんだろうな。生きることより、こんな姿を“見られていること”が。」

    ウルリッヒの声はかすれ粘つくようになっていた。
    義体の発声器が、言葉を押し出すたびに軋む。
    それでも言葉を紡ぐ。沈黙すれば、この部屋の空気が腐りそうだった。

    「ボクが……あの時、『装置の再起動は後でいい』と言ってれば、キミはあの場にいなかった。巻き込まれなかった。わかってる。言い訳はいくらでもできる。だが、だが——」

    言葉が途切れた。
    ウルリッヒの拳が震え、義体の関節がキリキリと音を立てた。
    磁性流体は、まるで泣くのを堪えるように、ぐちゃぐちゃと形を崩した。

    「ボクは意識覚醒者だ。だからいくらでも無茶はできる。しかし、人間は違う。きっと他の人なら誰かを呪ってる。恨みで目を血走らせてる。でも、なんでだ。なんでキミはそんな顔をする? 許すような、情けない目をするな。頼むから……やめてくれ。」

    アドラーの瞳は、ただ虚ろに揺れていた。
    怒りも、恨みも、諦めもない。
    ただ、泣きたくても泣けない、惨めな人間の残骸がそこにあった。
    皮膚の裂け目から滲む膿のような液体が、シーツに小さな染みを広げる。

    ──ああ、なんてみっともないんだ。
    こんな姿誰にも見られたくなかった。
    せめて、ひとりで死にたかった。誰にもすがらず、誰にもこの醜態を晒さず。
    でも死ねない。生かされている。脳が、動いているせいで。

    「助けてくれ」

    そう叫びたかった。一言、それだけ。
    だが、その一言は永遠に喉の奥で腐っていく。

    「アドラー……すまない。本当に、すまない。何もできないくせに、こうやって来るんだ。罪滅ぼし? ふざけるな。こんなことで、誰も救われやしない。」

    部屋に、消毒液と腐臭が混ざった空気が満ちる。
    雨は降っていない。だが、アドラーの胸の奥では、ずっと雨が降っていた。
    冷たく濁った水が止むことなくただ降り続けていた。
    その水は、彼の心を溺れさせ、腐らせ、溶かしていく。
    そして、誰もそれを拭うことはできない。
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