ケツで暖を取るアドラー吹雪は絶え間なく、天から刃を落とすように降り注いでいた。
ここは北緯73度、南方からの暖流も届かない、人間の生存を拒む地。
通信が切れたのはヘリの高度がわずか300メートルに差し掛かったときだった。ウルリッヒが「奇妙だな」と口にする間もなく、機体はスピンし、二人を乗せて氷原へと落下した。
アドラー・ホフマンはそれを「運が悪い」とは思わなかった。
むしろ、「いつも通りだ」と思った。アドラーの人生は、だいたいそういう調子だった。
「……クソが……」
アドラーは低く吐き捨て、肩を震わせた。震えは怒りではない。寒さだった。
手袋の中の指先は既に感覚を失っていた。息を吐くと、それは白い煙となって空に散った。だがその白さすら、雪の中では透明だった。
視界の端に、何事もなかったように立っているウルリッヒがいた。
白のスーツ。銀の上着。
そしてその頭部に浮かぶ、黒く揺らぐ磁性流体——ウルリッヒの本体。
「アドラー、体温が下がっているようだな。震えが増している。」
「……見て分かるなら、なんかしろよ、機械め。」
「忠告しよう。キミはこのまま数時間放置されれば、まず凍傷、次いで低体温症で意識を失う。さらに進行すれば心拍は徐々に弱まり、死に至る。……当然、ボクは何の影響も受けないが。」
「皮肉か? それともそっちが本音か……?」
「科学的事実に皮肉は不要だ、アドラー。問題は対処法だ。」
ウルリッヒは落ち着いていた。
あまりに冷静で、逆にその存在が現実感を薄れさせるほどだった。
「……あんた、体温ってどれくらいだっけ。」
「36.2度に設定されている。外部ヒートパネルと接触すれば、ある程度の熱供給は可能だ。」
「ヒートパネル……?」
「義体の腰部と大腿部にヒートユニットが内蔵されている。外気温が−30℃以下になると自動起動するが、マニュアル制御も可能だ」
アドラーはその言葉に、頭のどこかが点灯するのを感じた。
記憶の奥——何かの資料。何かの論文。サバイバル医学。
「肛門からの温熱導入は、体幹の深部体温回復に最も効果が高い。」
最初にそれを読んだときは笑い飛ばした。
だが、今——それは真剣な選択肢になりうる。
「……ウルリッヒ、聞きたいんだが。」
「なんだ?」
「そのパネルって、外部接続用の拡張機能とかあるのか? たとえば……その、棒状のヒーターとか、突起型の……」
「……あるぞ。極地作業用に設計されたアタッチメントが存在する。人体への熱伝導効率を最大化するため、円柱状・柔軟構造・自己消毒機能付きだ。」
「……何だその完璧なスペックは。誰が尻に入れる前提で設計したんだよ……」
「ジョンだったはずだ。」
「どのジョンだよ。」
アドラーは凍えながらも、思考を止めなかった。
寒さが全身を鈍くしていく中で、アドラーの中に残された選択肢はただ一つだった。
「なあ、ウルリッヒ……」
「なんだ?」
「その、パーツ……出せ。俺の尻に……入れる。」
§
沈黙の雪洞に、小さな機械音が響いた。
それは義体の腰部から伸びたアームが、ゆっくりと外部モジュールを展開する音だった。
「……消毒完了。温度上昇を開始する。」
ウルリッヒの声は相変わらず、事務的で冷たい。
だがアドラーには、その機械音のほうがよほど生々しく聞こえた。
ヒートアタッチメントは、想像よりもずっと繊細だった。
無骨な金属ではなく、白く半透明な素材。生体との親和性を重視した柔軟なシリコン樹脂。直径は4.2センチ、長さ15センチほど。先端は丸みを帯び、脈動するように微かな熱を帯びていた。
「本気で……これを、俺の尻に……?」
「肛門直腸内温熱導入は、深部体温を効率的に回復させる唯一の手段だ。加えて、キミのように全身が冷え切っている場合、外部からの加温では逆効果となる。中心から温めなければ、血流の分布が逆転し——ショックを起こす。」
「つまりこれは、尻を差し出すというより、命を差し出すってことか。」
「そういう詩的表現は不要だ、アドラー。これはただの医療処置だ。」
「……わかってるよ。」
アドラーは、重い体を引きずるように横になった。
雪洞の床に敷かれたサバイバルシートは、熱伝導効率を高めるために銀色に光っている。その上にアドラーの体はあまりに生身だった。コートの下の肌着は凍りつき、身体に張りついていた。
「……服、脱がなきゃダメか。」
「下半身だけでいい。臀部が露出すれば問題ない。」
「お前に言われると変な気分だな……ったく、最悪だ。」
アドラーは震える手で、ベルトを外す。
極寒の中で金具はまるで氷の刃だった。かちゃり、と音がして、アドラーの腰回りが緩んだ。次いで、下着を押し下げた。
空気が肌を刺した。
吹雪の中に素肌をさらすという選択。それだけで、死の匂いが皮膚を這った。
だが、その一瞬後。
義体の指が、静かにアドラーの腰を支える。
「……体勢を変えろ。仰向けでは挿入が難しい。側臥位が望ましいが、空間が狭い。……前傾姿勢をとりたまえ。」
「……つまり、四つん這いになれってことだろ。」
「正確には、膝立ち前屈姿勢。だが、似たようなものだ。」
アドラーは薄く笑った。
「これがラプラスの最高責任者代理のポーズだとは、誰も思うまいな……」
アドラーは膝をつき、雪洞の中で四つん這いになった。
羞恥は、凍死の恐怖よりも確かに存在していた。
けれど、命より大切なプライドは存在しない。
「挿入を開始する。無理に力を入れるな。……キミが緊張すれば、むしろ危険だ。」
「緊張するなって、無理言うなよ……ケツに……ああ、くそ……くそ……!」
ウルリッヒの指が、慎重にアドラーの臀部を開いた。
義体の指先は人間よりも温かく、そして不気味なほど正確だった。
体液ではなく、専用の滑膜ジェルが表面を覆う。
「体温プローブ、36.2度。粘膜接触を確認。挿入角度、6.5度……問題なし。」
「なぁウルリッヒ……」
「なんだ?」
「この状況を見て、少しでも……その……エロいとか思ってないよな……?」
「ボクは磁性流体だぞ。」
「そうだったな……ッ」
その瞬間、わずかに、尻の奥が熱を持った何かに押される。
挿入が始まった。
初めの感覚は、ごく微かな圧力だった。
ウルリッヒの義体の指先が、臀部の肉をそっと押し広げる。露出した粘膜は冷気にさらされ、感覚が鋭敏になっていた。そこへ——
「……っ……」
柔らかく、それでいて確実に形を保った先端が、触れた。
アドラーの全身に電流が走る。
羞恥とは違う。痛みとも違う。
これは「生」に触れる感覚だった。生理的に拒否しようとする肉体と、「生きるために必要だ」と理性で叫ぶ思考が、アドラーの中でせめぎ合っていた。
「挿入開始。1センチ……2……キミの直腸内温度、32.8度。極端に低い。急速加温は避ける。」
「……いちいち実況するなって……!」
「必要な記録だ。」
義体の動きは繊細だった。
ヒートアタッチメントはただ無遠慮に突き進むのではなく、あくまで体温を読み取り、抵抗を確認しながら、まるで生き物のようにゆっくりと進んでいく。
「……うっ……ふ、ぁ……くっ……」
くぐもった声が漏れた。
熱が、奥へ、奥へと注がれてくる。
体の中心に、小さな灯火が灯されたような感覚だった。凍えた内臓の奥に、柔らかく、ほのかに脈動する命の感触が広がっていく。
「8センチ……10センチ……挿入完了。保持モードへ移行。」
「な、なあ、ウルリッヒ……これ、抜かずにずっと……?」
「そうだ。最低30分は保持が必要だ。急速に抜けば血管が収縮し、かえって危険だ。順化しながら、徐々に深部温度を上げる。」
「くっそ……わかったよ……ったく、ケツに……パーツ刺したまま、助かるとか……どんなラブコメだよ……っ!」
ウルリッヒは応えない。ただ静かにアドラーの背を支え続けていた。
体内の奥に、36.2度の熱源がある。
その事実が、どこか現実感を削りながらも、アドラーの命を支えていた。
§
——不思議だった。
羞恥にまみれ、笑い飛ばしたくなるような状況のはずなのに、
今、アドラーの胸の奥には、確かにひとつの思いがあった。
「……生きてる……って……感じがするな……」
かすれた声でそう呟くと、義体の中の磁性流体が微かに反応した。
「キミの直腸内温度、29.6度。ゆっくりだが回復している。脈拍、安定。呼吸、正常。」
「ありがとよ、ウルリッヒ。……お前が……機械で、よかったよ……」
「機械かどうかは問題ではない。ボクは——キミの同僚だ。」
その言葉に、アドラーは小さく笑った。
雪の中、恥も、プライドも、冷気も、熱も、
すべてを溶かして、ただ一つの熱源が二人の間に灯っていた。
「……アドラー、体内温度は33.1度で停滞している。さらなる伝熱効率の向上が必要だ」
「……おい、何する気だ。今ので充分……」
「これより“繊毛展開モード”へ移行する。疼痛が生じる可能性がある。了承を。」
「……は!?い、今なんて——」
言い終える前に、それは起こった。
——しゅる、と音を立てることもなく、義体内部でわずかな膨張感が広がる。
外郭から極めて微細な繊毛構造が展開された。
それは、腸壁への接触面積を十数倍に引き上げる極限設計。
静電誘導と粘膜伝導熱を最大限に活用する、軍用・災害用の非侵襲的供温技術であった。
「っ……あ……!?」
アドラーの体が小さく跳ねた。
強い刺激ではない。だが、腸壁に広がるその柔らかい“感触”は、熱よりもまず“存在”を訴えてきた。
「な、なんだこれ……動いてる……!?いや、動いてないけど……広がってる……っくそ、これ……」
「繊毛はパッシブ構造だ。動いてはいない。だが、微細な触感は発生する。むしろ、それが必要だ。末端血流を促進し、局所的な代謝を高める。」
「お前は医学辞典かッ……!!」
体内の接触面積は、かつてないほどに拡張されていた。
繊毛の一本一本が、腸壁の微細な凹凸に寄り添い、体温を“溶かし込む”ように伝えてくる。
それは「差し込まれる」でも「押し込まれる」でもない。
ただ、体の内側に、静かに春が訪れるような……そんな錯覚すら呼び起こした。
「体温、34.2度。筋肉の反応、良好。末端震え、消失。回復フェーズに移行。」
「く……っ、もう……!もういいだろ!抜けって!この……繊毛、気持ち悪い……っ!!」
「この段階での抜去は血管収縮を引き起こす危険がある。あと5分間、繊毛を保持する。」
「ぅぅうぅぅ……」
言葉を失い、うずくまるアドラー。
その内側では、回復と羞恥と絶望が、まるで三層式チョコレートのように溶け合っていた。
——命が、確かに温められている。
だが同時に、人格の尊厳も何かが溶け出していくような、そんな感覚だった。
§
「はぁ……はぁ……」
アドラーの肩が上下するたび、吐く息が白く空気に溶けた。
体の芯から、確かに温もりが戻ってくるのが分かる。
直腸に埋め込まれた義体のヒートパーツは、静かにその役目を果たしていた。
すでに内部温度は36.9度。低体温症からの生還圏内に、ようやく足を踏み入れたところだった。
「……なあ、ウルリッヒ。」
「なんだ、アドラー。」
「抜くのは……もう少し待ってくれ……まだ……冷えが残ってる……」
「了解した。体温の均衡が取れるまで保持を継続する。」
「……ああ。悪いな……」
体勢は変えられない。
尻にパーツを刺したまま、膝立ち前屈で、薄いブランケットを羽織っているだけ。
もはや羞恥心は死んだ……はずだった。
その時だった。
——「責任者代理!応答願います!こちら救助班!」
「……えっ?」
「キミの個人ビーコンが、低体温トリガーで作動したのだ。ボクが救援は入れておいた。」
「……は?お前、言えよ!?今言えよ!!」
——雪洞の外から、風を割って人影が近づいてくる。
複数人。ライトの明かり。ブーツの踏みしめる音。ラプラスの徽章。
「こちらプレセツク支部・救助分隊!責任者代理アドラー・ホフマン、応答せよ!」
ウルリッヒは無言で立ち上がった。
義体のケーブルで雪洞の入りの雪を退けたその瞬間——
「……っはぁ!?!?!?!?」
中腰のまま、ブランケットを腰に引っ掛けた姿で、
義体のパーツを尻に挿入されたまま、ふぅふぅと息を吐いているアドラーと、
その前に控え、冷静に体温記録を読み上げるウルリッヒの姿。
救助隊の先頭にいた隊長は、目を丸くして絶句した。
「……ミスター・アドラー……これは、どういう状況……」
「ちっ、ちが……違うんだこれは!!そういうんじゃ、ない!!おい!!ウルリッヒ!!!説明しろ!!お前の義体のせいだろ!!!」
「彼の直腸内温度は現在37度。回復は順調だ。適切な医療措置の一環だと判断した、それに彼自身が行為を要求したんだ。」
「だからその言い方がダメなんだって言ってんだよ!!!」
後ろから顔を覗かせた救助員が、無言でカメラのシャッターを切った。
「記録用です」とだけ呟いて、ウルリッヒの義体にログ転送される。
「削除しろ!今すぐだ!クソッ……ちくしょう……!!」
ブランケットを引き寄せようとして腰を動かした瞬間、パーツが微妙にずれた。
「ふぁっ……っあ……っ!!」
その声に、一瞬の静寂が訪れた。
「……なんか今、喘ぎました?」
「殺すぞお前らぁあああああああ!!!」
——極寒地に、アドラーの怒号と、凍りついた全員の気まずい空気が流れた。
生き延びたはずの命に、再び絶望が降りかかる——。