食堂にて昼休憩を告げるチャイムが、ラプラス中央棟に鳴り響く。音の最後が消えきる前に、職員たちはそれぞれのペースで席を立ち、食堂へ向かう。
かちかちと響く足音、ドアの開閉音、誰かのあくび。そのすべてが秩序の中の微細な乱れのようで、どこか窮屈だ。
アドラー・ホフマンは、それらに一切加わらない。
データ片手に食堂に向かうその姿は、今日もどこか不満げで、そして不貞腐れていた。
白いタートルネックの襟元はへろへろに伸び、黒のロングコートの裾は椅子に引きずられた跡がついている。
ぼさぼさのウルフヘアーをひとまとめにしたリボンも、ほどけかけていた。
それでも誰も注意しない。だって彼は“最高責任者代理”。気分次第で昇格も左遷も決まる、厄介な天才。
「……クソ、なんでこっちが言いに行かなくちゃなんねぇんだよ……」
ぼそぼそと吐き捨てながら、食堂の自動扉をくぐる。
そこに、既に座っていたのがウルリッヒだった。
無音のように滑る白い義体。ぴったりと張りつくスーツに、短すぎる銀色の上着。胸元にはIDカード。
そして——その頭部に浮かぶ磁性流体が、ふわりと揺れていた。
形は今、ゆるやかなラッパのようになっている。おそらく「呼吸」のような意識的なリズム。感情は落ち着いている証だ。
「おや、キミも昼かい?」
「当たり前だろ。あんたのとこ、指示なしで動く奴いねぇんだからよ。」
「うん、それはボクの影響じゃなくて、職場の文化だと思うが?」
「はぁ……」
アドラーは深いため息を吐き、無言で圧縮ポンプの前に立った。
背面のインターフェースに職員カードをかざすと、「カチン」と音を立てて機械が起動する。
数秒後、金属的な″シュウウッ″という音とともに、銀色のプレートに、栄養を圧縮した粘性の食塊が盛られた。
今日はパスタ風らしい。形はしていない。
「マジでさ、ここのメニュー、ほんとに人間向けか?」
「基準値は満たしてるって聞いてるけどね。苦情ならミルトン部長に伝えておくよ。」
ウルリッヒはそう言いながら、義体の太ももにあるチャージポットを開き、細いケーブルを差し込んだ。
淡く黄色の光が点灯する。食事の代わりに今日も充電というルーチンをこなす。
「あんたは食べないのか?」
「ボクの義体は栄養は要らないからね。代謝もないしね。コーヒーだけで充分だよ。」
そう言って、ウルリッヒは銀製の細い管にコーヒーを注いでいた。
チャージポットと接続されることで、香りだけがかすかに空気に混ざる。
アドラーは、ぶっきらぼうにスプーンを手にしながら、向かいの席にドスンと腰を下ろした。
「……で?」
「うん?」
「ジェフの報告、また誤字だらけだったって?」
「うん。7箇所。最初は気づかなかったけどね、エンコードが壊れてた。」
「……俺が見逃したってことだろ。文句言いに来たのかよ、あんた」
「いや? キミは見逃す人じゃない。だから疲れてるのかと思ったまでだ。」
その言葉が、妙に腹にささった。
アドラーは一瞬だけウルリッヒを見て、それから視線を逸らした。
言い返さない。なぜなら“図星”だったから。
無言で、つま先を伸ばす。
そして、つん。
ウルリッヒの脛に、ブーツの先が当たる。軽く。
ウルリッヒは反応しない。磁性流体がほんの少し揺れただけで、言葉も視線も変わらない。
つん、つん。
二度目、三度目。
アドラーの顔は正面に向いたままだが、目だけが斜め下に向いている。どこか、気まずい子供のような目。
「……なんかさ、昨日、Xに“顔が死んでる”って言われたんだよ。俺」
「ふーん」
「なんだよその反応!」
「キミの顔が生きてたら怖いじゃないか。」
「てめぇ……」
言いながらも、つま先が止まらない。
ウルリッヒの脛を——ただ静かに、つん、つん、つん。
「で、報告まとめたのか?ウルリッヒ」
「ん。あと数分で上がる。そしたらボクが回しておくから」
「……ったく。便利だよな、あんた。」
「褒め言葉と受け取っておくよ。」
アドラーの手元のプレートでは、機械食が半分も減っていない。
スプーンを動かす指に、まったく力がこもっていない。食べているというより、ただ“触って”いるだけだ。
ウルリッヒは、チャージ残量を確認し、磁性流体の端を軽く震わせた。
そのときもなお——アドラーの足先は、地味にウルリッヒの脛をつついていた。
理由なんてウルリッヒは知らない。
でもきっと、どうでもいいんだ。知っていても知らなくても、ウルリッヒは同じように返す。
だからこそアドラーは、つん、つん、と続けるしかなかった。
理屈じゃない、しょうもない、どうしようもない不満のはけ口として。
そしてそれは、いつもの昼食の静かなノイズとして今日もまた、誰にも気づかれずに消えていくのだった。