透明な朝 日向がブラジルに戻って二年が経ったある冬の日、めずらしく大阪で雪が降った日のことだった。練習終わりのロッカールームで誰かが言ったのだ。「日向が怪我したらしい」と。
「……え?」
「負傷退場したって、ネットニュースに出てる」
周囲の騒めきが一瞬遠のいた。思考が止まり目の前が灰色に染まる。「おい、侑。大丈夫か?」肩に手を置かれ、侑はハッと我にかえった。
チームメイトに上の空で返事をすると、慌ててロッカーからスマホを取り出す。いつもなら思うがままに制御できるはずの指先が、画面上をでたらめにすべった。
記事はすぐに見つかった。第二セットの終盤、スパイクの着地の際に相手コートのブロッカーの足を踏み、右足首を捻ったらしかった。そのまま途中退場し、現在検査中のため負傷の程度は不明。試合後の監督の説明によれば、長期離脱するほどの大きな怪我ではないとある。記事にはさらに、選手やスタッフに両側から抱きかかえられた日向の写真も掲載されていた。眉間に皺を寄せた険しい表情が、壮絶な痛みを物語っているようで。大事ではないことにひとまず安堵したが、侑は小さなその写真からしばらく目が離せなかった。
翌日には、日向の所属チームから全治三週間の足関節捻挫であることが正式に発表された。今後は一時離脱して、治療とリハビリに専念するという。
「日向に連絡したらすぐ返事きたよ。大丈夫だってさ。要リハビリだけど、一人で歩けるって」
昨日と同じロッカールームで、犬鳴が言った。良かった、とあちこちから声が漏れる。そんな中で、侑はただ一人じっと黙っていた。自分でもわけがわからないが、昨日の衝撃をいまだに引きずったままでいた。胸のざわつきは一向におさまらず、大丈夫だと聞いてもなお気がかりだった。
その日の夜、夕食のあと早々に自室に引き上げた侑は、ベッドに横になりながらスマホのチャットアプリを眺めていた。開いているのは日向とのトーク画面だ。日向が移籍してからの二年で連絡を取り合った回数は、片手で数えられるほどだった。最後にメッセージをやり取りしたのは半年前で、日向が代表合宿で帰国する直前のものだ。
――侑さんってピーナッツ食べられましたっけ?
――食べられるよ。ちゅーか好き。
――よかった!今度のお土産に買って行こうと思って。こんなやつです。[画像]
――おお、ブラジルっぽい。
――甘いけど結構クセになる味です。ちなみに治さんもピーナッツ大丈夫ですか?
――おん、てかあいつはなんでも喜んで食いよるよ。
――ですね(笑)そしたら治さんの分も買って行きます。
――ありがとうな〜。帰り、気をつけて。
――ハイ!またトレセンで。
たわいもないやり取りをぼんやりと見つめる。画面の向こうから、日向の朗らかな声が聞こえるようだった。あのピーナッツのお菓子めちゃくちゃ甘かったよな。思い出すうちに、自然と頬がゆるむ。
サンパウロは朝の九時だ。二年の月日が経ち、すっかり時差の変換が脳内でできるようになっていた。九時ならすでに起きているだろうか。声が聞きたい。通話がダメなら文章でもいい。どんな方法でもいいから日向と話がしたかった。
何度か文章を打ち込んで、削除をくり返す。いまごろ日向のスマホには、安否を気遣うメッセージが溢れかえるほど届いているはずだ。律儀な日向は、その一つひとつに返事を出すのだろう。そう思うと、送信ボタンがどうしても押せない。
ほんまは通話したいけど、さすがにそれはあかんよな。状況ならワンさんが聞いてくれたし、いまはとにかく安静にした方がいいわけで。でもラインなら別にいまやなくてもいつでも送れるよな……そんならもうちょい落ち着いてからの方が、うん……いやでも、なんも送らへんのもかえって冷たないか? チームメイトやったわけやし………………あぁもう!
途中まで打ち込んでいた文章をすべて削除して、スマホを片手に寝返りをうつ。これではまるで好きな子相手にメッセージを送るかどうかを延々と悩む高校生のようだ。自分がこんな状態に陥るなんて、まったく想像すらしていなかった。らしくない。
悩ましげなため息が溢れた。内容云々ではなく送るかどうかを迷うくらいなら、送らない方がいいのだろう。いったん冷静になるべき。今日はもうこのまま寝てしまおう。そう結論づけて、モヤモヤしたまま寝る体勢に入る。スマホを手から離せないのは、未練であり最後の悪あがきだった。
あまり眠れていなかったこともあり、そもそも疲れていたのだろう。その夜は羊を数えるまでもなく、あっという間に眠りに落ちていった。
ブブッ、という振動に意識が浮上した。重たい瞼を持ち上げると、カーテンのわずかな隙間から光が差し込んでいた。
「いま、何時や……」
いつもの習慣で、寝ぼけたまま手探りでスマホを探す。思ったよりも顔のすぐそばで硬い端末に手が触れた。掴んで画面を覗き込むと、時刻は朝の六時をまわったところだった。今日は一日休日だが、結局いつもどおりの時間に目が覚めたらしい。
ふと、ピントの合いはじめた目が、時刻の下に表示されているチャットアプリの通知を捉えた。一分前と表示されていることから、起き抜けに感じた振動は新着メッセージを知らせる通知だったのだろう。けれど、そこですぐに疑問が浮かぶ。
……こんな朝早くにライン?
ロック画面に内容が出ないように設定しているため、アプリを立ち上げなければメッセージの差出人はわからない。なんとなく気になり、起き上がって胡坐をかくと、チャットアプリを立ち上げる。
ずらっと並ぶトーク画面の最上部に「日向翔陽」の名前を見つけて、侑は思わずスマホを落としそうになった。いや、まさか。二度見、三度見するが、見間違いではない。名前の下には「日向翔陽が写真を送信しました」とある。
な、なんで、翔陽くん? 俺、昨日送らんかったよな? え、送らんかったよな!?
答えの出ない自問自答をしながら、日向の名前をタップする。え、と侑は目を瞠って固まった。日向から送られてきていたのは、部屋の窓から撮ったらしい夕焼け空の写真だった。青から白、薄いオレンジ、赤、灰色へと滑らかに変わっていくグラデーションが、この世にある美しい色のすべてを閉じ込めたみたいで、にじんだ水彩画のようだ。
しばらく見つめていたが、ふと画像の上にメッセージが連なっていることに気がついた。そういえば日向からの新着メッセージは四通と表示されていた。指でスワイプして、画面を上部に走らせる。次の瞬間、侑は今度こそスマホを滑り落とした。
すんでのところで堪えたが、思わず絶叫しそうになった。どうか見間違いでありますようにと祈りをこめてスマホを拾い上げ、再度確認する。無念にも、身に覚えはあるが、送った覚えのない画像がばっちりと表示されていた。
おそらく寝落ちる直前に、誤タップで送ってしまったのだろう。その画像がよりにもよってまた最悪だった。
稲荷崎の忘年会での余興の一コマ、ゲームに負けた侑が鏡餅の被り物を頭に身につけている写真で、数日前に角名から送られてきたものだ。写真の中の侑はご丁寧に顔まで白塗りにされたあげく、頬紅を塗られ、片手に蜜柑を持たされ笑っている。最悪にもほどがある。怪我をした直後の相手に、こんなふざけた写真をひと言もなく送るやつがいるか。こんなことなら、迷わずちゃんとしたメッセージを送っておけばよかった。
どうにか昨日の寝落ちる直前に時間を巻き戻せないだろうか、と意気消沈しつつ、白塗り画像の下につづく日向のメッセージをおそるおそる読む。メッセージは数分おきに三通つづいていた。
――6:00 侑さん、お久しぶりです!お元気そうでよかった。これは稲荷崎の皆さんとの写真ですか?鏡餅?(笑)いいな〜!楽しそう!
――6:04 もう知ってると思うんですが、試合で足首をちょっと捻挫しちゃいまして。でも軽傷で、うまくいけば一ヶ月ぐらいで復帰できそうです。このさい右足を踏み込みすぎる癖をなおさないとなって思ってます。心配しないでくださいね。
――6:06 今日のサンパウロの夕日です。侑さんのおかげかな。いつもよりきれいに見えます。
読んでいくにつれ、画面がやけに眩しくにじんで見えた。日向の言葉に心の底からほっとしている自分がいた。「侑さんのおかげかな。いつもよりきれいに見えます」の一文を何度もくり返しなぞる。そうすると日向の声が聞こえる気がした。いったいどんな表情をして、どんな気持ちでこの文章を打ったのだろう。知りたいような、怖いような、不思議な気分だ。
突然、部屋の寒さを感じて身震いをする。鼻をすすって部屋の暖房を入れ、一連のやりとりをスクショに撮ると、つづけて夕日の写真を保存した。スマホで撮った時点で多少なりとも加工がされるため、これは実際の夕日の色ではない。けれど、この夕日は間違いなく日向が切り取った瞬間なのだと思うと、途端にたまらない気持ちになった。
いつの間にか昨日までの胸のざわつきは消えていた。かわりに息が詰まりそうな苦しさがあった。いままでに感じたことのないこの気持ちを、なんと表現したらいいのかわからない。ただ、日向の目に映るものが、この夕日のようにきれいなものだけならいいのに、と思った。
侑は立ち上がるとカーテンと窓を開ける。冷え込みはいっそう厳しいが、昨日までの曇天とは違って、今朝は眩しいほどの太陽が顔を出していた。雲ひとつない空は、どこまでもつづいていそうな天井知らずの青。泣きたくなるくらいにきれいで、透明な朝だ。
侑はスマホのカメラを窓の外、上空へ向けると写真を一枚撮った。シャッター音に呼応するように、侑の中で何かが動き出した音がした。
fin