願いと言葉は夜にとけて「それで、レノックスが」
言い終えて、フィガロからの返答が暫くないことに気づく。窓から厄災の月が覗き、持参したキャンドルがゆらめく。夜更けに僕らは、フィガロの部屋で久々の杯を交わしていた。
つい先日、嵐の谷で起きた事件の解決のために、僕は魔法舎を留守にしていた。猫になったり、昔世話になった魔法使いの遺したものに立ち会った。今日の酒の席は、その報告も兼ねていた。
話をフィガロに、師に聞いて欲しかった。彼に教えを乞う前の僕なら、きっと変化した際の誘惑や衝動に贖えなかったし、
ミチルやルチルのようにごろごろと草むらに寝転び、誰彼かまわずごつん、をしていただろう。取り乱して慌てふためくばかりだったと、簡単に想像ができる。
魔法にかかってしまったのは不覚だったし、咎められる点ではある。けれど、その後は概ね冷静な対処ができたように感じた。
認められたかったのかもしれない。よくやったねと、あたたかい言葉や、やり取りを求めていた。猫の魔法使いとは頻繁に会うような、親しい間柄ではなかったけれど、家に散らばったマナ石はただ冷たく、そこにあって。
その光景は寂しいものだった。もう彼がどこにも居ないことを思い知らされるような気がして。人も魔法使いも、命あるものの死に、今だに慣れることはなかった。
頭を過ぎったのは、フィガロのことだった。寿命や弱まる魔力、僕にだけ伝えた彼の真意と、望み。
今でも分からないことだらけなのだ。
話は冒頭に戻る。
「フィガロ様?」
昔のように声をかけ、問えばぼんやりと床を見つめていたフィガロは、びくんと弾かれたようにこちらを見た。その複雑な表情には、なぜか見覚えがあった。
「ごめんごめん、ちょっと酔ってしまったかな」
少し困ったように眉を下げ、居た堪れないような、どうしたものかと思案するような。こんな姿を、400年前は見ることはできなかった。
海のように雄大で、気高く揺るがない北の魔法使い。問うたことに答えてくれる、深い叡智。
風のように自由で、いつもどこかに行ってしまいそうで。
ここで逃したら、また彼を見失う。
そんな気がして、僕から仕掛けた。
「フィガロ様・・フィガロ。僕の目を見て。
どうか気持ちを隠さないで、お話し下さい」
彼の瞳が大きく見開かれる。翠の星がまたたいて、とても驚いていることが伝わってくる。
「すごくみっともない、どうしようもない
ものだからあんまり、その」
「僕は知りたい。聞きたいよ」
しばらくうー、あー、と逡巡していた彼が、
ぽつりと呟いた。
「・・・一緒に」
「一緒に?」
「行きたかった、嵐の谷に」
「どうして?」
「俺はあまり猫に好かれる気質じゃないから役立てないし、君は魔法にかかった姿をみられたくなかっただろうし。嵐の谷の精霊にだって、まあ好かれている方ではないから」
そんな事はないのに、と思う。時々フィガロを伴って嵐の谷に行く事が増えた。最初は風や雨が乱れて、僕の家を揺らしたものだったけれど、次第に収まっていった。
警戒していた白猫と黒猫も、今はフィガロに頭を擦り寄せ、尾を巻き付けることが日常だ。無闇に力を振りかざしたり、暴力的ではない、
見えにくい優しさや温厚さ、僕にするように嵐の谷を、東の精霊達を尊重してくれることが、自分以外にもちゃんと伝わっているようで嬉しかった。
「ごめん、前置きが長くて。・・・君の傍にいたかったんだよ。レノやシノが羨ましいなって思っちゃった。飛び入りのミスラやブラッドリーさえ。事件は無事に解決して、なにも問題はないのに。おかしいよね」
君の頭、撫でたかったな。力になりたかった。そう言って、肩を落としたフィガロは薄く微笑む。
それを見て、僕は引っかかっていた記憶を思い出す。ああ、嵐の谷に時折迷い込む動物達に似ているのだ。怪我や飢えに苦しむ彼らを、助力することがたまにある。
その子達が去るか、亡骸になるまで。僕は彼らの不安やかなしみが入り交じった・・・ここにいてもいいの、と尋ねるようなよるべなさを、ついぞ拭うことはできなかった。
フィガロの心の内を、戸惑いや淋しさを僕が全て知ることも、理解できることもないのかもしれない。だからこそ、僕は手を伸ばしたい。
「あなた、近々予定がない日はあるのか」
「相談かい?ここ数日は依頼が入っているけど、
それ以降なら調整できるよ」
「嵐の谷に行こうと思っている」
「そう、必要なものがあったら言ってくれれば・・」
「あなたも来るんだ。・・来て下さいフィガロ様」
フィガロの身体が再度びくん、と震える。さながら初めて出会った猫のように。
「ええと、急ぎの修行か用事かい?俺も行っていいの」
「修行・・・そうだな、今回かかった魔法を再現するから考察と今後の対策、応用を教授願いたい。触診してもいいぞ。あと、もうすぐ谷は実りの時期だ。お前の好きな栗もある、手伝ってもらうからな」
「ファウスト、それって」
「加えて。今回の依頼は子供達がいて、なおかつ飛び入り参加の北のお守りで僕は随分疲れている。労いが欲しい。・・褒めて下さいフィガロ様」
最後には僕の個人的なお願いが入ってしまった。
我儘ではないだろうかと様子をうかがえば、顔や耳を朱に染めて、花のように柔らかく笑う彼がいた。
時間を共にすることが増えて、よく見るようになったと思う。ボルタ島の浜辺で、混乱する西の国で互いの気持ちを打ち明け、月明かりの下で言葉を交わした時に。
北のフィガロ様でもない、南のフィガロ先生でもない、それらを取り払ったような彼の。
「お誘いありがとう、ファウスト」
機会をくれて、と消え入りそうな声が聞こえた。テーブルに置いた手に、フィガロの指が遠慮がちに絡まる。少しひんやりとしたそれは温かった。
生きている、この人は確かに今僕の目の前にいて、息をしている。
離すものか。色づく嵐の谷を思いながら、僕は重ねた手を包むように握りかえした。