夏の幻 毎年、夏休みの終わりになると思い出す記憶がある。夢の中で行った夏祭りのことだ。僕はそこで、ひとりの少年に出逢って、恋をした。
小学校に上がったばかりのある夏、僕は京都の親戚の家にしばらく滞在していた。母が入院することになって、母の妹である叔母に預けられたのだ。
夏休みももう終わるところで、明日には父が迎えに来て東京の家に帰るという日、叔母が「お祭りに連れて行ってあげる」と言った。
「適当に帰ってきてね」と言う叔母に手を引かれて行った小さな公園は、子供達でいっぱいだった。屋台、というには今思えば拙い、ヨーヨー釣りのビニールプールや、賞品つきの輪投げや紐のついたくじ、ソースを塗ったおせんべいなんかが、テントの下にずらりと並んでいて、子供達はみんな、きらきら光るガラスのおはじきをテントの下の大人に渡しては、思い思いの戦利品を手にいれていた。
その中に、大きな板氷のくぼみに刺さった、つやつやした透明な水飴の絡まった真っ赤なあんず飴を見つけて、僕はそれが欲しくてたまらなくなった。
板氷の向こうのおばさんに、勇気を出して「あの、これがほしいです」と声をかける。おばさんは、「はい、おはじきひとつ頂戴ね」と言った。
「ぼく、お金をもっていないんだけれど…」
「お金は要らへんのよ、おはじきは?」
「おはじき、ないです」
そう言うと、おばさんは困った顔をした。そして、「堪忍な、おかあさんにおはじきもろうてから、もっかいおいで」と言った。
僕は悲しくなって、テントの並ぶ人混みから抜け出した。
知らない通貨、聞き慣れない言葉遣いのひとたち。僕だけが異邦人のようだった。
僕は一人で公園の遊具のほうに向かった。そこでも、数人の同じ年頃の子供達が遊んでいた。それを避けて、たまたま誰もいなかった滑り台に登る。滑り降りて、僕は絶望的な気持ちになった。
スライダーの下が、一面の水溜りになっていた。前日の雨が水捌けが悪くてそこに溜まっていたのだろう、飛び越えるには大きすぎる、泥水の水溜りだった。叔母の家に帰れば服の着替えはあるけれど、靴は今履いている白いスニーカーだけしか持ってきていない。僕は途方に暮れて涙ぐんだ。
そのとき、甚平を着た、僕と同い年くらいの、ふわふわの癖っ毛で前髪の長い少年が、滑り台の横に立って、僕を覗き込んだ。
「おりられないの?」
僕がべそをかいたまま頷くと、少年は僕のことをまじまじと見て、なるほどね、という顔をして、そして履いていたゴム草履を脱いで裸足になると、水溜りの上に飛び石のようにふたつ並べた。
「この上、歩いていいよぉ。きみのくつ、きれいだもんね」
「…どうして?」
「ぼくのくつは、ぬれてもいいやつだから、へいきだよぉ」
そう言って、少年は「はい」と片手を差し出した。僕はおずおずとその手を取って、バランスを取りながら彼のゴム草履を踏んで乾いた地面に立った。彼は水溜りからゴム草履を拾い上げると、びしょ濡れになって汚れたそれをまるで気にする様子もなく、再び草履を履いた。
「きみ、ここの『子ども会』の子じゃないよねぇ。どこからきたの?」
「うん、東京…」
そう答えると、少年は「わあ」と驚いたように歓声をあげて、
「じゃあ、おはじき、ないよねぇ。すきなの、もらってきてあげるよ。なにがいい?」
と言った。
「あんずあめがいい…」
僕が半信半疑でそう答えると、少年はぱっと走り出して、そして、すぐに真っ赤でつやつやのあんず飴を持って帰ってきた。そのまま惜しげもなく渡してくれる。
「ほんとにいいの? きみのぶんは?」
「ぼくは、さっきもう、やきとうもろこしたべたから」
そう言って、にこにこと笑う。申し訳なくて、何かお礼に渡せるものがないかとポケットを探ると、妖精の絵のついた、ゲームのトレーディングカードが出てきた。絵が綺麗で気に入って持ち歩いていたものだ。
「おはじきないから、これあげる」
「ええ!? いいの?」
二枚持っているやつだから、と答えると、彼はとても喜んで、それを大事そうにそっと受け取った。
「ありがとう! きれいだねぇ。ぼくはくわな。きみは?」
「まつい…」
「まつい! よるのじゅずまわしもくる?」
「じゅずまわし…?」
「うん、八じに角のおじぞうさんのところに集合だよ!」
桑名はそう言って、よるにまたね、と言って他の子供達のところへ駆けて行った。
ろくにお礼も言えなかったことを後悔しながら、僕は叔母の家に帰って、八時にお地蔵さんのところに連れて行ってほしい、と頼んだ。
その夜、僕が見たものは、昼の出来事よりも一層現実感が無い。
言われた通りに辻地蔵の前に行くと、子供の名前の書かれた、蝋燭の入った提灯がいくつも並べられていて、その一角はぼんやりと光っていた。お地蔵さんの前は溢れるほどのお菓子や果物が山積みになっていて、お地蔵さん自体も花と綺麗な布で飾り立てられている。そして、その横にはござの敷かれた天幕があって、子供達が輪になって、五メートルはあろうかという巨大な数珠を全員で捧げ持って座っていた。
僕が戸惑っていると、輪の中で桑名が立ち上がって、「まつい!」と長い前髪の下でにっこり笑って手招きしていた。僕は安堵して、桑名の隣に同じように腰を下ろした。
「はじまるよ」
桑名がそう言ってすぐに、子供達は不思議なリズムの謎の呪文を唱えながら、数珠を繰り回し始めた。そのときは異国の呪文みたいに思えたけれど、今思えばあれは多分念仏だったのだ。房のついた大きな数珠玉が自分のところに回ってくると、子供達は合掌してお辞儀をした。僕も、隣の桑名がするのを真似して同じようにした。
どのくらい経っただろうか、唐突に皆の数珠を繰る手が止まり、お地蔵さんの前に山のように積まれていたお菓子と、切ったスイカとジュースが子供達の輪の中に運び込まれた。お伽噺に紛れ込んだような、非日常の盛大なもてなしの中で、桑名と話した。薄暗い灯りの中で、前髪を透かして桑名の目が見えた。蜂蜜色の飴玉みたいな、見惚れるくらい綺麗な瞳だった。
「くわなの目、べっこうあめみたい…。あんずあめより、もっときれいだね」
もっとよく見たくて、スイカの汁でべたつく手を伸ばして、桑名の前髪に触れた。桑名は嫌がりもせずに、現れた目を細めて言った。
「まついの目は、ラムネのなかのビー玉みたい。すべりだいで見たときから、きれいだなっておもってたよぉ」
翌日には東京に帰らなければいけない、と言うと、桑名は「せっかく仲良しになれるとおもったんに」と残念がって、僕達は、来年の夏にまた会おうね、と指切りをした。
東京に戻って、あの不思議なお祭りのことを友達に話した。でも、「そんなへんなおまつり、ないよ」と、誰も信じてくれなかった。まだ入院していた母と、そのせいでバタバタと忙しくしている父には、なんとなく気兼ねして話せなかった。
叔母は、あのあと離婚して京都から居なくなってしまって、縁を失ってしまった僕はあれきり京都には行っていない。
桑名との再会の約束は果たせていないけれど、そもそも、あの夏の出来事自体が、今となっては夢だったんじゃないかと思える。幻想的な提灯の灯りの中で巨大な数珠を回して、山ほどのお菓子で接待を受けた、なんて、まるで雀のお宿や竜宮城だ。
けれど、どうしてもあのときの出逢いを忘れ難くて、僕は京都の大学を志望校の一つに入れた。
高三の夏休み終わり間近の今日が、志望校のオープンキャンパスに当たっていたのは、「巡り合わせ」としか言いようのない偶然だった。
キャンパスの見学を終えて、ホテルに戻ろうと夕方の京都の街を歩き出してすぐに、色とりどりに飾り付けられた辻地蔵に出くわした。僕の心臓がどくん、と弾んだ。
◯◯町子供会、と屋根に書かれたテントが並ぶ。その下の長机の上には大量のお菓子とジュースのペットボトルと、それに貼られた「◯◯町地蔵盆」の文字。
◯◯町、はたしか、かつて叔母の住んでいた町の名前、だった、気がする。
夢で見たお祭りの、その風景とオーバーラップする天幕の向こうから、両脇にスイカを抱えた、がっしりした背の高い青年が現れた。
「持ってきたスイカ、こっちに置いとくねぇ」
顔の半分を隠す、長い前髪。低くなった声は違うけれど、東京に戻ってから何度も思い出した、優しい語尾の喋り方。
呆然と立ち尽くす僕のほうを、前髪の下に隠れたあの飴色の目が、確かに捉えた。
「……え、まつい!?」
「くわな…」
僕は、また新たな夢を見ているような気分で、懐かしい彼の名前を呼んだ。