夜の帳の外し方いつからだろうか。
夜というものが恐ろしくなったのは。
戦場では、夜というものは恐怖の象徴でしかない。
いつ何時、うたた寝をしている目の前に、自らの死を継げる爆弾が投げ込まれるかわからないからだ。
寝ている時に一思いに死ねたらまだ幾分幸せだろう。
直前に起き、恐怖のうちに炎に包まれ、生き残ってしまったものは、いっそ殺してくれと泣きわめく。
ただれた肌で、水がほしいと天を掻き、ろくに見えぬ目から膿とも涙ともつかぬものを流して、苦しむ。
寝て起きてそのようなものが居ないことを、願う事しかできないのだ。
いくら上級軍人と言えど、前線で指揮をとる以上、安全な場所なんてものはない。
無論、前線の防空壕の中で、交代で見張る者たちよりは安全ではあるのだけれど。
ごぉん、ごぉん。
燃え盛る炎と爆発する音が遠くで重なる。
実際にはそんなもの、この平和な母国では無いと分かってはいるのに、それでも戦場が染みついたこの耳には、たしかに音が響くのだ。
そうして、今日もぱちりと目を覚ます。
隣には、すうすうと眠る一十さんの姿がある。
平和の象徴。優しさという言葉を固めて集めて人に押し込めたような、そんな人。
その人の家に来て、眠るようになってからというもの、このように目覚める頻度こそ減ったが、やはりまだ幻聴で目が覚めてしまう。
情けない事だ。
ふう、と一つ息を吐けば、隣でもぞりと塊が動く気配がする。
「お目覚めですか?八色さん。まだ、朝にはすこし早いですよ」
眠たげに、それでも優しい、耳に残る声色で、一十さんは優しく言葉を紡ぐ。
「……すみません。起こしましたか」
「いいえ、いいのですよ。いやですねえ、歳をとると、眠りが浅くなってよくない」
くすくすとそう笑う。
まだ眠たげではあるが、布団の中で向かい合った私に、一十さんはそっと手を伸ばし、頬に触れた。
寝起きで少し冷えた手が、やんわりと頬を撫でる。
秋口の乾燥でかさついてきているのか、柔らかとは言い難いその手は、それでも泣きたくなるほどに愛しい。
頬を撫でる手を捉え、重ね、自らの頬に押し付ける。すると、一十さんは「おやおや」と困ったように笑った。
「……眠れ、ないのですか?度々八色さんは、起きてしまわれますよね」
「気付いてはったんですか」
「ええ。言ったでしょう?年寄の眠りは浅いのですよ」
「……すみません」
「何を謝る事がありましょうか。いいのです。眠れない日だってありますでしょう」
それでも、と、一十さんは言葉を続ける。
「貴方がゆっくり眠れればと、思ってしまいます。……どうして、眠れないのか聞いてもよろしいですか?」
優しい声色で、慈しむ瞳がすう、と細められた。
嗚呼、この人は本当にどこまでも優しい人だ。
「音が、聞こえて」
ぽつりとこぼす。まるで子供が言い訳を探すように。
「音、ですか」
「……はい。爆撃の音、炎の音、それらが、たまに耳の奥で鳴るんです」
ごうごうと燃える炎の音。
ごうん、ごうんと爆ぜる音。
それらはどうしたって、愛しい人の隣でも、私を縛って離さない。
お前には幸せになる権利などないのだと、そう訴えるように。
「目が覚めた時、明日が来ないのではと。恐ろしく、なります」
「………」
段々と言葉を紡いだ語尾と、一十さんの頬に充てられた手を握る力は、比例するように弱弱しくなっていく。
いつから、自分はこのようになってしまったのだろう。
情けない。隊を率いる軍人として、このような事はあってはならない。
表に出してはいけない。
そうは理解しているけれど、それでもこの人の前だと、子供に戻ってしまうようだった。
「……そう、ですか」
一十さんの声は震えていた。
春の新芽を思わせる瞳が閉じられる。
けれどそれはすぐに開かれ、私の顔をしかと映した。
「ねえ、八色さん。次から、寝る前にひとつ約束をしましょう」
「……は?」
「何でもいいですよ。朝の献立は豚汁にしましょう、とか。朝起きたら、一番に外の空気を吸いに散歩にいきましょうね、とか。小さな事でいいのです。明日やれることを、私と約束して眠りましょう」
「……何を言って…」
「だって」
するりと私の頬を撫でていた手がはずれ、私の手を引き寄せるとそれを優しく両の手で包む。
起きて時間が経ったからか、私の体温が移ったからか。
その手は、先ほどよりも暖かかった。
「そうすれば、こうして目が覚めても。私を見れば約束を思い出すでしょう?ああ、そうだった、と。もう一度目が覚めたら、約束があったのだ、と」
「……約束」
「そうです。どんな些細な事でもいいんですよ」
ゆるりと微笑む。
その顔に、何度助けられたか最早わからない。
優しく笑う一十さんに、私も思わずつられて微笑んだ。
嗚呼、この人は、こうして何時だって私を当たり前のように救うのだ。
「……なら、今日の約束は起きて一番に、貴方の口付けがほしいです」
「おや。それはそれは、なんというか……」
「ダメですか?」
彼の手の指に自分のそれを絡ませれば、彼はまた可笑しそうにわらった。
「いいですよ。もちろん。とびきりの口付けをしましょうね」
END