「雪に染まる日」(※冊子「彼が消えた日」の冒頭部分です)雪がちらつく一月の夕暮れ、梓は村雨の部屋で数学の宿題と格闘していた。
リビングの小さなテーブルに教科書とノートを広げ、時折ため息をつきながらペンを走らせる。
机の向こうでは村雨が原稿用紙に向かって万年筆を動かしている。
時計の秒針の音だけが静寂を刻んでいた。梓は問題を解く手を止めて、彼の横顔を見つめた。
集中している時の村雨の表情が好きだった。
眉間に小さな皺を寄せ、時々唇を軽く噛む。どこか少年のような一面を垣間見せる瞬間だった。
「村雨さん」
梓が小さく声をかけると、村雨は顔を上げて困ったような笑顔を浮かべた。
「……ん。何度も言ってるつもりだが、家では里史でいい」
「あ。でも...なんだか慣れなくて」
梓は頬を赤らめて視線を逸らした。付き合い始めて3ヶ月が経つというのに、まだ彼を名前で呼ぶことに照れを感じてしまう。
「そうか……。まぁ、強制はしないさ」
村雨は常に紳士的で、手を繋ぐことさえ慎重だった。キスも、ほんの数回しかしていない。
付き合い始めてからも村雨は慎重だった。手を繋ぐのも恥ずかしそうにするし、キスも軽く唇に触れる程度。
梓がもう少し踏み込んだスキンシップを求めても、「君はまだ若いから」と言って距離を置こうとする。
そんな彼の姿勢に、梓は時々もどかしさを感じていた。本当に私を愛してくれているのだろうか、と不安になることもあった。
「数学……難しいか?」
村雨が原稿用紙から顔を上げて尋ねた。
「微積分が全然わからないんです」
「……見せてみろ」
村雨は梓の隣に座って、ノートを覗き込んだ。彼の体温が近くに感じられて、梓の頬が熱くなる。
「あー、俺もあんまり覚えてないな……。確か、ここを、こう置き換えて……。そうそう、こうだこう」
村雨の手が梓の手に重なって、一緒にペンを持つ。その手の温かさに、梓はドキドキが止まらない。
「わかったか?」
「はい...」
実際には全然頭に入っていなかった。村雨の近さに意識が集中してしまって、数式なんて見えていない。
「じゃあ、次の問題も似たような感じだから。お前さん自身でやってみろ」
村雨が自分の席に戻ろうとした時、梓は咄嗟に彼の袖を掴んだ。
「あの……、もう少し……隣にいてください」
「梓……」
村雨の表情が揺れる。梓は立ち上がって、彼の前に立った。
「村雨さん」
「何だ?」
「私のこと……本当に好きですか?」
突然の質問に、村雨は戸惑った。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「だって……全然触れてくれないし、その、キスも……」
梓の声が小さくなる。村雨は梓の肩に手を置いた。
「君を大切に思っているからだ……。わかれ……」
「でも私は……」
梓は村雨の胸に顔を埋めた。彼のシャツ越しに聞こえる心臓の鼓動が、いつもより速い。
「梓」
村雨の声が掠れている。梓は顔を上げて、彼の目を見つめた。
「村雨さん……」
風で窓がカタカタと鳴っている。外は雪が本格的に降り始めていた。
眉にしわを刻み、しばらく逡巡したあと、視線をそらした村雨がぽつりと言った。
「……お前さん、今日はもう、帰ったほうがいい。今夜は吹雪になる。……その、帰れなくなるぞ……?」
窓ガラスに雪の結晶が舞い踊っている。
「……大丈夫、です」
村雨の瞳が大きく揺らいだ。彼女の手首を、村雨が掴んだ。
「村雨さん……?」
「意味、分かって言ってるのか……?」
手からいつもより熱い熱が伝わってくる。
数秒見つめあった後、梓がこくりと頷く。
村雨の瞳に、これまで見たことのない感情が宿っている。梓の心臓が激しく鼓動した。
「……私、もう子どもじゃありませんから」