ガコン、と戸の向こうで音がした。次いでバイクの質の悪いエンジン音。風がびゅうと大きく吹いて、立て付けの悪い窓が少しぐらつく。恐らく宅配だろう。カレンダーを横目に見ながら、ラファウはタイピングの手を一瞬だけ止めた。15日。定期便がまとめて届く日付だった。中指がキーを叩く。
ガレージの奥に積んでいるミネラルウォーターの在庫はどうだったか。まとめて出しておかないと、後で困る羽目になるのは間違いなく僕だ。もし足りなければスーパーでまとめて買わなくちゃいけない。
少しばかりの逡巡を引き延ばしながら、主題のスクリプトを丁寧に丸くしていく。
「よし、ここまででいいか……」
エンターキーが沈む。軽く息を吐きながら、青い液晶を青い瞳に反射させて推敲する。
次の学会で、ラファウには登壇の場を設けられた。当然だがフベルトのように座長なんて訳でもなく、ただ新人が陽が落ちるより長いセッションに駆り出されているだけだ。
発表する論文のスクリプトの構成は悪くないし題材もいい。なぜなら僕が書いているから。あとで多少直すだろうが、一度ここで保留にして、時間を置いてから見直した方が粗が出てくるだろう。そこでディテールを整えた方が効率的だ。
ラファウはパソコンを手早く閉じて、ひとつため息を溢す。
もうすぐだ。
3ヶ月に1度、スケジュールを全て綺麗に整える。これはラファウがフベルトと暮らす前に取り決めた約束に違いなかった。
パソコンを閉じた後宙を彷徨った手は、ラファウの額に辿り着いてそのまま頭を支えた。
この世界では、男女の他にα、β、Ωなどという厄介な性別が存在する。いや、厄介かどうかは主観によるので事実厄介かどうかというよりは、僕にとっては十分厄介だった。
3〜4世紀も前であれば、まだΩと呼ばれる性別は男女問わず世界中で差別的に扱われていた。男女関係なく、妊娠が可能なため仕事のたびに休みを必要とし、しかもフェロモンが出るとかで優秀とされていたαを誘惑する害悪として迫害されていたのだ。
が、それも昔の話で医学の発展は目覚ましく、アホな差別主義は終焉を迎えていた。
αやΩ問わずにフェロモンなどと呼ばれる体内から発生される香りの分泌は保健適用の薬で大きく制御され、自由診療であればフェロモンの分泌自体を根本的に減らすような外科治療が開発された。
他にも、Ωは生まれながらにして劣っており、αが優秀とされていたのも長い臨床実験の末、ただの迷信であることや、運命の番というものも貴族制度を貶めるために生まれたものだと分かった。所詮、これらは染色体数に由来しているだけで、ゲノム編集を適応しようとする研究は何世紀も続いている。
さて、話が大きく逸れてしまったが、僕がΩとして生まれたからこの性別が厄介なわけでは全くない。
優秀でしかも子供を産むことのできる人間であるならば、それはそれは重宝されるべきだ。義父のポトツキは性別が分かった後に、こんなに素晴らしいのにΩだなんてヤバすぎる。神による祝福だ、とひとりで泣いていた。感情豊かな人である。
詰まるところ厄介なのは、フベルトさんがαであることだった。
ポトツキから海外から教え子が来ているから2ヶ月だけ滞在する、と聞いた時にはラファウは飛び級制度を利用し大学への入学の準備を済ませた後だった。12歳もあと数ヶ月で終わろうとしていた。
夏日も落ち着いた夕暮れ時に帰宅すると、玄関に見慣れぬキャリーケースが並んでいた。噂の義父さんの教え子とやらが来るのは今日からだったか。
「ただいま帰りました」
高い声は壁に吸収されて、ラファウには無音が返ってくる。ポトツキさんもいないのか。海外からの来訪者は仮眠でもとっているのかもしれない。時差もあるし悪いことをしたかもな。そう思って、できるだけ足音を潜めてリビングのドアを開けると、正しくその来訪者らしき人物が立っていた。
ゲストルームからたまたまリビングに出てきたらしい彼は、右手に分厚い資料と左手にマグカップを持っていた。妙にデカいし髪はなんだか白っぽく、怖い顔立ちだ。正直、とにかく大きすぎて、角度的に顔が怖く見えてるだけで実際は怖くないのかもしれない。
ラファウがいることに気付いたのか、目配せはしたが挨拶の気配もない。そのような、多少コミュニケーション能力の欠如した人にも分け隔てなく接するのが、ラファウの考えるラファウの良さのひとつだ。
「初めまして、ラファウと申します。ポトツキさんの、」
「初めましてフベルトだ。……すまないが静かに頼めるか」
信じられるだろうか。これが彼とのファーストコンタクトだった。泥の入ったコーヒーを啜るより最悪だ。どう考えてもここから彼との関係を改善できる余地はない。
フベルトと名乗った男はそのまま会釈もなくゲストルームへと消えていった。
「ただいま」
「ポトツキさん!おかえりなさい!聞いてください―――……」
ポトツキの帰宅早々、ラファウは先程のゲストの悪口をアメリカンにお湯を混ぜる程薄くし告げ口した。しかし、それを聞いたポトツキは、小首を傾げてにっこりと笑う。
「フベルトは今ちょっと立て込んでるんだ。落ち着いて話をすれば、きっと話が合うだろう」
ポトツキは今にも軽いステップでも踏み出しそうな程度に陽気だった。妙にキーの高い鼻歌が聞こえてくる。夕飯はポトフにしようかな。いいんじゃないですかね、僕は大好きです。フベルトも、とそのままさっき相対したデカい男の話が右から左に流れていく。
泥の入ったコーヒーから泥を抜いたところで、コーヒーが汚れた事実は消えないのだが、そのファーストインプレッションを覆すことができるのか?あの岩みたいに大きい男が。
ラファウは、ポトツキの教え子という男を少しだけ楽しみに待っていたのだが、案外期待外れだったらしい。
僕も手伝いますよ、とラファウはエプロンをかけて義父の横で足を揃えた。
「だとすると、君はどう考える?」
「僕はこの方程式が―――」
「2人とも!もういい時間だ!明日にしてくれ」
紙が捲れる音が止まる。ポトツキの声の方へフベルトとラファウは2人合わせて顔を向けた。彼の後ろに覗くアナログ時計の短い針は、てっぺんをずいぶん過ぎて待ちぼうけていた。
「あんなにギスギスしてたのに、星の話になると途端にこれだ」
「ギスギスなんてしてません。ね、フベルトさん」
ラファウの言葉にフベルトは特に同調はしてくれないが、ポトツキに雑な釈明をしている。書類をまとめながら、ラファウの口から調子よくサポートの言葉がこぼれる。
泥なんてもんじゃなかった、混ざってたのは砂金だった。いや、金を身体に入れたってしょうがないんだけれど。
食後にリビングのソファで養父から借りた本を読みながらタブレットで検索をかけていたら、後ろを通りかかったフベルトが答えを投げてきた。ポトツキの言っていた所用は済んだのか、出会い頭と違って静かにせずとも良いらしい。ならば、と礼にあわせて軽く質問を放ってみたところ気が付いたら日を跨いでいた。
ラファウにとって、フベルトはあまりにもはじめての人物だ。
自慢であるが、優秀で性格も良く、造形も整っているラファウにとって、世界のチョロさには正直飽き飽きしていた。バカばっかりのこんな世界で、正しく上手な解を取捨選択することはさほど難しくなかった。
ただ、フベルトは根本から違った。
面白い。彼にかかれば今まで持ち得ていた仮説はひっくり返る。Q.E.D.には疑問符が添えられる。右と左も上と下も、そもそも立ち位置から覆される。
いつ振りかの楽しそうな顔をしたラファウを、ポトツキは満足げに自分の胸の方へ寄せた。
「……話が合うだろうとは言ったけど」
「ポトツキさん?」
「私も混ぜて!」
ポトツキは台詞っぽく言葉を投げてラファウをハグした。
「私もポトツキ先生に聞きたいことが、」
「だから明日!」
不貞腐れたような顔を隠しもしないフベルトさんに思わず吹き出して、明日の議題を3人で交わす。フベルトのことを怖い顔つきだと思っていたが、表情筋を動かすのが不得手なだけで案外瞳は感情豊かな人だった。
「おやすみなさい」
「良い夢を」
「おやすみ」
案外悪くもないかもしれない、それが初めてフベルトと話した後の感触だった。