Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    nevvrmore111

    @nevvrmore111

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 4

    nevvrmore111

    ☆quiet follow

    Les Amants/服部+伊田
    服部悪夢合同誌の再録です。

     記憶を分解したとき、人は声から忘れていくという。次に、表情。最後に残るのは匂い。消えゆく感覚の要素はあくまで主観的なものであって、人によって忘れたくないものも忘れてしまうものも様々だろう。しかし、日々起こりうる事象に対して、いちいち自分自身で分類なんてしていられない。無意識に脳の中で分類し、取捨選択される。
     すべてがはかなく、不確かだ。
     
    「耀」
     コツコツと、後ろからガラスを叩く音。施錠したままになっていた車のロックを慌てて開ける。
    「すみません」
    「いや、タイミングがよくて助かった」
     後部座席に乗り込んだふたりがベルトを付けたのを確認してから、服部は車を出した。車中には、末守の声と電話越しの騒然とした音だけが聞こえる。何分続いただろうか。ようやっと電話が切られて、末守は切り替えるように短い髪をかき上げた。その様子を確認してから、服部はこれから向かう事件について情報を得ようと話を切り出した。
    「は? どういうことですか」
    「だから、顔がないのよ」
     バックミラーで後部座席を確認すると、至極真面目な顔をしている。とても冗談を言うような雰囲気ではない。服部がその意図を汲み切れずにいると、末守は今朝起きたばかりの事件の流れを一から説明し始めようとした。現場へ到着するまでおおよそ五分。それだけあれば事前情報を得るには充分だろう。服部は運転に集中しながらも、末守の一言一句を聞き逃さぬように耳を傾ける。末守の隣に座る伊田も、なんでもないように窓の外を見ながら状況を聞いていた。
     朝六時。日が上がって間もない頃だった。通行人が沼に浮かぶ白い塊を不審に思い通報。通行人は散歩のために毎日同じ場所を同じ時間に通り掛かっており、普段見かけないものに対してほんの小さな違和感を覚えた。通報を受けてすぐに近くの交番から警察官が到着したが、簡単には回収できないと判断し所轄へ連絡。しかし、不法投棄された廃棄物か何かだと安直に考えた結果、連絡は遅れた。塊は人間らしいと分かった瞬間に野次馬の悲鳴と騒めきは伝播し、辺りに響いた。
    「回収は」
    「今進めているところよ」
     対応する人員が充分に揃った時点で、ビニールシートに囲われて回収作業が開始された。水中の遺体は服を全く身につけていなかった。にもかかわらず水に透けて白が見えたのは、顔があまりに白かったからだ。カーテンやテーブルクロスのような白い布で、顔だけが硬くきつく縛られた遺体。
    「……ないってそういうことですか」
    「まあ詳しくは現場でわかるでしょう。……はあ、昨日の夜から何も食べてないのに」
     実際に現場を見てみないとわからないことだらけだろう。簡単な共有が終わると、今度は車内に包みを開ける音が響く。到着までのほんの少しの時間で、末守はバータイプの栄養補助食品をあっという間に食べ切った。

    「捜一です」
    「ああ、お疲れ様です。どうぞ」
     近くの駐車場へ車を止め、公園入口の規制線をくぐる。菅野班が現場に到着した頃、ブルーシートの中に遺体が運び込まれていたらしい。現場周辺はすでに一般人の立ち入りが制限されている。にもかかわらず、何が起こったのかと周囲は異様な雰囲気に包まれていた。
    「これ、」
    「ああ、顔が」
     ――見えない。
     表情を知ることはできないが、元々は華奢だったであろう肉体は浮腫が酷い。腕首や足首の境目はなく、青黄く皮膚の色が変わっている。くわえて水が悪く、首から下はすっかり泥と草まみれになっている。今が夏でなくてよかったと現場にいる誰もが思っていたはずだ。
     息がないことは明らかだったので、これから鑑識の元で白布が解かれる作業が始まる。水を含んだ布は重く、結び目は固い。証拠を記録しながらほどいていく作業は容易ではなかった。厳重な包みを開けるように、鑑識総出で重い布を開いていく。見えなかったものが暴かれていく過程の周辺に音はない。粛然と、周囲の喧騒が遠ざかっていく。
     最後の一枚を剥がす。水は中まで浸みており、髪や睫毛が束になって濡れていた。浮腫もそれなりに進んでいたが、傷や汚れがない分だけ全く異なる様相に見える。遺体は大切に慈しまれているようでもあった。
     目を瞑り、仏に手を合わせる。
     服部が簡単に済ませて視線を上げたあとも、伊田はしばらく手を合わせたままだった。

     すぐに捜査本部が設置され、菅野班も捜査に参加することとなった。事件の特殊性が目を引くが、やるべきことは通常と変わらない。被害者は三十歳の女性。二ヶ月前に家庭の都合を理由に退職したが具体的な理由を職場に明かしておらず、引き止める上司に聞く耳を持たなかった。また同僚も何があったのかを全く認識していなかった。通院歴もなく、傍目から見れば健康そのものだった。
    「彼女の恋人を任意で押さえてる。まず別で対応しているけど、あなたたちも交代で聴いてきて。もっと人が必要ならつけるけどどうする」
    「とりあえずは俺と耀で。問題ないよな?」
    「はい」
     昼過ぎからは被疑者と思われる男性の取調べが始まっている。末守の指示により、伊田と服部も所轄へ移動して対応を急ぐ。顔の広い伊田のおかげで、所轄内でのやり取りは最小限かつスムーズに済ませることができた。服部ひとりではそうはいかない。
     案内された取調べ室の扉を空けた瞬間から、男はまじまじと伊田を見つめていた。
    「代わります」
    「お疲れ様です」
     疲れのにじむ動作で、取調べを行っていた捜査員は部屋から出ていく。服部は参加せずに外から見守ることになっている。中には被疑者と調書作成者、そして伊田だけになった。払拭されないままの圧迫感は、口を割らない被疑者に対して効果があったとはとても思えなかった。外部から遮断され、なにかを暴こうとする力の入った声に満ちた空間は息苦しいだろう。日常生活を送っていれば決して交わることのない場所なのだ。あからさまに縮こまって椅子に座る男性の前へ、伊田は一切の緊張感を持たずに座った。
    「代わりに担当する伊田です」
    「……」
    「よろしく。休憩は必要ない?」
     首が傾き、口角がゆるやかに上がる。返事を待たずに、伊田は机の上で両手を組んだ。傾聴の姿勢とやわらかな雰囲気をまとっていたが、被疑者の冷ややかな視線に容赦はない。犯人になることへの恐怖感がそうさせているのだろう。
    「じゃあ始めようか」
    「……」
    「まず、別に俺たちは君を無理に犯人にしようなんて思ってない」
    「……は?」
    「ただ、ありのままを話してくれればいい。もちろん、君が何かを隠しているなら話は別だ」
    「……ありのまま」
    「そう、もう一回聞かせてくれ」
     向かい合う男性は、先までの自白を強要するような捜査員との違いにわかりやすく動揺していた。じゃあよろしくとふたたび挨拶をし、伊田の取調べは始まった。

    『……そもそも、死にたいなんて一度も聞いたことなかったんです。正直、恋人として一緒に過ごしてましたけど、彼女のことなんて何もわからないんですよ。なにかに悩んでたみたいだけど、そんなこと少しも話そうとしなかった。確かに俺は一緒に暮らしてたから、そういう意味で一番近い人間かもしれない。所詮他人です。……分かり合えるわけがない。もし死にたかったのだとしても、俺はその願いは叶えられないですよ。そんな度胸もないですから』
     殺していない。それが得られた結果だった。
    「どうしますか」
    「俺が話を聞いた結果は『そう』だった。他を当たろう」
    「……わかりました、車回してきます」

    『ごく真面目に仕事に取り組まれていたと思います。社内で誰かと食事していた様子はなかったですね。特定の誰かと仲がいいということはなかったですけど、人間関係も良好だったと思います。もめごとも聞いたことないので。有給も消化されてましたよ。いや、うちでは彼女のプライベートのことまでは把握してません。他の社員も恋人がいるなんて話を聞いたことはないらしいです。つかみどころのない人でしたね』

    『ええ、はい。ああ、上の階の。ゴミ出しの時間が被ったり、帰りの時間が被ったりしましたよ。挨拶もしてくれるし、とっても優しくてねえ。一度荷物を運ぶのを手伝ってもらったこともありますよ。お互い大荷物だったのに。まさか、亡くなるなんて……なんと言ったらいいのか。え?男性?一度も男性と歩いてるところは見たことないです。良い人いないのってお節介で聞いちゃって、迷惑だったかしら』

    『学生時代のことですか?そんなに仲良くなかったからなあ。ぼんやりした記憶しかないですけど……。いつも教室の端で本読んでたと思ったら、急に他校の派手な男子と付き合い始めててびっくりしたことはあるかも。地味な見た目だったし、見かけによらずやるなって。悪いことしてたっていう噂もあったし。彼氏に染まったんじゃないですか?同窓会には一度も来たことないです。友達は……いたと思うけど、興味がなかったからわからないかな、正直』


     ◇


    「……は」
    「おい、大丈夫か」
    「え、何が」
     薄暗い部屋の中で、伊田は心配そうに目線を寄越している。目を開けた瞬間、咄嗟に口から飛び出た言葉に服部自身が驚いた。大丈夫かどうかに対する返答はできなかったし、自分がどこにいるかも一瞬分からなくなっていたらしい。問い掛けに対して的をえていないものであったから、伊田は確かめるように言葉を続けた。
    「何がって、お前うなされてたけど」
    「そうですか」
     眠っている間、うなされている自覚はなかった。見開いた目の焦点が上司の目とやっと合って、合点する。ここは自宅のベッドではない。服部は眠ったままの身体を起こした。ソファに触れていた身体の背面が気持ち悪い。通気の悪い素材であったから、首から腰にかけてじっとりと汗ばんでいた。
    「いま何時」
     胸元の携帯電話を出して時間を確認すると、午後十時を過ぎた頃だった。服部は起こした上半身を伸ばそうとして、手元に違和感を覚える。ささくれのような、むずがゆい感覚だった。経年劣化のせいか使い方が悪いからか、ソファの合皮は劣化して表面が剥がれ落ちている。細かい欠片が大量に手のひらへ付着していた。これでは身体のあちこちにもくっついているかもしれない。しかし、肩口を払おうとしてやめた。身なりを気にする必要はない。これから数時間、もしくはもっと長く外に出る予定はないのだ。
    「大丈夫か?」
    「はい」
    「ならいいけど」
     再確認を終え、伊田は諦めたように窓の外へ目線を戻した。
    「動きはないですか」
    「ああ、」
    「……」
     しずしずとした篭った空気がふたりの間に満ちる。
     交代の時間までまだ少しあるが、寝直す気分ではとてもなかった。一般的には率先して仕事を引き継ぎ、上司に休息をとってもらうことが通念だろう。しかし、服部はソファに掛けたまま構わずに話を始めた。終わった話を蒸し返すようだったが、伊田が腑に落ちていないことは容易に想像できた。
    「……夢の中でも事件が起きていて、結局手かがりが全く見つからなくて」
     服部は言葉を続ける。ぽつりぽつりと溢す言葉を、伊田は外に意識を向けながらも黙って聞いていた。
    「でもなぜか、毎回必ず解決するんです。それは、いいんですけど」

     子どもの頃に聞かされた歌。席替えの並び。クラスメイトとの何気ない会話。教師の言うつまらない冗談。初めて乗った飛行機。慣れない海外での生活の始まり。
     すべて言える気がする。ずっと昔から、記憶力はよい方だった。人生の数々の節目において常に味方になってくれたものであり、自分の思考の大きな手掛かりにもなった。ごく普通だと、皆がそうだと心から信じていた。しかし、己が持っていた記憶力が他と比べることのできないものだと知ったとき、幼いながらに服部は驚いた。他人とは、自分とは異なるものなのだ。
     記憶は蓄積し、拡張する。たくさんの記憶と経験とが混ざり合い、夢で過去の出来事を追体験することも多かった。だが、刑事になってから見る夢はいつも欠落している。いつまでも取調べ室から出られない夢。捕まえることのできない犯人を走って追い続ける夢。様々だった。
     夢とは自分に都合の良いように構成されているもので、当たり前だと納得すればそれまでだ。
     しかし、どうしてなのか、

    「……最後だけ、覚えてないんですよね」
    「へえ、意外だ」
    「それがすごく気持ち悪くて。いや、夢だから気にしすぎかもしれないですけど」
    「いつもまともに寝てないからじゃないか?」
    「……寝てないから、ですか」
     まともに寝ていないから。服部は伊田の言葉を繰り返す。確かに仕事をはじめてから睡眠時間はぐんと減ったが、本当にそうなのだろうか。しかし、伊田の言葉は服部を落ち着かせるのには充分で、軽く茶化すような響きには安心さえ覚える。目覚める瞬間に繰り返し感じていた形容しがたい気持ち悪さも、夢の内容がただ抜け落ちてしまっただけのように思えてくる。
    「すいません、喋りすぎました」
    「いや、半分寝言だと思っておく」
    「……それは」
     伊田は笑いながら言った。しかし、それはそれで嫌だと思う。まさに話している間、『寝惚けてるのかもしれない』と曖昧な意識を抱いたままだったからだ。普段なら無意識に抑えている言葉までが口を衝いてしまう気がしたが、それでも服部は喋るのをやめることができなかった。ひかりのない部屋の中で、心の奥にあるわだかまりを吐露する時間。自分の中身をさらけ出して懇切丁寧に並べているようで居心地が悪い。今まで誰にも夢の話をしたことなんてないし、苦手だ。
     そう、疲れて寝ていなかっただけ。そうかもしれない。言い聞かせていると、伊田の余裕のある声が続く。

    「もし悪夢なら、話せば正夢にならないって言うし」
    「……意外ですね。そういう迷信、信じるんですか」
    「迷信がいい結果を生むなら、信じてみるのも有りなんじゃないか」
     カーテン越しに見える背中が揺れ、ふたたび一瞬だけ振り返った伊田と目が合った。
    「なるほど」

     服部が返事をしたきり、沈黙が流れる。起きてからはじめて、喉のあたりが締め付けられるような痛みを感じた。汗をかいていたせいか、部屋全体がひどく乾燥しているからだろうか。
    (――喉、乾いた)
     腰元の身体半分が乗り上げていたせいで、そばに置いたペットボトルは不格好に歪んでいた。気にせず蓋を開け、水を一気に飲み干して息を吐く。部屋に染み付いた煙草の匂いが身体にも巡るようだった。張り込みが始まって、かなりの時間が経過していた。
    「……代わります」


     ◇


     職場。近所付き合い。その他交友関係。遺体の特殊性は際立つものがあったが、聞き込みと合わせて結局証拠となるものは見つからない。別班からの情報と合わせて自殺の線も見えており、事件の糸口はさらに見当たらなくなってきた。
     捜査会議室は陰鬱さを隠そうとしない。足を踏み入れて、煙たさに驚く。長机には吸い殻が溢れそうな灰皿が点々としている。疲れて腕を枕にして仮眠をとる捜査員、床に転がる捜査員も増えていた。事件の停滞は目に見えて捜査員の生気を奪っていく。
     事件のせいで神経が昂って眠れないことはざらにある。頭の芯がつねに熱く、身体の疲れも相まって嫌な感覚だ。決して慣れたくはない感覚を追いやるように、服部は部屋の端でひとり捜査資料を読み始める。抜けている可能性のある情報を頭に入れて、すぐに部屋を出る必要がある。しかし、読んでも読んでも目が滑って零れていく。おかしい。永遠に続くようだった。
    「耀」
    「ああ、お疲れ様です。眠れましたか」
    「少しな」
     使い古されたパイプ椅子に腰かけ、伊田は缶コーヒーを服部に差し出した。一言断ってからプルタブを引く。濃い甘さが心地よかった。
    「今度はもう一回、お前があの男から話を聞くんだ」
     伊田の呟きに服部は書類を捲る手を止める。
    「え? どういうことですか」
    「耀が話を聞いてきてくれ」
    「……正義さんが取調べしたとき、否定してたじゃないですか。その後だってずっと、被疑者周りは散々調べつくした気もしますけど」
    「本当か」
     勿論、すべてを調べ尽くしたはずだった。もはや調べてない部分がわからないほどに丁寧に。しかし、本当かどうか言われると自信がなくなる。伊田は別に服部を責めるような言い方をしなかったし、服部が見落としたとも思っていなさそうだった。何より、伊田と服部はほとんどの時間共に、同じ事件を捜査しているはずなのだ。見落とす可能性は少ないはずだ。
    「わかりました。もう一回洗います」
    「俺も一旦、別の線を洗うから」
     ――お前に任せる。
     伊田はなぜもう一度同じ男へ話を聞くように言ったのか。その必要があるのか、何があるのかは説明しなかった。遠くなる背中を追うことはしない。躊躇う時間があるのであれば、頭を使い足を動かす。そうする他にはなかった。

     車を走らせ、指示された場所へ向かう。原宿から真っすぐに都道を進めば、小田急線沿線に突き当たる。繁華街が近いとはいえども人の生活が根付いた場所だ。一本裏に入れば、狭い土地に古くからの商店や住宅が詰まっており、下町の風情さえある。
     二階建てのアパート外装は蔦が伸びていて古かった。部屋ごとに無骨な唐茶の鉄柵が付属していて錆がひどく、大きく風が吹けば飛ばされてしまいそうだ。その中で二階の一室だけ、雨戸の上部が外れている部屋があった。すりガラスの向こう、室内には多数のハンガーや洗濯バサミが透けている。
     階段を上ろうとしたところで、顔が濡れるのを感じる。朝の天気予報によると、これから雨が降るらしかった。

    「……はい」
    「――さんですね」
     音が鳴るだけの旧式のインターホンを押すと、室内から騒がしい音がした。扉を開けたのは、間違いなく伊田が取調べした男性だ。白いシャツと黒いスラックスを身に着けており、早朝にもかかわらず身なりはすでに整えられていた。
    「……はい」
    「警察です。すみません、少しお話いいですか。できれば入れていただけると」
    「ええ、どうぞ散らかってますが」
     男性は警察と聞いても拒否感を示すことなく、自らドアを大きく押し開けた。こちら側の確認と許可はあくまで形式的なものだ。半分以上は強制的だった。同席した捜査官と目配せをする。取調べ前の頑なな態度を見せることもなく、逃げる気はなさそうだと一致したが、油断するわけにはいかない。
     入口には空いた段ボールやゴミ袋が積まれて、ほとんど足の踏み場がなかった。服部は構わずに靴を脱ぐ。点々と隙間が見える床を踏み、男性を追った。ワンルームタイプの部屋には本や雑誌が溢れている。男性は部屋の真ん中で立ち止まり、服部も足を止める。そのまま怯まずに声を掛けた。
    「例の殺人事件について、もう一度話を聞きたくて。突然押しかけてすみません」
    「俺が殺しました」
    「え?」
    「彼女に頼まれて、殺したんです」
     さも当然であり、自然の成り行き。世間話の延長のような声色で、男性は殺したことを認めた。真っ直ぐで嘘の見えない目は服部を混乱させる。
    「取調べでは、否定されてましたよね」
    「……」
    「頼まれたってどういうことですか。彼女に依頼された?手助けをしたということですか」
     強い視線は一瞬緩み、逸らされた。外へ逃げるためではないし、なにか武器を取る様子もない。部屋の奥へと進み、クローゼットの前にしゃがみ込む。半分空いたスペースには、彼女のものと思われる衣服や化粧品が一箇所に固められてた。色とりどりの陽気さは、散らかった部屋から明らかに浮いている。その空間だけが現実から切り離されている。
    「俺が彼女を殺しました」
    「詳しくは暑で聞きます」
     埒が明かなかった。捜査会議室で項垂れている他の捜査員にも、伊田にも、出来るだけ早く知らせなければならない。
    「あの、」
    「はい」
    「……この写真だけ持って行っていいですか」
     男が見せた写真には、この部屋のなかで幸せそうに笑う女性の姿があった。白い布を背景にして、屈託のない笑顔を浮かべている。犯人と思われる男性の切実な物言いにどうしていいかわからず、服部は決して許されない行為を許可しそうになる。男性の手から写真を取り上げて元あった場所へ戻し、空いた両手を纏めた。

     外れた網戸の隙間から、強く風が吹き込みはじめている。水を含んだ生暖かい風は、混沌とした部屋のせいか黴臭い。一緒に吹き込む細雨で、窓際の床がきらきらと濡れていた。

    『彼女が……死にたいと言ったんです。殺して欲しいと言われたら、叶えてあげるべきだと思ったので。叶えることが、彼女への愛の形だと思いました。過ごす時間も長かったし、よく話もしましたよ。ええ、苦しむ顔は見たくなかったので顔を隠しました。もう、彼女が嫌なものを目に入れなくていいように。間違ったことをしたとは思っていません。彼女は望んでいました。俺は彼女を理解して、彼女の望むことに寄り添った。これは必然の結果です』


     ◇


    「お疲れ様」
    「末守さんも、お疲れ様です」
     デスクで書類に目を通す末守に向けて、服部は声を掛けた。数日振りに班の席に戻ったはずなのに、ほんの少ししか時間が経っていないように感じる。机上は整然としたままだった。あれだけ席に戻っていなかったのに、書類一枚届いていないし、過去の自分がここまで片付けていたとは思えない。どうしたものか。
    「一区切りね」
     椅子をくるりと半分回して、思案する服部を労った。上司である末守も、もちろん事件の顛末を把握している。結局、関与を否定していた男性が犯人となった。取調べが終了したあとから、今まで全く見えてこなかった証拠がなぜかぽろぽろと発見された。
    「そうですね。まあ、なんとも言えないですけど」
    「どういうこと?耀の取り調べでは『そう』だったんでしょう」
     取調べ室には、彼女への理解を盾にした言い訳にも似た言葉が満ちていた。もう楽にして欲しいと懇願された。あなたにしか頼めないから、と。男性はその願いを叶えるために彼女を殺した。伊田の取調べとは正反対の発言だった。
    「……彼女のこと、本当に理解していたんですかね」
     末守の返答が欲しかったわけではない。言葉にすることで、もう考えても仕方のないことの整理をしたかった。
     彼女の周りの人間から得られた、彼女を言い表す言葉たちはさまざまだった。多面性といえば聞こえはいいが、彼女の姿は結局見えないままだ。
     また、男性の行動は本当に自殺を助けるためだったのか。死にたいという彼女のためにしたことだったのか。取り調べで聞いたことが全てだとは到底思えない。しかし彼女の口から真相を聞くことは叶わないし、男性が嘘をついている可能性もある。狭い部屋で行われたであろうふたりの間のやりとりを、もう誰も知ることはできない。間違いなく、ふたりだけのものなのだ。
     考えても、まとまることはない。一体、ふたりの本心はどこにあったのだろうか。

    「すみません、仏の確認をお願いします」
    「耀、行って」
     思考を遮る、聞きなれない男性の突然の呼びかけだった。別課の捜査員だろうか。背後に人が近付いていたことにも気づかなかった。末守が間髪入れずに服部へ言う。選択肢を与える物言いではなかった。
    「え、なんで」
    「お手数お掛けします。宜しくお願いします」
    「仏? 霊安室ですか」
    「はい」
    「……わかりました」
     なんで俺が、と出かかった言葉を飲み込み、職員の後に渋々ついていく。
     廊下や階段は驚くほど静まりかえっていて、歩いているのはふたりだけだった。階段を下りるが、地下の霊安室は遠い。確認のために移動しているというよりも、自分が連れ去られているように錯覚する。永遠にたどり着かないのではとも思える。
    「どうぞ」
    「失礼します」
     待機していた職員が服部へ敬礼する。線香の煙が充満しており、暗い室内で白く揺蕩っていた。
    「仏は」
    「先日の水死体事件にて、亡くなられました」
    「は?」
    「確認お願いします」
     聞き返す服部の言葉を遮って、職員は続ける。殺人事件はたったいま、取調べも終えて解決したばかりではないか。犯人だって、すでに拘置場へ移送されているのだ。なぜその必要があるのだろうか。服部は訳がわからず困惑する。振り返ると、服部を案内した職員の姿はいつのまにか消えていた。
    「別の人間が殺されたということですか」
    「……」
    「答えてもらえないんですね」
     拒否する権利や詳細を聞く権利はないということらしい。職員に問いかけ続けても、無言で頷くだけだった。仕方なく横たわる遺体へ近づく。空気が揺れて、左右の炎が大きくなる。手を合わせてから、白の打ち覆いに両手を伸ばす。滑らかな手触りの布はその下にいる人間の凹凸をはっきりと伝えている。隠す白をゆっくりと捲ると、癖のある黒髪が覗く。
    (――まさか)

    「耀、本当に理解していたのか」


     ◇


    「え」
     自由落下したかのような感覚に襲われる。びくりと身体全体が痙攣して、服部は目覚めた。慌てて起き上がり、枕元に置いたスマートフォンを確認する。午前三時。捜査呼び出しの入電はなし。眠った瞬間が思い出せないほどひどく疲れていたはずなのに、寝具に身体を横たえてからたった一時間しか経過していない。ガラステーブルの上には、すっかりぬるくなったビールが置いてある。
     働きはじめた当初は何をせずとも朝になるまで眠れていた気がする。昂る神経を落ち着かせるため。入眠のため。一口だけ酒を飲んだせいか、単に睡眠時間が短いせいか、嫌に思考がはっきりとしていた。
    「……夢」
     無意識に手をかぶせていた額に嫌な汗をかいている。帰宅してから着替えずにいたシャツと湿気を含んだシーツが不快だ。伸びた髪を纏めるために最近使い始めた髪留めが枕元で丸まっている。汗ばむ首の裏をそっと撫でて、息をついた。
     都合の悪い記憶を忘れる機能というものが、自分の頭にも未だ備わっていたとは。服部は自分の記憶があまりに不確かで、頼りないものであるかを実感させられた。間違いない。今より数年前、よく見た夢の答え合わせだ。取りこぼさないように、もやの中のできごとのひとつひとつを丁寧になぞる。
     どんなに困難で不可思議な事件だったとしても、必ず事件は解決する。伊田の勧めによって服部が話を聞けば、被疑者は罪を認めるのだ。しかし、伊田と服部両者の聞き取りは正反対の結果になる。そして繰り返し見ていた夢の最後、必ず伊田は死ぬ。

     顔の見えない亡骸たち。
     一方的にも感じられる、妄信にも似た狂言。
     もう伺い知ることのできない心のうち。

    「……理解してたのかって」
     ただの夢ではない。あれは何も理解していない自分の話だった。事件のことも、伊田のことも。理解したなんて烏滸がましい。そんなこと一度だって思ったことはないはずだった。ましてや名無し事件のことも、分かろうとするなと言ったのは伊田ではないか。
    「ははっ」
     おかしくて、みっともなくて、笑いたかった。ひとりの声はどこにも行き場がない。ふたたび片手を額に乗せ、天井を見つめる。シーツに広がる髪が鬱陶しい。横たえた身体は重く、そのまま沈んでしまいたかった。
     瞼を閉じて顔を浮かべようとしても、少しずつ思い出せなくなっている気がするのだ。たった一枚、遮られた布の先の顔がぼやけてはっきりしない。親友を殺した。そう言って姿を消した男の声、表情、匂い。同じ時を過ごしていた男の輪郭はにじみ、ゆらゆらとけていく。

     それでも、背中を追わなくてはならない。

     張り込みの夜に交わした言葉だけは、確かに本物だった。正直に話をしたんだから、正夢になんてしないでほしい。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖😭🙏💴
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works