短編 空に焦がれた怪物を僕は愛している 体に不具合が起こることはよくある。
その度に最適化され、調整される体は既に人ではなくなっているのだろう。
立ち入り禁止の張り紙が異質に何枚も貼られた部屋の前にイタカは立っていた。
試合を終えたばかりのイタカに告げられたのは、フールズ・ゴールドの不具合による試合出場停止によるスケジュールの変更と、彼の部屋への立ち入り禁止である。
そんな忠告を無視して、イタカはいつものようにノックもなしにドアノブを回した。
カーテンを引いたままの部屋は薄暗く、中央にのっぺりとした闇が横たわる。
扉の隙間から射し込む廊下の灯りが、その闇の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
どろどろとした黒い液体を纏った塊が、光を嫌うように蠢いている。
イタカは、躊躇なく部屋に踏み込んだ。
扉は支えを失い、緩かに閉じていく。一筋の線が細くなり、やがて灯りが消える。
深い闇の中、イタカは吐息に交えて囁いた。
「フールズ」
イタカの声に反応して、フールズと呼ばれた塊はずるずると音を立てて動きだす。
こんな状態になるほど、フールズは不安定だった。
荘園で人の姿【サバイバー】として過ごした時期が長過ぎたせいだと風の噂で聞いたが、その真実を知る術もない。
フールズも【サバイバー】の時の記憶は覚えてないそうだ。ただ、本来の人であった頃の記憶を時折、思い起こすそうだ。
その記憶ですら、遠く、霞がかっているのはイタカも同じであった。
いつか、自分たちは人の形ですら忘れてしまうのだろうか。
不意に脳裏を過った考えに、イタカは思わず苦笑を漏らした。
そんなことはどうでもいい。むしろ、願ったり叶ったりだ。
それなのに、フールズは人の姿のままがいいと話していた。
抱きしめる腕、口づける唇や、髪を梳く指ですら失いたくはないと。
「フールズ」
イタカは仮面を外し、無造作に床へ落とした。
からん、と小さな音が立つ。
すると、フールズが手のような形をしたものを伸ばして、イタカの滑らかな頰に触れた。
ぎこちない動きで撫でるフールズの手に、イタカは頬を擦り寄せる。
暫くそうしていると、ノイズが混じったような声がイタカの耳に届いた。
「そ、ら」
「中庭でランチを食べながら見るのもいいかもね」
「い、たか…」
「フールズ」
イタカは、どうしても甘くなってしまう口調をごまかすように、両腕を大きく広げた。
誘われるようにしてフールズは、どろどろした液体を滴らせながら人の形を作ろうとする。イタカの真似をして二本の腕を作ったまではいいが、足を上手く動かせず、その場でたたらを踏む。右に左に大きく揺れ、再び形を失い、黒い液体となってイタカの頭の天辺から全身を呑み込んだ。
どろどろの黒い液体が濁流のように押し寄せ、闇の中に引きずり込まれる恐怖をイタカは微塵も感じない。
フールズが抱きしめる腕の存在をどことなく感じながら、イタカは目を閉じた。
目が覚めたら、たまには自分からキスをして驚かせてみようと、イタカは悪戯っぽく笑い、意識を手放した。