フルイタ【地層探査×ブルーベリーケーキ】パンを前歯で無理やり噛みちぎり、奥歯で忌々しげに数回咀嚼する。大量の温い水をすかさず口に含み、パンともに喉の奥に流し込む。
ごくり、と喉を鳴らし、フールズは渋い顔をする。
手にとったパンを投げ出しそうになる衝動をぐっと抑え、口に再び運ぶ。噛んで千切って飲み込んで……。機械的に何度も繰り返す。
そして、苦痛でしかない食事を終える。
フールズは椅子の背に身体を預けた。
何を食べても味がしない。
金で買ったパンですら、そこら辺に生えている草と同じで、ゴムを噛んでいるような不快感だけが口に残る。
味覚がないからといって食べる行為を放棄しようにも、生き物である以上、それは不可能だ。
もって五日──。
あの時もそうだった、と水底に沈めた過去が脳裏を過った。
フールズは、あぁと重たい息を吐き捨てる。
必要最低限に食べるために働いて、寝るだけの生活。娯楽もない。いずれ訪れる死を今か今かと待ち続ける日々。
唯一の救いは、地層探査の仕事場は寡黙な奴が多く、黙々と目の前の仕事に集中できることくらいだろう。
フールズは、か細い雨が伝う窓をぼんやりと見つめる。
淡い色の灯りが滲んでいた。
部屋に微かな雨粒が窓を叩く音だけが響く。
それから程なくして、フールズは落ち着かない気分に押されて立ち上がった。
途切れることなく雨が降り続けている。
フールズは、傘もささずにフラフラと歩くが、目的地は決まっていない。
冷たい雨に濡れた背を丸めて歩いていると、不意に甘い香りが鼻を掠めて通り過ぎた。
次の瞬間、電流のような衝撃が全身を駆け巡る。
フールズは目を見開いた。思考するよりも体が激情に戦慄いた。喉の奥から唾液が溢れ出し、甘い匂いを強く欲する。仄暗い死の影に覆われていた薄暗い世界に一筋の光が射し込んだようだ。
フールズは、躊躇なく雨の中を駆け出した。
暗い裏路地のゴミ捨て場に、匂いの発生源があった。
ゴミの中に埋もれていた光のように眩い白い塊。
よくよく見ると、それは人だった。
胎児のように小さく丸まり、目を閉ざしている。
フールズはゴミの中から白い塊を引き上げた。
片腕で持ち上げられるほどに軽い小柄な少年だ。
妙な装飾が多い服は、こんな場所には似つかわしくない純白の色をしている。
視覚の情報を整理している間も、ゴミの異臭より強く甘い匂いがフールズの鼻腔を刺激していた。
(あぁ、これを食べたい)
そう思った瞬間、少年特有の透明な声が聞こえた。
「僕を食べたいだなんて、物好きだね」
「は?」
フールズが腕の中の人物へ視線を向ける。
顔の半分を覆った淡いレースのベールの向こう側に、深淵のような深く暗い色をした瞳が覗いていた。
「廃棄品だから、好きにすれば」
少年の表情は、氷点下の湖面のように静かだ。
一方でフールズは怪訝そうな顔をする。
「さっきから何を言っているんだ?」
「まさか、知らないの?」
フールズの言葉に少年は驚いた顔をする。先ほどとは打ってかわり、きょとんとした顔は無垢な少年のものだ。
フールズは濡れた前髪をさっと掻きあげた。まるで噛み合わないと、溜息を漏らす。
雨足も強くなってきた。こんなところで話し込んでいても良い事はない。
フールズは片腕に抱えた少年に「場所を変えてもいいか?」と訊ねる。
すると、少年は目をぱちくりさせ、くすくす、と笑い出したのだ。
地面を強かに叩く雨の音の中に紛れて、少年がぽつりと話し始めた。
この世には【フォーク】食べるモノと、【ケーキ】食べられるモノがごく稀に存在すると。
【7】の数字が少年に与えられた呼び名で、食べられるために店に飾られ、売れないから捨てられたと。
だから、フォークであるフールズがケーキの僕を食べたいと望むのは当たり前だと少年はそう言った。
白が床に広がる。
ぽたぽたと髪から滴り落ちる雨滴が、フールズの焦燥感を煽っていく。
雨の臭いに幾らか紛れていた甘い匂いが部屋に充満し、激しい眩暈を覚える。
少年の手を床に縫い留めたフールズは、咽せ返るほどの匂いに誘われるまま、首筋に顔を寄せた。
この薄い皮膚を裂いて溢れ出てくる真っ赤な血を啜ったら、どんな味がするのか。
フールズは低く呻き声を漏らした。
開いた口から唾液が落ちる。
舌先を伸ばし、皮膚を舐める。柔らかいびりびりとした感覚が舌先に残った。フールズが感じたことのない、味というものなのだろうか。蕩けるように旨く、満たされなかったものが埋まっていくようだ。
フールズは喉の奥でくつくつと笑った。
首筋から鎖骨まで舌を這わせ、柔らかい皮膚に歯を立てる。歯が肉に沈む。
少年は怯えた様子もない。ただ静かに天井を眺め、宵闇を切り取った色の双眸をゆっくりと閉じた。
「母さん」
微かな風が通りすぎる音よりも小さな声だった。
しかし、フールズの動きがぴたりと止まる。
歯が捉えている柔らかい肉の感触に、はっとしたフールズは少年から体を離し、髪を両手で掻き乱した。
「俺は何をしようとしていたんだ!!」
フールズは悲痛な声を上げ、壁に頭を打ちつけ始める。少年はぎょっとして体を跳ね起こし、止めに入った。
「落ち着いてよ」
「キミを食べようとしたのに落ち着いていられるか!」
「僕は食用だから、別に食べるのまち…」
「違う!キミは人だ!ケーキなんて関係ない!」
少年の言葉を遮ったフールズは声を荒げて言った。それから、扉に向かって指をさした。
「今なら間に合う。だから、出ていってくれ」
フールズは、早くと急かした。大きな体を丸めて、壁に頭を打つのを止めない。
少年は、フールズと扉を順繰りに見た。そして、大きな背中にぴたりとくっついた。
程なくして、沈黙が二人の間に落ちる。
少年は大きな背中に片頬を押し付け、やがて口をそっと開いた。
「僕はケーキで、誰かに食べられて終わる以外の生きた方を知らない。だから、僕の全部をあげるから、残さず食べてよ」
そう言った少年は、母さんからもった唯一の宝物の【イタカ】という名前をフールズに告げた。
少年、イタカは小さな手で、フールズの服を縋るようにぎゅっと掴む。濡れた服越しに感じる体温は恐ろしいほどに冷たかった。
フールズは、徐々に冷静になる頭でイタカを風呂に入れる必要があると考える一方で、二人っきりの状況が続けば、また襲ってしまうのではないかと不安が過った。
凹んだ壁を見つめながら、フールズは詰めていた息を吐き捨てる。
しかし、それがイタカの望みなら、気にすることではないかと、げんきんな考えですら浮かんでくる始末だ。
それに拾った責任もあると立派な建前が頭に浮かんで消える。イタカを雨が降る外に追い出して、見ず知らずのフォークに貪り喰われる想像して腹の底から煮え立つ思いが込み上げてきた。
これは俺のだと、暗い独占欲に気付くのは直ぐだ。それもこれも【フォーク】の性のせいだろうか。
フールズは、やれやれと首を左右に振った。
「フールズだ」
そう言って、フールズが振り返ると、急に支えを失ったイタカがよろめいて前のめりに崩れた。
「あっ」
小さな声をあげるイタカの肩を支え、胸元に引き寄せる。ふわりと柔らかい髪がフールズの首筋に触れた。
甘い匂いをさせるイタカは無防備に体を預ける。
フールズは、口をへの字に曲げて困った顔をした。
「大丈夫?話は風呂に入ってからにしようか」
「洗って綺麗にしてから食べるの?」
少し身を引いたイタカはフールズの顔を下から覗き込んで、そう言った。
否定もできたが、何を言っても聞かないだろうと思ったフールズは適当に聞き流して、小さな体を軽々と抱きあげた。
フールズと、戸惑いを隠しきれない声が聞こえたが、それも無視した。
綺麗に丸洗いしたイタカにたくさん食事を与えて、丸々と太ってから食べてもいいだろう。
惰性に生きるよりも随分と愉快だ。
ふと、思い至ったフールズは微笑を口許に浮かべ、浴室へと向かった。