輝賢 物憂げな愛を捧ぐ 一週間も前からマーズが、ヘーリオスに約束を取りつけていたディナーは小さな隠れ家で静かに開催された。テーブルに用意された豪勢な食事と普段は飲まないワインのボトルを前にしたヘーリオスは小首を傾げた。
「君を祝う記念日だよ」
マーズは慣れた動きで椅子を引き、着席を促した。
「記念日?生まれた日なんて僕も知らないけど」
「だからだよ。ヘーリオスの記念日を俺が決めたんだ」
そう言い放ったマーズは、さも当然だといった顔をする。
マーズとテーブルに並んだ食事を順に眺めたあと、ヘーリオスは小さく肩を竦めた。
こうなったマーズは頑固でいくら言っても聞かない。経験からよく理解しているヘーリオスは椅子に座った。
「勝手だ」
マーズが向かい側の椅子に着席するタイミングでぽつりと呟くが、口許は隠しきれない笑みが浮かんでいた。
テーブルの上に置かれた食事を全て平らげる頃には、甘美な酔いが回っていた。
マーズはグラスに残ったワインを舌で転がし、ゆっくりと喉の奥に流し込む。
深い渋みが広がり、鼻を芳醇な香りが通り抜けていく。
マーズは機嫌よく鼻歌を歌いながら、壁時計を見上げた。
そろそろ良い時間だ。
「夜はこれからだよ」
そう囁いたマーズは、頬を仄かに赤く染めるヘーリオスにしっかりとマフラーをぐるぐると巻き、夜の外へ飛び出した。
本格的な冬の寒さが頬を刺す湖沿いを肩を並べて歩く。
ちょうど、湖の上を弓なりに掛かる橋を真ん中までゆったりと進んだ時。
マーズが足を止め、ヘーリオスの名前を呼ぶ声は愛おしさが滲み出ていた。
前を歩いていたヘーリオスが中身のない右袖を風に揺らしながら振り返る。
「お手を拝借しても?」
そう言ったマーズは、優雅にコートをふわりと広げて片膝をついた。すっと目の前に差し出された手をヘーリオスはぱちぱちと目を瞬かせて見つめる。酔いの回ったふわふわとした頭は考えなしに、マーズの手の上に自分の手を置いた。
間もなくで日付が変わる夜更けに通り過ぎるする人もいないが、外だと気づいたヘーリオスは、咄嗟に手を引き抜こうとする。
しかし、強く握られた手は簡単に抜け出すことはできなかった。
ヘーリオスはぐっと眉間に皺を寄せる。
「マーズ」
白い吐息に交えた囁き声は、冬の夜に消えた。
静かな沈黙が訪れる。
ヘーリオスは小さくかぶりを振った。氷のように冷たい手と手が触れた合ったところから、微かな温もりを滲ませていく。諦め半分に、ヘーリオスは重なった手を凝視する。
そんなヘーリオスの様子を静かに眺めていたマーズは口の端に微笑を浮かべた。
指の腹でヘーリオスの指を丁寧になぞっていく。
人差し指から中指、そして薬指まで辿り着けば、そこに鎮座する指輪の無機質な冷たさがマーズを陶酔させた。
これを愛の形とするなら、そんな綺麗なものではない。
醜く歪で底のない溝沼のようなものだ。
ヘーリオスを手に入れるために何でもした。それこそ死体袋に入り、死の偽装ですらした。
そこでマーズは不自然に揺れる袖を視界に捉え、唇を歪めて笑う。
ヘーリオスの右腕は肩から下がない。そうしたのは俺自身だった。
独房から連れ去り、適切な治療を受けさせればまだ間に合った腕を切り落としたのだ。
それから、晴れて指名手配犯となった二人で転々と移動して暮らしている。
──恨めばいい。
──俺のせいにすればいい。
──ヘーリオスを不完全にしたのは俺だよ。
呪いのように囁くが、ヘーリオスは何も答えない。
俺から与えられるものを受け入れ、ただ静かに過ごしている。
答えないことで、全てを惰性に受けいれることで、俺が深みに嵌まって離れないようにヘーリオスは仕向けているのだ。
決して俺のせいだと責めてくれない。
だから、俺も曖昧な返事をするだけだ。
そのせいで、ずっと俺に囚われている。
俺もまたヘーリオスに囚われている。
「ヘーリオス、また来年もお祝いしようね」
マーズは、吐息のような声で言った。ヘーリオスの指先が神経質にぴくりと跳ねた。
夜の闇に沈んだマーズの瞳の奥を覗くように、ヘーリオスは無言のままでじっと見つめる。酔いはとっくに覚めていた。
「マーズ、君が追い求めるものは……」
「君だよ。もうこの先もずっと一緒だ。ヘーリオス」
ヘーリオスの言葉を遮り、マーズは強く言った。
やがて、絡ませた視線の先で微量の熱が浮かんで消える。
簡単に抜け出せるように、マーズは握っていた手の力を抜いた。
ヘーリオスは無言のままでマーズを見下ろす。
互いに駆け引きをしながら、曖昧な距離感で手を取り合って踊るさまは滑稽である。
「愛している」
マーズが囁き声で呟く言葉はまさに呪いだ。
何度も何度も繰り返し囁き、これが愛だと刷り込ませていく。
マーズは月光の下で赤く煌めく手の甲に恭しく口付けた。
ヘーリオスは歪んだ顔で薄く笑い、マーズの頬に指を滑らせる。
すらりとした輪郭をなぞり、髪に指を絡ませて優しく梳いて流した。
「マーズ、君は愚かだね」
そして、僕と同じで臆病だ。
喉元まで出かかった言葉を無理矢理飲み込む。
言葉も指輪もいらない。ただ、マーズが傍にいればいい──。
それを言ってしまったら、マーズはもう追い求めてこなくなるだろう。
そうしたら──。
ヘーリオスは外気で冷たくなったマーズの目元を指先で軽く触れてから離した。
だから、何も言わない。ただ、マーズの求める答えを言わずに受け入れるだけ。
それが愛だと教えられた。
「そうだよ。俺は今欲しいものを手にいれるのに躍起になっている」
そう言ったマーズが視線を上げると、ヘーリオスの物憂げな顔が至近距離まで近づいていた。
唇が触れ合わさる寸前のもどかしい距離。ヘーリオスはその先へは踏み込んでこない。
マーズは静かに笑い、ヘーリオスの後頭部へ手を回した。柔らかい髪を撫でて、軽く引き寄せると、ようやく唇と唇が触れ合った。