耳栓耳をふさげるなら別になんでもよくて、ただ爆音で周りのざわめきを遮断したくて、イヤホンを耳の穴に突っ込んだ。選曲する気力さえなくて、画面上の動画投稿サイトの赤いアイコンを押して、おすすめに出てきた適当な曲をタップする。やたらと切れ味のいいピアノの音に乗っかる知らない女性ボーカルの声。これで周りの音は聞こえなくなった。雑踏をかき分けて、早く家に帰らなくちゃ。
慣れない人混みに揉まれてなんだか吐きそうな気持ち悪さに襲われながら、何度も唾を飲み込む。白昼堂々、こんな道端で吐く訳にはいかない。存在しているだけで邪悪なこのクソ吉がもっと酷い醜態を晒す前に、はやく。
耳の中ではぐわんぐわんと歪んだシンセサイザーの音が響く。とてもうるさくて、そのうるささが自分をすんでのところで正気に戻してくれる気がした。
突然、ぐい、と肩を掴まれる。
「っ!」
明らかにただぶつかっただけではないようなその衝撃に体が強ばる。
掴まれた肩の方を恐る恐る横目で見やると、そこには知っている顔が立っていた。派手なピンク色の髪にカラフルなジャケット。
「んだよ、イヤホンしてたのかよ」
「あ、猿川さん…」
肩を掴んだその相手は、少し怖い同居人。
「名前呼んでも返事しねえから、機嫌でもわりぃのかと思ったわ」
「すみません…」
イヤホンを耳から外しながら言う。名前を呼ばれていたみたいだけど気付かなかった。申し訳ない。死んでお詫びしたい。
「なに聞いてたんだよ」
「うぇっ」
猿川さんがイヤホンを指さしてそう尋ねてくる。
「え、えっと…」
なに聞いてた、と言われても、今聞いていたのは曲名もアーティストもわからない知らない曲だ。口ごもっていると、猿川さんはイヤホンが繋がっているスマホの画面を覗き込んできた。
「ふぅん、この曲好きなの?」
「あっ…い、いえ……。知らない曲です…」
「知らねえ曲聞いてたのかよ?」
猿川さんと肩を並べて歩く。猿川さんも家に帰る途中らしい。
「…なんの曲でもよかったので…」
「え?」
「イヤホンをしていると、落ち着くんです…。周りのざわめきが聞こえなくなって…。外界と遮断されて。自分と、音だけの空間になったみたいで、…いくらか、恐怖が薄れるんです」
「……」
あ、つまらない話をしちゃったな、なんて思いながら猿川さんの顔をちらりと窺う。猿川さんはなにか考えるように目を細めたあと、
「…ん、そうだな」
と呟いた。
そういえば猿川さんもよくイヤホンをして音楽を聞いていらっしゃる。猿川さんは音楽が好きだから、好きな曲を聞きたくて聞いてるんだと思うけど…、猿川さんにも、そういう日があるのかな。
猿川さんはスマホを取り出すとポチポチとタップし始めた。その十数秒後に届く、通知の微振動。画面を見やると、猿川さんから何かしらの動画のリンクが共有されていた。
「なんでもいいならそれ聞けよ」
黒と赤の滲んだサムネイルに、英語のタイトル。
「俺の好きな曲。クソあちぃ曲だから」
ニヤリ、と口角を上げる猿川さん。
画面と猿川さんの顔を交互に見て、思わず、わ、と声が漏れる。
「あ、ありがとうございます…!」
なんだかすごく嬉しくなる。猿川さんが好きな曲を共有してくれたことが。
「聞きます…!今聞きます!あ、違う、今聞くのは違うな、猿川さんがいるのに…!あの!あとで…あとで聞きます!」
そう伝えると、猿川さんはくく、と喉を鳴らして笑った。
「気に入ったら他の曲も教えてやる。とっておきの耳栓を見つけろ」
「はい…!」
話しているうちに、だいぶ家の近くまで来た。家に帰ったら早速聞いてみよう。
共有してもらった曲を、まだ聞いてもいないけれど、“お気に入り”のプレイリストに入れた。また、外が怖くなったら、お守りみたいに耳を塞げるように。