青と沈む.
「なあ、もし俺が消えたら……お前どうする?」
けたたましい音を鳴らして起床時間を知らせる目覚ましを止める。力加減を覚えた俺はもう時計を壊すことはなくなった。
久しぶりに夢に出てきた懐かしい人物に思いを馳せる。
出会いから気に食わない奴だった。何度言っても梅宮さんにナメた口を利きやがるし、俺の視界をすばしっこくチョロチョロしやがるのにもイライラした。
二大エースだなんだと囃され背中を預ける相棒となり、次第にその存在は大きなものとなっていった。互いが互いの熱に浮かされ関係性が変わるまでそう時間はかからなかった。俺もアイツも、どちらが発端かを譲ることは最後までなかったが。
「……ねむ…………」
気怠い身体を無理やり起こして洗面所に向かい歯ブラシを手に取る。
高校を卒業して、俺は大学へと進み理学療法士になった。あんなに元気だった祖父が、出先で転んだ拍子に腰を痛めてからは以前のようなやかましさを失ってしまった。「寄る年波には勝てねえな」と寂しげに笑う祖父の顔がなんだかとてつもなく悔しくて、この道を選んだのだ。
通勤の利便性から一人暮らしを選び、まこち町を離れてから何度目かの春が来た。この季節が来る度に俺は決まってアイツの夢を見た。卒業と同時に忽然と姿を消してしまった、春の花の名を持つアイツを。
.
「来週、久しぶりに集まんね?」
卒業して暫くたつも、多聞衆3-1という名前がつけられたままのグループチャットに通知が一件付いたのは先週のことだった。
進学した者たちもそれぞれ卒業し、社会人として働くようになってからもクラス会という名目で定期的に開催されるそれは、主に杏西から発信されることが多かった。ものの数時間で全員が既読となり、日程や場所などのやり取りが続く。杉下は勤め先の病院のシフトを確認し、参加の有無を訊ねる質問にだけ「行く」と短く返信して画面を閉じた。
梅宮さんの「仲間を大切に」という教えは当然ながら現在も有効で、俺は柄にもなく今まで開かれたクラス会のほとんどに参加していた。卒業と同時にまこち町を離れた者は少なくはなかったが、こうしてしょっちゅう連絡が来るのでは疎遠になりようもなかったというのもある。結局全員から参加の連絡があったようで、在学三年間で培った絆は健在だったようだ。
━━ただ一人を除いて。
.
勤務を終え、店へと向かう。
一度家に寄ったせいで遅れてしまい、店内に入ると既にクラス会は始まっていた。
「あっ杉下さん!こっち席空いてますよ」
奥の席で楡井が手を振ってここだと合図をする。三年間でグンと背は伸び、蘇枋との秘密の訓練だとかで図体は多少大きくなったが未だに敬語は外れないままだ。
「遅かったですね」
「杉下くん久しぶり。相変わらず忙しそうだね」
楡井と蘇枋は同じ大学に進み、大学を卒業した今もつるんで行動することが多いらしい。蘇枋は相変わらずのらりくらりと何を考えてるのか分からないが、楡井は卒業後も町を護りたいという強い気持ちは変わることなく、今は立派な警察官となり日々奮闘しているらしい。
「桜から連絡来てないのか?」
隣のテーブルから聞き慣れた名前が出て、思わずハッとする。
我らが級長、改め三代目防風鈴総代の桜遥は、高校を卒業してから何かと理由をつけてはクラス会に参加せず、チャットの返信すらも徐々に来なくなりついに連絡すら取れなくなってしまっていた。
「アイツ、どこで何やってんだ?」
「俺卒業式以来一回も会ってねえよ。誰か会った奴いる?」
「誰か連絡先知ってる奴いねえのか?」
結局誰一人連絡先を知る者はいなかった。
「す、杉下さんには連絡……」
「いや、一度も来てねえよ」
かつて副級長として桜の隣に立っていた楡井と蘇枋だけが、俺と桜の関係を知っていた。当時はバレてしまった気恥しさと、察しの良すぎる蘇枋に苛立ちすらも覚えたが、付き合い始めてからも喧嘩の絶えない俺たちの仲を何度も取り持ってくれたのは他でもない彼らであった。
この二人は三年間ずっとアイツの右腕のような存在だった。副級長として、良き友として、付き合っていたとはいえ顔を合わせる度に喧嘩していた俺なんかよりもずっと信頼し合っていたのではないだろうか。
卒業後すぐに連絡が取れなくなってしまったことを心配した二人が桜の元を訪れた時には、既にあの部屋は引き払われた後だったという。
俺たちはただただ無言で空になったグラスを見つめていた。
.
クラス会も終わりそれぞれの帰路に着く中、楡井の「少し歩きませんか」の提案に頷いた俺は、蘇枋の後ろを数歩遅れて歩き出した。
「桜さん、ほんとにどこで何してるんでしょうか……」
「何も言わずにいなくなっちゃうなんてね」
足は自然とあの頃毎日歩いた学校に続く道へと向いた。卒業してからまだ数年しか経ってないはずなのにこんなにも懐かしく思うのは、それだけその三年間が密度の濃いものだったということだろうか。
所謂『青春』という言葉だけで表してしまうのは勿体ない程、あの三年間で得たものは今もなお俺を構成するかけがえのないものであった。河川敷や空き地、商店街の脇道など全ての場所に何かしらの思い出があった。その一つ一つを辿りながら商店街の角を曲がる。
時刻は午前零時をまわったところだった。しんとした商店街にアーケードの風鈴がチリンと鳴り響く。
「…おい、あれ」
目線のずっと遠く先、突き当たりに構える風鈴高校の門扉に佇む一つの影が目に入った。こんな時間に?と考えたのも束の間、目に入ったその人物の相貌に目を奪われる。街灯に照らされながら白と黒に分かれた髪が風に揺れた瞬間、誰ともなく駆け足でその人物へと駆け寄った。こちらを振り向き、驚きで目を丸くする彼の姿はあの日のままだった。
「お前ら……なんでこんな時間に」
「クラス会の帰りで……って!そんなことより!どうして……」
捲し立てる楡井を他所に蘇枋は、久方ぶりの邂逅に驚いてるのか、はたまた桜が口を開くのを待っているのか口を閉ざしたまま動かない。
「おい」
「あっ杉下さん喧嘩は……」
楡井の静止を遮るように問いかける。
「お前、なんであの日のままなんだ」
俺たちはもう、学生と間違われるような歳ではない。クラスで一番背の小さかった楡井ですら、今となってはその顔つきは大人そのものだった。ところが、今目の前にいる桜の姿はまるで時が止まってしまったかのように幼さの残るあの日のままだった。
いや、在学中だってそうだ。
いつの間にか楡井や桐生に身長を越され、クラス内で桜だけ身長が伸びなかったことをよく揶揄われていた。
「桜くん、それ……」
「たまたま通りかかって、懐かしくてつい近くまで来ちまったんだ」
「そうじゃなくて…それは…」
「あーあ。懐かしんで来てみるもんじゃねぇな、たまたまお前らに会っちまうなんてよ」
そう言ってバツが悪そうに笑う姿はあの日の━━もっと言うなら高校一年生の時の姿のままだった。
「もうすぐ遥が目を覚ますからな。身体、返さなきゃなんねーんだ」
「さ、桜さん……?それってどういう……」
首を傾げる楡井にフッと微笑み返す表情を向け、桜はゆっくりと話し始めた。
「遥は俺の双子の兄貴だよ」
「桜さん双子だったんですか!?」
「いまだに双子は忌み子だとか言ってるような排他的な地域でよ、俺には名前も戸籍もないけど」
「この時代にそんな……」
「……ただ、遥は身体弱かったから俺は間引かれずに済んだってわけ」
「そ、そんな……間引くだなんて……」
「ちょっと待て、その話とお前の見た目の話がどう繋がるんだよ」
「た、たしかに……どうして桜さん、高校生の姿のままなんですか?それに、身体を返すってどういう……」
「待ってニレくん。桜くん、場所を変えない?すぐに終わる話でもないでしょ。杉下くん、桜くんと一緒にどこか座れる場所探して待っててくれない?俺たち飲み物でも買ってくるよ」
蘇枋の提案に頷き、学校を後にする。なんともあからさまな気遣いにため息が出る。
正直、半歩前を歩く後ろ姿に、俺は動揺していた。
この数年間は桜を忘れようと必死だった。そうやって必死になるくらいには大切な存在になっていたし、事実そのように振る舞っていたつもりだった。
嫌になったのならそう言えばいいと、恨んだこともあった。別れも告げずに宙ぶらりんなままで放り出されて、この気持ちにどうやって収拾をつけたらいいのかもわからなかった。
.
河川敷の階段を数段下りて腰掛けた桜に促され、少し間を空けて座る。先に口を開いたのは桜だった。
「杉下」
「あ?」
「探した?俺のこと」
「…………誰が探すか馬鹿が」
「ふっ、そうかよ。薄情な奴」
あの頃と変わらぬ軽口に懐かしさが込上げる。こうやって軽口を叩きながら過ごす時間が好きだった。
「……さっきの忌み子の話なんだけどさ、あながち馬鹿にもできねぇんだよ」
「…………?」
「どんなオカルトだよって思うけどさ、俺と遥は魂の入れ替えができる」
「……」
あまりにも現実離れした文字の羅列に眉を顰める。
「まあ聞け、俺の家ではそういう力を持って生まれてくる人間がたまに出るんだよ。こういう風貌で分かりやすくな。だけどな、力が大きすぎて器がついていかねんだとよ。そのための代替として必ず双子で生まれるんだ。器が成長して耐えられるようになったら入れ替えられるように」
「そんな馬鹿みてぇな話……」
こんな突拍子もない嘘がつけるような人間じゃないことはわかっているが、到底すんなり受け入れられる内容ではなかった。
「信じられねえと思うけどな、まあ俺は一回見てっから……従兄弟の兄ちゃんがいたんだよ。優しかった。でも替わらせられちまった」
「…………」
「入れ替えを目前にすると身体は成長を止める。器の強度を上げるために。俺の身体が若く見えるのはそういうことだ」
「……その話が本当だったとして、お前はどうなんだよ」
こちらを無言で見つめる様子に、『そういうことだ』と察する。
「馬鹿お前そんな顔すんなよ。俺が消えても遥は残るし……その……なんだ、もしまた付き合うとか……遥はお前のこと……す、好きになると思うぜ、俺と双子だしな」
「…………」
「お、怒ってんのかよ……何も言わなかったのはまあ……悪いとは思ってるけど……だ、大体俺ら喧嘩してばっかで……」
「…………ふざけんなよ、てめえ」
自分の声とは思えないほど地の底から響くような低い声が口をついて出た。沸々と湧き上がる苛立ちを抑えられない。
「諦めたみてえな顔して自分語りか?クソチビが。俺は……そんな腑抜けたツラの奴を担いだ覚えはねえんだよ」
胸ぐらを掴んで思い切り引き上げ無理やり顔を上げさせる。
「顔を上げろ桜遥!!俺はてめえを見てるだろうが!!てめえは今どこ見てんだよ!!」
今にもこぼれ落ちそうな黄昏が、杉下を映したまま一瞬大きく揺れた。
「……クソ、離せ馬鹿痛えよ」
消え入るように呟き手を振り解く桜を見て、なぜか無性に腹が立った。
相棒を総代として担いでいこうと決めた日、長ランを風に靡かせ佇む姿に見惚れて目を逸らすことができなかった。
いつだって道を切り開きながらどんな困難にも立ち向かっていく背中を見るのが好きだった。
非常に不本意ではあったが、誰よりも強いその眼差しに、俺は惹かれていたのだ。
『なあ、もし俺が消えたら……お前どうする?』
いつかの問いかけに、俺はなんて応えたんだっけな。俺のことだからどうせ大して意味も考えずにぶっきらぼうに突き放すような返答をしたのだろう。
「その身体、くれてやれ」
「……え…………」
「その代わり、俺の魂ごと全部お前にやるよ」
「は……はあ!?お前何言って」
勢いよく顔を上げた桜と目が合う。動揺に震える瞳が俺を捕える。
「俺はお前のもんだ。誰にもやらねえ。……桜にも」
「……ば、馬鹿かお前……しかもなんでそんな偉そうなんだよ……つーか俺だって桜だし」
「俺の相棒は『お前』だけだろうが」
「…………ほんと馬鹿じゃねえの、お前。この先いくらでも……誰か……女と結婚して子供つくったりとか……遥だって、いるのに……」
「……お前だけだってハッキリ言わないとわかんねえ?」
「……………………わかんねえ」
「……この甘えたが」
背中にまわした腕に力を入れる。
俺の相棒が、やっと帰って来た。
「俺は二度と桜に会わねえ」
「……遥が可哀想だろ」
「楡井と蘇枋がいるだろうが。てめえこそまた俺の前からいなくなってみろよ、必ず見つけて今度こそ引き摺り回してやるからな」
「こえーよ普通に」
「……今生では最後だからな。しっかり堪能しとけよ」
「だからなんでお前はそんなに偉そうなんだよ……ほんとムカつく野郎だな」
憎まれ口を叩きながら額をゴシゴシ擦り付けてくる小さく丸い後頭部を撫でる。綺麗に分かれた白と黒の境目を指でなぞると、桜は擽ったがって肩をすくめた。
寂しくはない。桜は消えてしまうが、『俺が愛した桜遥』は俺だけがその存在を知り、そして永遠に俺だけのものになるのだから。
.
.
.
「せっかく桜さんが帰って来たのに……次は杉下さんがいなくなるなんて。一体何処に行っちゃったんでしょうか……」
「……そうだね、桜くん、何か知ってる?」
「いや…………」
杉下がいなくなってしまったと連絡が来たのは、梅雨に入ってすぐの事だった。無断欠勤を心配した同僚が訪ねたところ、既に部屋はもぬけの殻だったらしい。
日に日にやつれていく杉下の祖父母が気がかりで、俺たちは月に何度かはこうして様子を見に来ようと決めたのだ。
「今日はそろそろお暇しようか。雨が強くなってきた」
「そう……ですね、桜さん、行きましょう」
「…………」
「……桜さん?」
「なんでもない。行こうぜ」
「ニレくん携帯忘れてるよ、ほら座布団の上」
「あっ、す、すみません……ああっ、さ、桜さん待ってくださいよ」
軽く頭を下げ、杉下の実家を後にする。
杉下はもうあいつの元にいるのだろうか。全てを失っても構わないと思わせる程の愛情を受け、あいつは大層幸せだろう。
━━馬鹿馬鹿しい。
何も告げずに姿を消し、あの日たまたま偶然杉下の前に現れた?
違う。全てを奪われた腹いせか、それとも本当に杉下を俺に取られることに耐えられなかったのか。
あいつはその悲惨な生い立ちすら利用して杉下を手に入れたのだ。相棒として傍に置くだけでは飽き足らず、その魂までも。
「お前らお互いに依存しすぎ。怖ぇよ」
恨み言のように呟いた声は傘に打ち付ける雨音でかき消され、誰の耳に触れることもなかった。
終