杉下んちの厄介ジジイ「イ!!てめえジジイに何か吹き込みやがったな!?」
「は」
登校するなり深海色の髪を振り乱して杉下は言った。いや、吠えたが正解だろう。歯を食いしばり、目を見開くまさに威嚇をして窓辺に座る桜に吠えかかった。しかし桜は吠えられる理由が特に思い当たらなかったので、ただ杉下に朝一番で吠えられたという印象だけがあった。すう、と桜の目が据わり、地を這うように「なんだてめえ」と杉下を睨みつける。
「喧嘩売ってんなら買うぞ、あ?」
「てめえじゃねえなら誰がいんだよ、あ?」
まさに一触即発。クラスメイトたちはせめて流れ弾は喰らうまいとそそくさと二人から遠ざかる。
「てめえは本当に要るところまで端折りやがってよ。言葉にしなきゃわかんねえことってのはあんだよ、ボケ。梅宮に聞かなきゃなんもわかんねえのか?あ?」
こめかみに青筋を立てて煽り散らす桜に、杉下は間髪入れず「さんを付けろ」と凄んだあと、口を曲げてじとりと桜を睨みつけた。
「……ょ」
「あン?聞こえねえな」
「じゃあなんでジジイがてめえとキスしたかどうかなんて聞いてくんだよ」
「………………は」
説明をしよう。
二人は昨日、ひどい夕立にあったのだ。たまたま二人でいるときに、たまたま杉下宅の近くで。杉下は桜を自宅に連れて帰った。近かったといえどまあまあ濡れてしまったので、服を乾かすためにしばらく桜は杉下宅に滞在したのだ。まあ、その、少しだけ、冷えた体を温めるために、気持ちの良いことも、した。二人は恋人同士であるし、好い人と触れ合いたいと思うのは健全であると言えよう。
そして杉下の言う「ジジイ」とは、なんの捻りもない杉下京太郎の祖父のことである。そう、桜は昨日「ジジイ」に会っているのだ。
いつもボソボソと掠れた声で喋る杉下とは似ても似つかない快活な老人だった。耳が少しばかり遠いのか、すぐ近くにいるのに一階と三階くらい離れているかのような大声で話すのだ。
この「ジジイ」に関して、こんなやりとりがあった。
〜回想/杉下宅、玄関〜
「お、じゃま、します……」
「……おう」
浸水してぐちょぐちょになった靴を桜は早く脱いでしまいたかったが、「恋人の家」に心臓は早鐘を打つし、冷えた体は顔ばかり熱いし、口をキュッと噤んでその場で困るしかなかった。杉下はといえば、ぐちゃぐちゃの靴の右側を壁に手をついて脱いでいるところだった。相当気持ち悪いのか、顔をグッと顰めて舌打ちを溢すと、普段の話し声が嘘のような声量で家の奥に呼びかけた。
「じいちゃーーん!雨ーー!」
じいちゃん。
桜はキョトン、とした。なんと言った?じいちゃん?杉下が?全くの無意識だったのか、左の靴を脱いで玄関の床に揃えるとそこで初めてはた、と杉下は動きを止めた。
「……じいちゃん」
「言ってない」
「いや、言った」
「言ってない、耳まで悪いのか?大変だな」
「無理があるだろ誤魔化しによ」
「うるさい、言ってない。いいな?」
ぷいと顔を背けてしまった杉下は裸足で上がり、「オイ、ジジイ!!」と先程の声量で叫びながらのしのしと家の奥へと歩いて行く。深海色から覗く耳が僅かに桜色に染まっているのを見た。
かわいい。おれの大事なひとがこんなにかわいい。桜はぎゅう、と胸を押さえて深く深く息を吐いた。そのとき、杉下の声量よりも遥かにデカい声が響いた。
「うるせえな!デケエ声出してんじゃねえ!聞こえてんだよ!」
桜はひとつぱちりと瞬きをした。家の奥から若干腰の曲がった老人が嘘みたいな馬鹿デカい声を上げながら出てきたのだ。杉下と同じ目の色をした、杉下と同じように顔を顰めたひとだった。老人は桜を認めると、また馬鹿みたいな声を上げる。
「!?オイ、京太郎!友達来てんなら言え!お前は要るところまで端折りやがって!濡れたのかい!寒かったろ!ひでえ雨だ!」
「あ、え」
「ああ、ああ、学ラン寄越しな、掛けといてやるから!もうそこで脱いで風呂行け!京太郎!京ちゃん!風呂溜めろ!聞いてるか!」
「ダァ!うるせえクソジジイ!聞こえてんだよ!その呼び方やめろ!」
京ちゃん。
遠く聞こえる杉下の声に桜はまたキョトン、とした。老人に言われるまま学ランを脱ぎながら、飛び出して来たなんともかわゆい呼び名に桜は宇宙を背負った。
「ごめんなあ!アイツ無口なくせに口悪くて無愛想だろ!昔はじいじ、じいじってそりゃもう可愛かったんだがなあ!今はもうすぅぐ手ェ出るしよう、中学生になったばかりの頃なんて上級生軒並み張り倒して来て目ェ剥いたもんよ!」
「ジジイ!!!!要らんこと言ってんじゃねえぞ!!!!」
「うるせえな!!聞こえてるっつってんだろうが!!馬鹿デカいのは図体だけで良いんだよ!!ま、なんか仲良くしてやってくれや!」
老人はニカリと笑うと桜の学ランを受け取った。……杉下もこうやって笑うんだろうか。想像しただけで顔がさらに熱くなってくる。
「だい、じぶ、ぜんぶ、好き、だから……です……?」
「!……そうかい、ありがとうね」
取ってつけたような敬語で辿々しく話す桜を老人は優しい目で見つめた。梅宮が良くする、嬉しくてたまらない、という目だった。
「あ?まだ脱いでないのか。おら、タオル」
杉下はシャツとパンツの出立ちでペタペタと奥から顔を出すと、ふかふかのタオルを投げ寄越してくる。
「オメエの学ランは!」
「掛けた」
「なんだって!?」
「掛けた!!」
「早く言え!あー何君だった!?」
「え、あ、さ、さくら!」
「桜君な!風呂入ってゆっくりして来な!」
老人は学ラン片手にひらひらと手を振って奥へと去って行った。桜は杉下をちらりと見やると、やはり杉下はむつりと口を曲げて桜色に染まっていた。
「おい、早く脱げ」
靴、と杉下が指を指すと桜はああ、とぐちょぐちょで気持ち悪かったことを思い出して、水を吸って重たい靴をもたもたと脱ぎ出す。やっとのことで脱げたと思ったら杉下はヒョイと桜の脚を掬い上げて抱え、ペタペタと家の中へと歩き出した。所謂、お姫様抱っこ。
「は!?おい、なに」
「うるせえ、動くな、こっちのが早い」
杉下は意外と体温が高いのだ。体に触れる手が、密着する胸が、雨で冷えた体を温める。それがなんとも、心地良かった。
「……ね、一緒に寝よっか。なんか、お前を抱えて寝たいわ」
杉下はびっくりした顔をして、フン、といつもの片側だけ口角を上げる笑みを作った。
と、いうようなことがあった。
結論から言うと、桜はめちゃくちゃに心当たりがあることを思い出した。
『だい、じぶ、ぜんぶ、好き、だから……です……?』
これだ。「ジジイ」に杉下への好意を、溢した。年寄りというものはとにかく知りたがるのだ。それがかわゆい孫の甘酸っぱい色恋のことなら尚更知りたいのだ。だってかわゆい孫がかわゆく誰それが好き、誰それがかっこいいと一生懸命な様はそれはもうべらぼうにかわゆいから。
桜は一気に顔を上気させ、震えながら口をキュッと噤んだ。俺のせいだわ……知りたがりの孫が可愛くてしょうがない老人を舐めた桜の責だった。でもそれを認めるのはなんとなく癪に障るので、せめてもの意趣返しを繰り出した。
「俺が悪かったよ、ごめんって、そんな怒るなよ京ちゃん」
杉下は鬼の形相で桜の顔の下半分を掴むが、時すでに遅し。クラスメイト全員が京ちゃん。と銀河を背負いポカンとしていた。杉下はこの世の終わりかのような顔をした。
京ちゃんの衝撃をいなした者たちから順に、なんだ痴話喧嘩か……と身構えて避難していた所から先程まで寛いでいた場所に戻っていく。
「やって……くれたな……お前……」
杉下はこの世の梅宮以外全てを恨むような声で桜に詰めると、ふるふると顔を赤くして震える桜にクラスメイトが面白がって援護射撃を開始する。
「おい、はるちゃん謝ってんだろ。許してやれよ京ちゃん」
「そうだぜ京ちゃん、はるちゃんかわいそうだろ」
「わ〜京ちゃん乱暴者〜!はるちゃん大丈夫〜?」
やんやと盛り上がるクラスメイトたちに杉下は顔を片手で覆い、深く深く息を吐いた。そして地を這うような低い声でぽつりと溢す。
「お前らの頭を一人ずつブン殴っていけば今聞いたこと全て消えると思うか?」
きろりと指の間から感情の消え失せた目を向けると、クラスメイトたちは改めて逃げ出した。