バニラ・ワルプルギス そこは西の国。バニラの香り漂う緑豊かな森の奥に1つの教会が佇んでいました。
教会には6人の少女が住んでいます。
少女は6人揃って肌が白く、髪が長く、顔が似ており、皆「ワルプルギス」と呼ばれていました。少女以外には誰が誰だか分からないほどに似ていたのです。
その中に1人、瞳が檸檬色の少女がおりました。笑顔が眩しい女の子でした。
教会では1日に1回、牧師様がリンゴとパン、ミルクを人数分運んできてくれました。
少女たちは食事の時間が楽しくて、
「今日のリンゴは甘いね」とか
「パンが硬くなってしまっているね」とか、
たくさんお喋りをしていました。
6人の少女たちは生まれてからずっと一緒でした。……生まれてからこの教会で、ずっと一緒……。
何年かたったある日のことでした。1人の少女が突然言いました。
「お腹がすいた。これじゃ足りない。」
体が少しずつ大きくなっていた少女たちには
1つのパンとリンゴ、ミルクでは足りなくなっていたのです。
お腹がすいたと言った少女が次の日、牧師様にその事を話すと、少女は教会の外に連れていかれました。
「お外はどんな所なんだろうね」とか
「今頃なにをしているんだろう」とか、
「リンゴを沢山取ってきてくれてるんだよ」
とか……
そんな話をして彼女たちはワルプルギスの帰りを待っていましたが、とうとうその日、ワルプルギスは帰ってきませんでした。
次の日、牧師様はいつも通り食事を持ってきてくれました。
檸檬色の少女が訪ねます。
「牧師様、ワルプルギスは何処に行ってしまわれたのですか?」
少女たちは牧師様の言葉を静かにまっていました。牧師様は静かな声色で話し始めます。
「ワルプルギスは天使になりました。」
その言葉は少女たちにとってどんな言葉よりも嬉しい事だったのです。
それもそのはず、ワルプルギスたちは生まれた時から人類の味方である『天使』になるために教会で生活しているのです。
牧師様はことある事に言いました。
「天使は我々の希望となる存在。
自分の存在に誇りを持ちなさい。」
昨日まで一緒に生活してきた少女が使命を果たした。ワルプルギスたちは目を輝かせました。
「本当に…!?ワルプルギスが……?」
「すごい、すごいよ……!」
彼女たちから次々に賞賛の声が上がります。
「ああ、とても喜ばしいことだ。
だから今日は……」
そう言って牧師様が持ってきた食事を見せると、パンとリンゴとミルクの他に、銀の器に入った透き通ったスープがありました。
「牧師様、これは…?」
檸檬色の少女が質問すると牧師様はこう答えます。
「この森で育った獣の肉が入ったスープだ。
よく味わって食べなさい。」
スープもお肉も食べたことの無い少女たちは大変喜びました。
「美味しいね」とか
「ワルプルギスにも食べて欲しいね」とか、
その日は特に沢山お喋りをしました。
ワルプルギスが居なくなってから半年がたったある頃。
「お腹すいちゃった……」
と、1人の少女が言いました。
その時はちょうどご飯の時間で、他の少女たちはまだご飯を食べていました。
ですが他の誰も、何も言いません。
檸檬色の少女が言いました。
「私のリンゴ、あげようか?」
お腹がすいた少女は答えます。
「いいの?ワルプルギス?」
「いいの。私、パンとミルクで十分。
それに、私ってばこの中で1番背が大きいで
しょ?きっとあなたよりも栄養のあるリンゴ
を今まで食べてきたんだよ。」
「そう…じゃあ頂くね?」
そういって自分の分のリンゴを食べ始めた少女が笑顔になるのを見て、檸檬色の少女は微笑みました。
その日から、檸檬色の少女のリンゴは、他の少女が食べるようになりました。
ですが前のように、ご飯の時にお喋りする事はなく、皆静かに食べるようになりました。
それから約2年……。
少女たちは教会で相も変わらず1つのリンゴとパン、ミルクを食べていました。
ご飯の時も、普段生活している時も、ほとんど話さなくなっていた少女たちでしたが、
声の出し方も忘れだした頃、1人の少女が言いました。
「最近のリンゴ…硬い……」
ボソッと言った少女が食べていたリンゴは
檸檬色の少女が分け与えたリンゴでした。
「そうなの?」
「うん…硬くて、2つ目を食べると
顎がとても疲れてしまうの。」
長いことリンゴを食べていなかった檸檬色の女の子は言いました。
「じゃあ、パンとリンゴ、交換しようか」
少女はコクリと頷き噛み跡の残ったリンゴと
檸檬色の少女が持っていたパンを交換しました。
その日から徐々に、少女たちはリンゴを余すようになりました。檸檬色の少女は他の少女の元気が無くなるのが嫌で、ミルクもみんなで分け合うように言いました。
またある日、少女の1人が言いました。
「最近のパン…硬い……」
「え……?」
檸檬色の少女は困惑しました。
他の少女も次々に言い出します。
「硬くて、食べられない…」
「喉を通っていかない…」
「ワルプルギス、これあげる。」
檸檬色の少女の前には他の4人分のリンゴとパンが差し出されました。
檸檬色の少女はパンを1口かじります。
そのパンは、何年も前から食べ慣れた、何も変わらないパンでした。
檸檬色の少女は薄々気づいていたのです。
リンゴが硬くなったんじゃない。
パンも硬くなっていない。
皆の体が、弱っていることに。
でも知らないふりをしました。皆に元気になってもらいたくて、檸檬色の少女は話し始めました。
「ワルプルギスが天使なった日のこと、
覚える?あの日、牧師様がお肉のスープを
持ってきてくださったよね…?」
1人の少女は答えます。
「あのスープ、味も忘れてしまった……
もう一度飲みたいな…」
また1人の少女は独り言のように話します。
「何時なったら…天使になれるのかな……」
それからは、言葉を交わすことはありませんでした。
檸檬色の少女は変わらず、1つのリンゴとパン、ミルクを食べていました。他の少女の食事には手をつけず、皆が食べるのを待っていましたが、いずれも部屋の隅で腐っていきました。
「ワルプルギス……」
「どうしたの……?」
「見て、お空に天使が見える…きっと
ワルプルギスが迎えに来てくれたのよ。」
そう話す少女の目には、教会の天井しか
映っていません。
「そう……」
檸檬色の少女は何かを諦めたように呟きました。特に寒い、冬の日のことでした。
ふと気がつくと、ほかの少女は起きなくなりなっていました。皆前よりもずっと肌が白く、まるで天使のようです。
目の前には変わらず、1つのリンゴとパン、ミルクが置いてありました。
「寒い…」
意識が朦朧とし始めた頃、教会に牧師様が入ってきました。
「牧師様…?ご飯の時間ですか…その、
まだ昨日の分、手をつけられていなくて…」
「そうか。」
牧師様はそう呟くとご飯の代わりにある物をワルプルギスの手に乗せました。
「これはなんだと思う?」
手に乗せられたのは銀色の、鋭いナイフでした。ワルプルギスが軽く握ると刃に触れた部分からタラタラと血が流れ始めました。
「もったいない、舐めなさい。」
そういって牧師様は去っていきました。
「…もったいない……」
自分の手のひらをペロリと舐めると、なんだか懐かしい味がしました。
「スープの……味がする。」
いつか、天使になって自分の前から姿を消した、ワルプルギスのお祝いとして食べさせてもらった、あの日のスープ。
それからは、あまり記憶がありません。
ただ1つ変わったことは、教会の中にはもうワルプルギス1人しか居なくなってしまったこと。そしてその代わりにボロボロの白い、細い棒と同じような白い欠片が現れたことでした。
牧師様にもらったナイフは何故か刃が欠けています。少しずつ暖かくなって、鳥の声が聞こえてきました。手をつけていないパンをちぎって遊んでいると、そこに1匹の小鳥がやって来ました。
ワルプルギスは自分と牧師様以外の動くものを久しぶりに見ました。そしてずっとここにいて欲しいとも思いました。
気づくと鳥の片方の羽はナイフによって削がれ、飛べなくなっていました。小鳥は片方の羽をバタバタと、逃げるように動かしました。悲鳴とも呼べる小鳥の声ですら、ワルプルギスには微笑ましいものです。
小鳥を両手ですくい上げ、自分の頬に当てると、長いこと感じることの出来なかった温かみを感じることができました。
「温かい…」
小鳥の高い声と、自分からでた、昔よりも低くなった声に驚きます。
皆変わっていった……。
皆私を置いていった……。
私も変わってしまった……、
この鳥も……きっと。
気がつくと小鳥の首は何かで切り落とされたように無くなっていました。
その時、今日の食事を持ってきたであろう牧師様が教会に入ってきました。
「牧師様…」
今日も食事は要らないことを告げようとしましたが、牧師様の手にリンゴやパンはありませんでした。
教会の中にある、今まで自分達が育った大きな鳥かごの扉に近づき、ガチャリと音を立てると、ワルプルギスの目の前にあった扉が開かれました。
「出なさい、ワルプルギス」
「牧師…様……?」
「お前は天使になるんだよ。」
「天……使…?」
…今までずっと待ちわびていた瞬間でした。
牧師様の後ろをついて歩いていくと、思ったより自分に体力の無いことに気が付きました。牧師様は時折、私を置いていかないように立ち止まって私を待ってくれています。
暫く歩くと向こうに2人の男が居ることに気が付きました。
「サルディス家の方々、連れて参りました。」
牧師様は恐縮したように頭を下げたので、とりあえず私も頭を下げました。
1人の、厳しそうな男の人が言いました。
「これが今回の子供か。」
「はい、どうぞ、連れていってください。」
牧師様と男の人なんの話しをしているか分からなくてボーッとしていると違う男の人が私の腕を乱暴に掴みました。
「痛いっ……」
「うるさい、黙ってついてこい。」
引きずられるように牧師様から離され不安でいっぱいになりました。
助けを求めようともしましたが恐怖で声は出ないし、牧師様はこちらを見向きもしないし、なんだかもう、諦めてしまいました。
私は生まれて初めて『馬』を見ました。
想像してたより大きくて、温かそうでした。
でも、見れたのはほんの一瞬で、馬の後ろにある箱に入れられました。教会の鳥かごの中より狭く、でも、木で作られていたので温かい場所でした。
そこで首と手足に変な冷たい金属を付けられました。少しの自由はありましたが、金属が重たいのと、謎の喪失感で動く気にはなれませんでした。
牧師様と話してたもう1人の男に、私を引きずった男が聞きました。
「口はどうしますか?」
男はやはり、厳しそうな声で話します。
「布を噛ませておけ、
中央を通る時に怪しまれたら困る。」
「分かりました。」
私はされるがまま口に布を咥えさせられました。こんな事しても、もう大声を出して助けを求めるほどの体力は残っていないのに。
箱の扉が閉まると、箱の中は極端に暗くなりました。明かりは窓ひとつだけでした。
暫くすると箱が動き出しました。窓の外からは馬のなく声と、その後に男の人たちの声が聞こえ始めました。
「それにしても、なんだってまぁ
西にガキ1人迎えに行かないといけないんで
すかねぇ、」
「それがフブキ様のご厚意だ。
俺たちはそれに従うまで、忘れたか?」
「いやいや滅相もない!
…んでも、それにしちゃあフブキ様、
あそこの教会のガキに拘ってません?
こんなヒョロヒョロのガキ、
すぐに死にますよ」
「今後ろに乗せてるガキ、お前も見ただろ?」
「はぁ、見ましたが」
「あの教会は狂っててな、ワルプルギスの夜、
つまり4月30日に生まれた子供を複数人ずつ
教会に閉じ込めて16歳まで育てるらしい。」
「はぁ!?16!?後ろのガキはどう見たって
14もないでしょ……」
「……後ろのガキは特に異端で、今年18になる
らしい」
「は……?一体どんな育てかたしたらあんなに
なるんだ…?」
「今年も例年通り男だったから、その点では
ある意味普通だな。」
「ああ、そうか、男も女も全部まとめて
ワルプルギスって名前付けて、女として
育ててるんでしたっけ?あの牧師、本っ当
に趣味悪いな……」
「同感だ、今回もこちらに文書を送ってきた時
にも変なあだ名をつけていたよ。
『食人のワルプルギス』が生まれたって。」
「食人!?…このガキ、
人間食ってるんですか!?」
「同じ教会に入っていた1人のガキの肉を
スープにして食わせたら、人間の味を
覚えたらしくてな、数年後に飢餓状態になっ
た時、試しにナイフを与えてみたら
ほか4人の死体も生で食い荒らしたらしい。」
「うっわ、正に餓鬼ですね。
なんだかんだ1番狂ってるのはこの餓鬼か。」
「そうだな、フブキ様もこの文書を呼んでコイツを
買いに行くようにと。
まあ、俺らみたいな下っ端に仕事が回ってき
た訳だ。」
……意識が遠のく瞬間。今までの人生は何だったのだろうかと考えた。
…私は…天使ではなく、いつの間にか鬼になり果ててしまってしたのでしょうか。
もうどうでも良くなって、箱の中の、心地よい揺れを感じながら、長いこと眠っていました。あの部屋にあった白いボロボロの棒。刃が欠けたナイフ。途中から感じなくなった空腹感……。今思えば自分は最初から分かっていたのかもしれない。分かりながら狂っていたのかも知れない。
突然、ゴンッ!という音ともに、箱の動きが止まりました。正確に言うと、馬車が急停止しました。何があったのかと少し体を動かすと、男の人の大きな声が聞こえます。
「天使だっ!」
「ぶ、武器を取れ!」
天使……教会の全てが嘘だったことが分かった今、天使の存在も嘘だと思っていました。
(ワルプルギス…?)
いつかお腹がすいたと言って私の目の前から居なくなった少女の事を思い出す。
(お腹を…空かせていないだろうか。)
こんな時にまで今までのことを信じてしまう自分がバカバカしい、ワルプルギスは私が食ったのだ。
「うわぁ…!」
「や、やめてくれっ!」
前の窓から男の人たちの声が聞こえる。
その後は直ぐに白い光が生まれ、余りの眩しさに目を瞑る。
ガコンっ!!!ガン!!
頭が痛くなるほどの大きい音が聞こえると、私が入ってた箱が半壊してた。
「死になさい、命のために」
そんな声が聞こえて、何故か天使だと分かった。眩しさを我慢して目を開けると、そこには確かに天使がいた。
天使が居たんだ。
(ワルプルギスじゃ……ない。)
ワルプルギスはこんなに髪が短くなかった。
こんなに背が高くなかった。
こんな白い肌はしていなかった。
もっと可愛らしい声をしていた。
死になさいなんて言わなかった。
「こんな羽、生えてなかった。」
気がつくと、天使の片方の羽は刃物によって削がれ、上手く飛べなくなってしまっていた。
いつかの小鳥のように。
自分の手腕を見ると、男の人が持っていた大きなナイフを両手で構えていた。
「違う…」
ワルプルギスたちの傷口からは、血が流れていた。こんな白い光なんて出ていなかった。
「死にななななさない、いの命のためめに」
「違う…」
小鳥は私が羽を切り落とした時、もっと大きな声で鳴いてきた。こんなに静かな声では泣いていていなかった。
みんなみんな、変わっていく。
お腹がすいて、せめて最後に天使を食べたかった。もう一度剣を振ろうと思ったけど、両腕が上手く使えなかった。
いつの間にか天使の羽はしっかり2本生えていた。
(また変わっていく。)
バサッ…バサッ…と空に昇っていく天使を見て、私も飛んでみたいと思った。
お腹がすいた。
全身の力が抜けて、瞼が重くなって、
私はそのまま眠りにつきました。
「……ず、…ーず、おい!坊主!」
「……っ」
荒々しい声で誰かが何かを叫んでいる。
目を開けるとそこには人の良さそうな男の人が居ました。
「大丈夫か!?酷い怪我だが…」
「腕が痛い…」
脊髄から反射的にでたような言葉が喉から溢れ出ました。
「腕?…ああこりゃ酷い。両腕ポッキリ折れて
るな。立てるか?まあその様子じゃ無理そう
だな、あーあー、首にこんなものまで付けら
れて、奴隷商から逃げてきたのか?」
饒舌に話す男に圧倒されてなかなか言葉が出ません。
「…ここ出会ったのも何かの縁だ。
坊主、腹減ってるか?」
そう行って男が差し出したのは白いツヤツヤした粒の集合体でした。
「これ…なに?」
「はぁ!?米だ米!
…まさか見た事もないのか?」
「リンゴとパンと…ミルクしか食べたことない。」
「…坊主、年は。」
「18歳…らしい。」
「そうか……とりあえずそれ、食えよ。」
男の人は見たことないような複雑な顔をしていました。
「ほら、食え食え。」
男の人が口元にもってきてくれたので1口食べてみるとリンゴからパンからもミルクからもかんじることの無かった、優しい味が口の中いっぱいに広がりました。
「……美味しい。」
「そうだろ?ゆっくりでいいから
喉につまらないように食えよ。」
私がゆっくり、本当にゆっくり食べていても男の人は優しく見守ってくれました。
食べ終わると男の人は聞きました。
「坊主、名前は?」
「……ワルプルギス。」
「わる…ぶ?えいえい、長いし読みずらいな、
苗字は無いのか?」
「みょーじ?」
「あぁもうこの話は後にしよう、
ほら背中に乗れ、村までおぶってやる。」
男の人の背中に乗ると「軽っ!?」と声を上げました。
男の人は滝(タキ)と名乗りました。今から行くところは桃が有名な村だといいます。
「坊主、桃は食ったことあるか?」
「モモ…?」
「まあ、無いよな。俺の村にゃ村中に桃ってい
う甘い果実が実る木が植えられてんだ。」
「モモ…」
「桃の実る時期になると村そのものが桃の香り
で包まれる、甘くていい匂いだ。
そういやお前からも甘ったるい匂いがするよ
な?ミルク?いや、バニラか。」
「バニラ…?」
「バニラ……呼びやすいし、そう呼んでもいい
か?」
何が何だか分かりませんが、当時の私は教会の事も、自分自身のことも忘れ去りたくて、バニラと呼ばれることを容認しました。
村に着き、滝さんの家だと紹介された家に通されました。
「ただいまぁー!おーい!なんか腹に優しいも
んねぇか?」
「はいはい、あらお客さん?
お昼に作った味噌汁ならありますけど…」
家の奥からでてきた女の人は私を見るなり大きな声で言いました。
「あら大変!その子、腕が折れてるじゃないで
すか!ちょっとちょっと、滝さんそのまま連
れてきたんですか?」
「いや、一応むすびは食わせた
腹が減っていたらしいからな。」
「そうじゃありませんよ!そのまま担いだら痛いで
しょうに…ささ、こっちに寄越してくだ
さい。滝さんは味噌汁を温めてください。」
「お、おお。」
滝さんは女の人の気迫に押されていました。
「坊や、名前は?」
「そいつの名前はバニラだよ、わるぶ…とか
言ってたけど言いずらいからそう呼ぶことに
した。」
「滝さんたらまた勝手なことして…、
坊やはそれでいいのかい?」
この女の人が自分の事をワルプルギスと呼ぶのが想像できなくて、「それで大丈夫」と言いました。「そうかい」というと、
「さて、痛い部分を見せてごらん?」
と言って、白い箱を持ってきました。
いつの間にか全身怪我をしていたようで、女の人はぶつぶつ独り言をいいながら私の手当をしてくれました。
「ぷはっ!バニラ!全身包帯ぐるぐる巻きじゃ
ねーか!」
「笑い事じゃありませんよ滝さん、
両腕もアバラも…足の指も折れてたんですか
らね!」
「女房の手当は痛かっただろ?」
そう言って近づいてくる滝さんの手元からは白い煙が立っていました。
「ほら、食えバニラ、熱々の味噌汁だ。」
「私が食べさせてあげるからバニラちゃんは
動かなくて大丈夫よ。」
…その時の味噌汁の味は…今でも忘れられません。まず私は温かい食べ物を初めて喉に通しました。よく味の染みた大根。舌で潰すだけで崩れる里芋。油揚げ、人参、ごぼう。
気づくと涙が出ていました。文字通り、内蔵が優しく溶かされるような、そんな感覚。
「あら?ごめんなさい…バニラちゃん、
熱かった?」
「温かい…美味しい。
こんなに美味しいご飯、食べたことない。」
私がそういうと、滝さんは私の頭をワシャワシャと撫でました。
「よしよし!いっぱいくっていっぱい寝ろ!」
その日の私は本当にボロボロ泣いて、お腹いっぱい食べて、急にいっぱい食べたものだからお腹を下しました。生肉をそのまま食べてもお腹を壊さなかったのに、人間は幸せになると急に弱くなるかもしれません。
私は初めて布団に入って寝ました。温かくて、何かに包まれて寝るのは初めてで、感動して泣くと滝さんに笑われました。
滝さんは奥さんと二人暮しをしているそうです。山から薬草を積んできて、それを加工して、それを食べ物と交換して、そうやって暮らしていると。
2人の間に残念ながら子供はできないらしく、私を見つけた時は、「なんだ、うちの子が降ってきたのか。」と思ったそうです。
「まるで竹取物語だろ?」
「たけとり…?」
傷が治ってくると、初めてお風呂に入りました。体がジュワジュワして、最初は10分も入って居られなくて、また滝さんに笑われました。
薬草を取りに行くのも手伝うようになりました。山に入るまでに体力を使い果たして、帰りは必ず滝さんにおんぶされていました。
その時は滝さんだけじゃなくて母さんにも笑われました。
文字を教えてもらい、桃を食べさせてもらい、泳ぎ方を教えてもらい…私に誠の家、家族を与えてくれました。
「滝さん!朝だよ!……もう!
母さん、滝さんまだ起きないよ…」
「全くこの人は…滝さん!
朝ごはん抜きにしますよ!」
「起きる…起きるよ…またバニラに
味噌汁食われるのだけは勘弁だ。」
この村に来てから2年が経つ頃には、私も人並みに仕事をこなし、文字も読めるようにはなりました。
「ん?バニラ、また背が伸びたか?」
「いっぱい食べて、いっぱい寝てるからね!」
「そうだな…」
滝さんは優しい顔で、2年前と変わらずワシャワシャと頭を撫でました。
「さて、今日も山に行くか。」
……こんな幸せな時間がずっと続けばいい、そう思っていました。
ある日山から降りていくと、村の方から煙が立っているのが見えました。
「滝さん、あれって……。」
「……サルディス家の連中か…」
「サルディス…」
いつか、どこかで聞いたような名前が滝さんの口から聞こえました。
「バニラ、これを持ってろ。」
滝さんはそういうと、カゴの中から非常用にいつも持ち歩いているお金が入った袋を私に預けました。滝さんは何時になく真剣な顔で私に言います。
「村には戻っちゃだめだ、これをもって反対方
向に走れ。今のお前の体力ならやれるはず
だ。」
「た、滝さんは…?」
「俺は…女房を迎えに行ってやらないと。」
一瞬で嘘だと分かりました。よくよく耳を済ませてしまうと、村からは誰かの悲鳴が聞こえます。
死にたくない。そう本心が言っていました。
滝さんは俺の気持ちを全部分かったかのように話し始めます。
「いいか、バニラ。人には人のやるべき事があ
る。俺は女房を迎えに行くこと。
お前は……生きることだ。」
涙が溢れていました。
離れたくないのに離れなければいけない。
子供みたいな理由で、まだ自分は泣くことが出来るのだと。
その時の自分はまるで迷い子のようでした。
「バニラ、俺たちの息子よ。」
滝さんは俺の前にしゃがみこみ、私の目を見つめました。
「いっぱい食って、いっぱい寝て、
色んな人に会って、……そんで」
「幸せになれよ。」
気づくと滝さんは目の前に居ないし、私は言われた通り反対方向に全速力で走っていました。
なぜ馬鹿正直に行動したのか、自分でも分かりません。そもそも、人間を食べた自分はこんな幸せになってはいけない。今までのは自分が思い描いた、甘い夢だったのかも知れないとすら思いました。ですが、そんな事を考える度に、私の手の中のお金が入った袋が揺れ、滝さんたちは存在したことを証明してきます。また、私は全速力で走りました。
走って、走って、体がボロボロになった頃、大きな町に着きました。滝さんたちと暮らした村とは、街並みも、文化も、人なりも違います。
お腹が空いて、そこら辺にある露店を見て回りました。
「いっぱい食べないと……」
そんな時、こんな声が聞こえました。
「バニラの香水だよ〜!
今年のトレンド、バニラの甘い香りはいかが
かね〜?」
「バニラ…」
「そういやお前からも甘ったるい匂いがするよ
な?ミルク?いや、バニラか。」
いつだか滝さんが私に放った言葉がフラッシュバックします。
バニラ…私の名前の由来…
露店の前を通りかかると、やはり懐かしい、でも思い出したくなかった香りがしました。
「おじさん…」
「どうした兄ちゃん、香水が欲しいのか?」
露店のおじさんに香水に使われているバニラの生産地を聞き、私はそこに向かい始めました。持っているお金で剣を買い、食料を買い、自分の足で向かい始めました。
今の私にはやるべきことが分かりません。
……ですが、もしも今も自分と同じような境遇で過ごしている子供がいると思うと、どうも胸が張り裂けそうで、どこからが憎しみが湧いてくるのです。
何ヶ月か過ぎた頃、ようやくその場所を見つけました。
思ったより何倍も森の奥で、西の大地の人間に聞いてもほとんどが分からないと答える秘境でした。
右手に剣を握りしめ、意を決して教会の中に入りました。
そこには……
……2年前と何も変わらない、ボロボロの骨があるだけでした。
「食人の園に、なんのようだい。」
なんの気配もなく、男は私の後ろに立っていました。
「食人の園…?」
「…悪しき文化だよ、ここで行われていた
狂乱したものによる邪悪な信仰。」
「……。」
私が考え込むと、緑の髪をし、不思議な耳の形をした男が言いました。
「檸檬色の瞳。君はもしや……
『食人のワルプルギス』ではないか?」