冬の朝 目を覚ますとベッドの上にいた。
寝てたんだからそりゃそうだ。けれど、そんなことにまで新鮮に驚くほどに気が動転していた。
ゆっくりと身体を起こした瞬間、頭と下半身に鈍痛が走る。
隣を見ると髪を下ろした木兎さんが気持ちよさそうに寝ていた。布団からはみ出した逞しい腕にゆるく抱きしめられている。
朝起きて、あたたかい布団の中にいて、好きな人の腕に抱かれている。この上ないほど幸せな朝だ。幸せな人ランキングの世界大会があったら絶対に満場一致で俺が一位になるくらい幸せな朝。夢だったら醒めてほしくないほどの幸福に触れていた。
────だからこそ、まずい。
だるい身体を起こしてベッドを出る。木兎さんが身動ぎしたが、寝返りを打っただけだったようだ。
腰とか尻とかがありえないほど痛いけど今は気にしている場合じゃない。あ、なんか垂れてきた。最悪。
怠い身体をなんとか動かして垂れてきた液体(推定ローション)を拭き取り服を着た。
サイドテーブルのデジタル時計の表示は六時八分。普段通りであれば木兎さんが目を覚ますまであと二十分強。最寄りまでは十分……今の状態でも十五分もあれば着くだろう。
「……大丈夫」
ざわざわ波立つ気持ちを落ち着かせるように呟く。ミカサのキーホルダーが付いたリュックサックを背負うと音を立てないように木兎さんの部屋を後にした。
***
早朝のホームは冷えきっていて薄暗い。でも、その冷たさが今は心地よかった。
昨日の夜に降っていた雪はやんでいたけど、その名残が点字ブロックの上に残っている。
……木兎さん、そろそろ起きたころかな。
腕時計はぴったり六時三十分を指している。次の電車まではあと五分。いくら木兎さんでも間に合わない。
「あかーし!」
名前を呼ばれたと思った瞬間、思いっきり後ろに引っ張られた。
「え」
「よかったぁ……まだ駅にいた」
倒れそうになったところを木兎さんが後ろから抱きしめてくるが、俺はそれどころじゃない。
「な、え? ぼくと、さん?」
「そーだよ、木兎さんだよ」
どうしてここに。まだ六時半ですよ。そう思うのに、うまく声にならない。
「昨日の、ほんとはやだった?」
「え……や、」
「俺、赤葦のやなことしちゃった?」
そう聞いてくる木兎さんの声がやさしくて、どうしようもなく泣きたくなってくる。
「ちがっ、ちがくて……」
ズッと鼻をすすると木兎さんが俺の手を引く。向かい合うような姿勢になって、また抱きしめられた。
「ぼくとさんの、せいじゃないんです」
言葉の代わりに涙ばかり流れて、そんな自分に嫌気がさす。
「おっ、れが……だめで」
「うん」
「きのう、木兎さんとってもやさしくて……な、んかっなれてるのかな、とか思っちゃって……」
「うん」
息を吸うたび冷たい空気が肺を冷やす。そのおかげで、なんとか立っていられた。
木兎さんのジャンパーを掴むと彼の腕にも力がこもる。あぁ、木兎さんの心臓、ばくばくいってる。
「そんなこと、考える自分がいやでっ……」
木兎さんにはもっとかっこいいとこだけ見てほしいのに、いつだってうまくいかない。どうしたんだよって聞かれたら、俺の意思とは反対に知られたくないはずの弱い部分をさらけ出してしまう。
ぼろぼろこぼれ落ちる涙が木兎さんの真っ黒なジャンパーに吸い込まれていく。
もっと言いたいことがあるはずなのに、泣きじゃくる声ばかりが口からもれる。
「赤葦……不安にさせてごめん」
「木兎さんのせいじゃ……」
「うん。……でも、赤葦が泣いてんの俺のせいでしょ。だから、ごめんね」
木兎さんの手。大きくて、あたたかくて、俺の大好きな手。その手が後頭部を撫でる。
「……ね、俺んち帰ろ。そんでちゃんと話しよう?」
たぶん俺は、この先ずっと木兎さんにはかっこ悪いとこばかり見せるんだろう。どうしたの?教えて?って言われたら拒むことなんてできない。
それでも、そんな俺でいいって言ってくれるんだったら……ずっと、木兎さんといっしょにいたい。
頭を撫でるのをやめるとと今度は手を握ってくる。彼に手を引かれるまま、駅のホームを後にする。
いつもあたたかい木兎さんの手は、こんな冬の日だってやっぱりあたたかかった。