ウサギさびしくても死なない 第一章「あっ」
「えっ?」
「えっ、あっ…」
「えーっ!ナナミンじゃん」
「えっあっ…えっ…」
「ひさしぶりー!」
七海がえっ、とかあっ、とか言っている間に黒いバニーガールの格好をした彼女は七海の手をぎゅっと握り、ぶんぶんと振っていた。七海はなにがなんだかわからずに、え、とあ、とを繰り返す。
「ユウちゃん、それ友達?」
彼女の横から彼女とおなじようなウサギの格好をした歳若い女性が出てきて七海を訝しげに見上げた。ソレと言われたことについての若干の不快感よりも七海はその不審げな視線に少し怯み、ユウちゃん、と呼ばれた彼女に助けを求めるようにみる。
彼女は、少し考えて、えっとねー、と明るく首を振った。
「ちがう!むかし、好きだったひと!」
七海は思わず口のなかで小さく呻いた。むかし好きだったひと。
「ナナミン、時間ある?店きてよ!」
「…いえ、あの、虎杖くん、わたしは…」
「じつは…今月…売上やばくてさ。おねがい!」
そう言われると、断りようがなかった。
『ウサギさびしくても死なない』
宮城への出張最終日、任務も終わり、あとは一泊して明日帰るだけの夜。
どうせならベタベタのベタに牛タンを食べようと思った。高級店にひとりで行っても仕方がないので、国分町にあるやたら評価の高い店に目星をつけ、そこへ向かう途中であった。国分町は東北最大の歓楽街。いろいろな夜の店の客引きが横行しており、すいすいとは進めない。店選びをまちがえたか、と少し後悔し始めたところで、おぼえのあるピンクベージュの髪色が目の端に入って振り返った。
まさかこんなところに、いるはずもない。
と、思ったら、いた。目があった。間違うはずがない、世界にただ一対だけの、キラキラのほうせきだ。彼女だった。
「あっ」
思わず声が出た。彼女の瞳がまあるくなって、七海を認識した。
彼女だった。
ひとつも翳りのない彼女の笑顔がとても大切だった。呪いを飲み込んでただのひとではなくなってしまったくせして、ただのひとのように、あかるく、ひたむきに生きるすがた、そこに加えて、術師として正しく生きようとする若いまぶしさが好ましかった。はじめ出会ったとき、彼女はボーイッシュな服を着て、短い髪、よく動くし、てっきりおとこのこだと思って、虎杖くん、と呼んでしまったのをおぼえている。
あとで五条が『悠仁はおんなのこだよ♡』と言ってゲラゲラ笑っていたので先に言えよと殴ってやろうかと思ったが、一度呼んで定着してしまった呼称を変えるのがなんだか不自然に思えて、それ以来ずっと七海は彼女のことを、虎杖くん、と呼ぶ。
ナナミン!
彼女だけが、七海のことをそう呼んだ。スカートを膨らませ、こちらを振り返る。空の色が彼女によく似合うセーターみたいで、美しい詩のような時間だった。
たしかにあのとき、七海は彼女に恋をしていた。それを彼女に伝えたことはなかったが。もう、それも過去のはなしだ。
両面宿儺が祓われ、彼女はふたたび、『ただのひと』に戻った。彼女が十八のときだった。呪力を少しも残さず、ただひとより運動神経がよく、体力があるだけの、女の子。
呪力がなくなったなら、ただの非術師として暮らした方がよい。
虎杖悠仁は、大人たちによって仙台に帰されたのだった。高専は退学になった。地元で、住み慣れた土地で、この先暮らしてゆくのがいいだろう。退学してからは、七海は彼女に一度もあっていない。もしかしたら、もう誰かといっしょに暮らしているかもしれないな。そんなふうに、ときどき思い出しては考えたりしていた。
そうだったのに。
「きみ、これが、いまの仕事ですか?」
「そうだよ。ここで働いてる」
国分町のガールズバーに、七海はいた。目の前にはバニーガールの虎杖悠仁。きょうはコスプレデーだったんだよねー、いやー、よりによってこんな日に会うなんてなあ、と慣れた手つきでハイボールをつくって、はい、と七海に渡す。
「まさか、説教なんてしないよね?」
「しないですが…」
まさか夜職とは、と七海は言いそうになって、その口を噤んだ。それを悠仁は察したように、苦笑する。
「ほかに、まともに稼げる仕事がなかったんだよ。おれ、高校もろくに出てない経歴になってるじゃん。ひとより力あるっていっても、力仕事はあんまり女子は採用されないしさ。かといって普通高校も出てないのに事務仕事は余計に採用されないし…資格もない。人と話すくらいしか、できる仕事がなくて」
まあでも、なかなか向いてるんだ、この仕事、と言って笑う。
「いま…いくつになったんですか」
「こないだ十九になったよ」
一年も経ったのか、と思った。彼女が学校を辞めたのは、たしか彼女が十八になったばかりのころだったから。
「こちらは…みんな元気にやってますよ」
「あー、知ってるよ」
「えっ」
「たまに同期や、先生とは会うからさ。伏黒も釘崎も、出張でこっち来る時は連絡くれるし、たまに会ってるよ。先生はなー、月一でごはん食べさせてくれるよ。こないだはウェスティンで鮑食べさせてくれた」
「ハ?」
七海は唖然とする。なんだ…?知らなかったのは自分だけだったのか…?あんぐりと口があく。
「センセーってあの、ユウちゃんの元担任っしょ?イケメンの、ゴジョセンっしょ?」
横からさきほど悠仁といっしょに客引きをしていた女性が口をはさんだ。悠仁は首を縦にふる。
「そーそー、ゴジョセンのことな」
「エミあのひと好き〜。むっちゃ金つかってくれんじゃんねえ、いつも」
「ちょっと待ってください」
七海は手をあげて話を遮る。
「ご、五条さんが来るんですか?この店に?」
困ったように肩をすくめた悠仁の隣から身を乗り出しエミちゃんはケラケラ笑った。
「超来る。来たら最後までいて超金使う。ねー、あのひと紹介してくんない?」
ユウちゃんにいつも頼むんだけど、あの人は辞めとけって紹介してくんなくて。あーあ、エミも鮑食べたぁい。
なんて言いながらぶつぶつと氷を砕くのを悠仁は苦笑して見ながら、思い出したように七海に向き直った。
「あ、ナナミンいつまで仙台?」
「ああ…明日には帰ります」
「そうなん!ラストまで居てくれたらさ、よかったらウチ寄っていかない?」
「は…」
ウチ?寄る?……それは…
思わず返事に窮した七海と屈託なくそう聞いた悠仁を交互にみて、エミちゃんはにやにやと笑って悠仁を小突いた。
「ユウちゃん、お持ち帰りじゃん…!」
「え〜?そんなんじゃないって…ナナミンは世話になったひとだからさあ」
そんなんじゃないって。
世話になった。
むかし好きだったひと。
勘違いしないように、七海はあたまのなかをできるだけフラットにしようとこころみる。
「それじゃ…おことばに…甘えて…」
そうしましょうかね、とやっとのことで言えば、そう?はやく上がれるようにすんね!と悠仁は笑い、エミちゃんはにやにやと笑っていた。
牛タンのことは、すっかり頭から消え失せていた。
結局七海は悠仁のいうとおり閉店までだらだらと酒を飲み、つまみを注文し、ボトルまでいれた。月一で来るという五条に対抗したわけではないが、会計はそれなりの金額になり、少し溜飲をさげる。
片付けしとくから先にあがりな、とエミちゃんは悠仁を少しだけはやく上がらせてくれて、七海はエミちゃんの意味ありげな視線とともに店を追い出された。裏から、着替えた悠仁が顔を出す。
「ごめんね、遅くなって」
「いえ…おつかれさまでした」
「まだまだ寒いなあ」
悠仁がきているモッズコートは、見覚えがある。むかし学生をつれて海に行ったことがあった。五条におまえも来い、と車を出さされ、休みの日に引っ張り出されて。冬の寒い日だった。そのとき、彼女が着ていたコートだ。
こうやって見ると、あのときとなにも変わっていないように見える。なにも。
「タクシー乗りましょうか」
「えっ、いいの?ラッキー」
適当につかまえたタクシーにふたりで乗り込み、悠仁は住所をドライバーに告げる。その住所を七海は反射的におぼえようとして、でも自分で薄ら寒くかんじ、今度は忘れようと試みた。
機嫌のよさそうな彼女を、七海はちら、と横から盗み見る。
髪が少し伸びたな、と思う。術師をやっていたときはショートカットだったのに、いまは少し伸びていて、顎の延長線上で、やわらかそうな髪が揺れていた。コートの裾からのびる、膝のくぼみをじっとみつめる。細い骨だな、と思う。まるで女の子だ。そう、女の子だ。
「いつから来てたん?」
唐突に話しかけられて、七海は少し狼狽した。質問を反芻し、理解し、口を開く。
「おとつい。単独任務です」
「そう。大変だね」
それ以上は悠仁もきかず、七海も話さない。きいてもしょうがないからだろう。七海からも任務のことは話すこともない。
世界が分かたれてしまった、と感じた。一年とすこし前までは、一緒に呪霊を祓うこともままあったのに。でもいまは、七海はそれを彼女とすることはないし、彼女は彼女で、ウサギの耳をつけて、ハイボールをつくり、ポッキーをグラスにうつしかえて、客と話をする。
タクシーを降りると、ごく一般的な単身アパートの前だった。ここは学生さんが多いんだよね、と悠仁は鞄から鍵を取りだしながら言う。近くに大学があってさ、と。
「まじで狭いけど、あがって」
「どうも…」
パチン、と玄関の電気がついた。玄関から奥のこぢんまりしたつくりのへやまで、見渡せる。女の子の、若い女の子のへやだ。なぜ、自分はこんなところまで来てしまったのだろう、と気後れした。
「お、お邪魔します」
悠仁の脱いだスニーカーの横に、革靴を並べる。大きさの違いに、さっと目を逸らした。いまこの違いについて考えるのは、得策ではない、というような気がして。
「お腹すいてるよね。おれはぺこぺこ。簡単なもんしかできないけど、食べるよね?ごめんね、遅くなって」
「ああ…ありがとうございます」
「いやほんとに簡単なもんだよ、そんなお礼いうほどのもんじゃないから、そのへん座ってて」
「手を洗っても?」
「あー、洗面所そっちね」
指をさされたほうにすごすごと行くと、ささやかな洗面台があって、化粧水だとか美容液だとかが置かれている。
それを横目に手を洗い、かかっているキキララのタオルを使うのは憚られて、自分のハンカチで拭いた。鏡をのぞきこむ。七海はとても難しい顔をしていた。どうにも、ちぐはぐな気しかしない。
間取りは1K、玄関はいってすぐにキッチン、キッチンの向かいに洗面所と風呂場、奥の洋室は8畳ほど。洋室にはベッドとローテーブルと小さなチェスト、そのさらに奥には狭いベランダ、洗濯物が少しだけかかっている。
これが、彼女の世界なのだと思った。いまの、彼女の、生きる世界だ。
洗面所を出ると、悠仁はシンクの前に立ち、豆苗をキッチンばさみで収穫していた。
「あっ、見られた」
明るく悠仁は笑う。
「緑の彩りに便利なんだよな、これ。ナナミン、そっち座ってて。すぐ出来るから」
フライパンにごま油を落とすと、ちいさな部屋いっぱいに、ごま油のにおいがひろがった。フライパンがちり、と音をたてる。七海の心臓も、ちり、と音をたてた。
言われたとおり、七海はローテーブルの前に、あぐらをかいて座った。図体のでかい自分がこんなに幅をとってしまったら、彼女はいったいどこに座るんだろう、と不安になり、立ち上がる。所在なく思え、結局料理をしている彼女のそばまでまた戻って、なにか手伝いましょうか、と声をかけた。
「えー?大丈夫だよ」
悠仁は袋麺を取り出し、フライパンにあけて、ホタテ缶を手際よくあけ、それも汁ごと加える。じゃああ、といい音がして、いい匂いがした。
「美味そうですね」
「美味いよ。みんな美味いって言う」
「みんなとは」
「釘崎も、伏黒も」
「よく来るんですか」
「まあ、仙台に来た時には、だいたいウチに寄ってくよ」
「伏黒くんもですか」
言外に、異性なのに、というニュアンスを含ませてしまったのを、しまったと思うけれど、遅かった。悠仁はちらっと七海を見る。
「親友だからね」
親友、と言われたら黙るしかない。納得しようとし、ひとつ首を縦に振った。
オイスターソースをまわしいれて、すこしのナンプラー。そこに豆苗を投入。一気に香りがアジアンテイストになる。なるほど、美味いにちがいない、とこの時点で七海は確信していた。
「まさか、五条さんもここにも来てるんですか」
「先生はなー、来たがるけど…考えてもみてよ。あの何もかもでかい人が、この部屋にいると思うと、すっげえ窮屈じゃない?」
「想像するだに窮屈ですね」
「でしょ。だから、なんかかわいそうで、呼んだことないや」
「そうですか」
この点においては五条よりリードであることがわかり、七海は少し気をよくした。
「ナナミン、お皿とってくんない?」
「ああ、はい」
顎でしゃくられたほうに白い皿が重ねられているのをみて、それを並べて置く。
「ありがとー」
いい匂いのする焼きそばは綺麗に盛られて、それを七海はローテーブルまで運んだ。
「はい、これお箸」
「どうも」
「お茶でいい?」
「もちろん」
ふたりで、いただきます、と手を合わせた。深夜一時になろうとしている。
「ああ、美味いですね」
「簡単だしね。いいよね」
「ライムを搾っても美味いかもしれない」
「あー、いいね。おしゃれだね」
「美味いですよ、ほんと。どこに出してもいい味だ」
そう?ありがと、と悠仁は笑う。
「まあ、だいたい好評だよね。店の女の子も、みんな美味いって言ってたし」
「エミちゃんですか」
「そうそう、エミちゃんも。あと、彼氏とか」
「…………彼氏」
みぞおちが、ぐっ、と詰まった。彼氏。
彼氏。
「い、虎杖くん」
「へ」
「その…失礼しました、お暇します」
「え、なに、どしたん」
「彼氏のいる若いお嬢さんの部屋に、こんな時間に上がり込むわけには…」
アウターを掴んで立ちあがろうとする七海を、わー!と悠仁は引き留める。
「ごめんごめん!言い方が悪かったよ!いまはいない!彼氏はいない!元カレ!元カレのこと!」
「も、元カレ…」
元カレであってもみぞおちは痛むが、そろそろと浮いた腰を落ち着けた。
「…焼きそば、いただいたら帰ります」
「ああ…うん…ごめんごめん、へんなこと言って」
「いえ…」
元カレ。
みぞおちも、こめかみも痛む。ショックを受けていた、わかりやすく。うろたえている。
焼きそばはたしかにおいしかったはずなのに、味がわからなくなっている。ずぞ、とふたりが焼きそばを食べる音が響いた。
お茶を飲んで、やめておけばいいのに、七海は口を開いてしまう。
「なぜ別れたんですか」
「えっ?なに?」
「元カレです。なぜ、別れたんです」
「あー…」
悠仁は困ったように首をかしげる。
「そんな面白いはなしじゃないよ」
「…面白くないのが普通では?」
「まあ…」
ますます困った顔をして、悠仁はちょっと笑う。
「えーと…元カレは…もともとはお店のお客さんだったんだけど…」
「……お客さんですか」
「しばらく付き合ってたんだけど、その、えーと…二股かけられてたのがわかって…」
「二股……」
「そう。それが、あの…エミちゃんと二股かけられててさ」
七海は絶句する。
「あとでわかって、エミちゃんとボコボコにしてやった。店も出禁にして…まあ、よくあるはなしだよね」
そう言って、悠仁は照れくさそうにへへっと笑ったが、七海は意味がよくわからなくて、黙り込んでしまった。
なにひとつ、よくわからなかった。
お店のお客と付き合うことがよくあることなのかも、二股されることがよくあることなのかも、七海が大事に思っていた女の子を、どこのどいつとも知れない男に、ぜんぜん大事にされないことも。
なにもかもよくわからなくて、七海は黙ってしまう。沈黙にたえかねて悠仁は、そんな怖い顔しないでよ、とつとめて明るい口調で言った。
「もうぜんぜん吹っ切れてるから、大丈夫」
「どこが…」
「え?」
「どこが好きだったんですか、そんな男の」
七海は悔しかった。死ぬほど悔しいと思った。
彼女がもし誰かの彼女になりくさっていても、当然彼女は幸せであると信じて疑わなかったし、そうあるべきだと思っていた。それなのに、そうじゃなかった。なぜそんな男のことを。どうしても知りたかった。
「…それ、聞いてどうするの」
「さあ。でも知っておきたくて」
「知らなくても困らないよ」
「困るんですよ、個人的に」
「困ってるのはおれなんだけど…」
「どうしても、知りたいです」
悠仁がため息を吐く。ため息だけはナナミンより上手にできない、とはかつてよく悠仁が言っていたことだ。
「おれ、なかなか、なおせなくて。自分のこと、『おれ』って言うの。店では気をつけてるんだけど、ナナミンとか…親しいひとの前じゃ、やっぱり言っちゃうじゃん」
それが?と七海は続きを促す。
「でもそのひと、それを『かわいい』って。『かわいいね』って、言ったから」
だから、好きになったのかもしれないな。もう今となってはどうでもいいことだけどさ。
そう言って、俯いてしまった。
そんなこと。
たったそれだけの、くだらないことで。
七海はどうしたってそう思ってしまう。
そんなこと、いくらでも自分だって言えるのに。そんなふうに思ってしまう。
けれど、そのときの彼女にはその男しかいなかったのだ、と唐突に気づいて、後悔して、恥じた。七海は彼女がそう言ってほしかったとき、そばにいなかったし、言ってやれなかった、それだけは動かしようのない事実だった。
「…ごちそうさまでした」
「ああ…おそまつさまでした」
「とんでもない。美味かったですよ」
せめて洗いものはしますね、と強引にキッチンに立つ。
皿を洗い、ゆすぎながら、虎杖くん、と七海はやや大きな声で呼ぶ。
「どした?食器洗剤ない?」
「いえ、そうではなくて。虎杖くん」
「なに?」
「きみにはもうそうじゃなくても、わたしにとってはきみは、いまも好きなひとです」
きみにとってわたしが、『むかし』『好きだった』『だけの』ひとだとしても。
ジャーッ、と水の音がうるさいくらいで、七海は皿を洗いながら、皿をみながら、そう言った。
われながら恥ずかしくなる。告白をするのに、目もあわせられないとは。さっき心の中で蔑んだ男より劣っているところは、こういうところなのだろう、と思った。
悠仁はなにも答えない。七海はとても緊張していた。洗うものがなくなって、それでも水を流しているので、悠仁が焦れたように、きゅっ、と水道を止める。
「水道代、もったいないじゃん」
「すみません…払います」
「いらないよ、そんなの………ナナミン」
「はい」
七海は、手を濡らしたまま、まっすぐ立った。
「きょうはずっと、おろおろしてたね」
「…………」
おろおろ、と表現され、七海は張りつめた緊張をとき、いささか消沈して立ち尽くした。
「まってて」
洗面所に悠仁は消え、すぐ戻ってくる。
持ってきたキキララのタオルで濡れた手を茫然としたまま拭かれ、さらに茫然としてしまった。
「……でも、ありがとう……もうきょうは、帰って。ウーバーでタクシー呼ぶから」
「また来ていいですか?」
「……ここに?」
困惑している、といった顔の悠仁に七海は怯み、譲歩してしまう。
「……お店に」
「う〜ん、お店にねえ…まあ、いいけど…」
あんまりお金つかわないでよー、ともう悠仁は、明るい顔をして笑っていた。五条先生にも言っといてよね、あんま来るなって!なんて言って。
うまく煙に巻かれたと思った。ずっとずっと手強かった。
その晩ホテルに帰って、七海は一睡もできなかった。