ウサギさびしくても死なない 第三章(完結) やがて店は開店時間になり、女の子たちは思い思いの色のリップやグロスをきゅっと唇にのせた。そうしたら、ひとり、ふたりと仕事がえりの男が酒を飲みにやってくる。
七海はそれをカウンターの端っこで、パンにバターをつけてかじり、酒をちびちびと飲みながら、見るとも聞くともなしに、見たり聞いたりしていた。
「ユウちゃ〜ん、ひさしぶり〜!」
「山口さん!ひさしぶりじゃ〜ん、元気だった?」
「外で割引券配ってたからさ。ユウちゃんのこと思い出して来ちゃった」
「あ〜…山口さん、その割引券ご新規だけなんだよね…」
勢いよく入ってきたくせに、ケチくさく、えーそうなんだ、とちょっと肩を落とす悠仁の客らしき男に、七海はチッと舌打ちしてしまいそうになる。
しかし悠仁は太陽みたいな顔で笑って、いーよいーよ、トクベツにワンドリンクサービスするよ、と言うのだった。山ナントカは一気にでれでれして、店のスツールに腰掛けた。
七海は、この山ナントカにサービスしたワンドリンクぶん、わたしが彼女の売上を支えなければ、と妙な使命感に燃える。
「すみません、ロックを」
横から声をかければ、悠仁は太陽みたいな笑顔をすっとひっこめて、ボトルと氷とグラスをぐい、と七海の前によせ、自分でつくってて、と小さな声で言って、それからまた山ナントカのほうに向き直ってしまった。
あんまりではないか。なんだ、この扱いは。
けれど仕方がないので、七海は口にパンを放り込みながら、グラスにおおきな氷をカランカラン!といれて、ウイスキーをつくる。
「なんかさ~さいきん疲れちゃってて。元気なくなると、ユウちゃんのこと思い出しちゃってさ。ユウちゃんに励ましてほしくなって来ちゃったよ」
「そうだったんだ、なんかしんどいことあった?」
「そうなんだよ~、きいてくれる…?上司がさあ…」
うそつけ、と思いながら七海はパンをちぎり、自分でつくったロックをぐいっと飲む。
さっき外でクーポン配ってたから来たって言ってたじゃないか、とむかむかした。適当なこと言いやがって。
むかむかしながら考える。ガールズバーは、キャバクラよりはカウンターを挟むので、不埒な客との身体的接触は起こりにくいが、そもそも客は女の子たちとの擬似恋愛めいたものを楽しむためにここにきている。
どうやって口説いてやろうとか、どうやって店外デートに持ち込もうとか、できたら触ってやろうとか、そういう男の嫌な部分が、七海も男なので、いやというほどわかる。わかるから、彼女がここで働くことは、とても心配なのだった。
元カレの件もあるし。
元カレ。
それを考えると、やっぱり胸がつっかえるような気分になる。
「わかる〜!労働はクソだかんね〜!」
悠仁の大きな声が、店内に響いた。
思わず七海は、ぱっと顔をあげて悠仁を見る。
すると悠仁もアッという顔をして、気まずそうに七海のほうをとっさに見たあと、ぷいっと視線をはずしてまた客に向き直った。
「でたでた、ユウちゃんの、『労働はクソ』!」
となりのエミちゃんもケラケラと笑い、エミちゃんの客までもが、出た出た、と笑っている。
「それそれ〜」
山ナントカは嬉しそうに笑う。
「ユウちゃんの、それがききたくてここに来たんだ。ありがとう、元気でたよ」
山ナントカはしっかり元気になったくせに最低料金だけで帰り、その後も、何人か悠仁指名の客がきた。
どの客も山ナントカと似たようなもので、悠仁と話し、笑い、元気になった、元気が出た、明日もがんばる、そう言って帰っていく。
悠仁だけではなかった。エミちゃんもそうだったし、その他の女の子も同様だった。
いくら小さく狭く場末のガールズバーだろうが、彼女たちはプロだった。こうやって、客を元気にし、金を稼いでいる。
パンもなくなって、バターなんかはどろどろにとけて、おつまみのピスタチオもたべきってしまった。客足もとまった。そろそろ、閉店の時間だ。
さいごの客を見送った悠仁は、客にむけていた笑顔はしまいこんで、つかつかと七海のほうへ歩いてくる。
「何杯飲んだん」
「は?」
「何杯飲んだん、ここで」
七海は少し考えて、さあ、とこたえた。
「伝票についてるでしょう」
悠仁は七海の伝票を確認して、げっ、と苦い声をあげた。
「こんなにお金つかって!ばかじゃないの!」
「ぜんぶきみの売上です、貢献しました、今夜は」
悠仁は、悔しそうな顔で七海を睨む。一生懸命怖い顔をしているつもりらしかったが、どう見たって七海には、かわいい顔でしかなかった。
「ユウちゃん、あがっていいよ」
エミちゃんがあくびしながら悠仁に声をかける。
「いや、まだ片付けが…」
「いーよいーよ、ケンティ、ずっと待ってんじゃん。ゴジョセンより金つかってさ。いいよ、今日はもう。ケンティ、ユウちゃんのことシクヨロ」
エミちゃんはそう言って、着替えといでよ、と悠仁を裏へ押し込める。
七海はエミちゃんに、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます、エミちゃん」
「エミさんって呼びな」
店を出ると、夜中の歓楽街の地面は、雨に濡れたあとらしくピカピカしていた。通り雨でも降ったのだろうか。
「……ファミレスでもいい?」
つっけんどんにきかれて、七海はおや、と首をかしげる。
「家に帰らないんですか?」
「は?家?来るつもり?やだよ…」
また家にはあげてもらえない、と思ったが、悠仁が泣きそうな顔をしているので七海はそれ以上何も言わなかった。
「ほら行くよ、いいでしょ、ファミレスで。駅前にあるからさ」
「アフターならもっといいとこたくさんありますよ」
「ナナミンはそんなんじゃないでしょ!」
怒った声を出して、ずんずん先に進む悠仁のあとを、七海もおいかけた。
そんなんじゃない。客でもない。彼氏でもない。ただの知り合い、むかしの仲間。むかし、好きだったひと。
そんなのではいやだった。ほんのちょっと前までは、どうやって暮らしているかなんて、まったく知らなかったのに。
知ろうとしなかっただけでしょ
あたまのなかで五条が言う。
その通りだった、ただ幸せでいてくれたらいいと、幸せにしているはずだと、そう思いたかっただけだ。
幸せってなんだろうと思う。あのとき彼女に願っていた幸せは、いったい具体的になんだったのだろうと思う。無責任で、かたちがなく、曖昧で幻想みたいなものだったのだろう。
あのときに彼女から失なわせてしまったものを、少しでも取り返してやらなければならない。
深夜のファミレスは人もまばらで、店員も気だるげだった。フリーのドリンクコーナーの、オレンジジュースを若い男が補充している。
悠仁はドリアを、七海はサンドイッチをオーダーして、それが出てくるまでしばらく無言でふたり、向き合った。
運ばれてきたサンドイッチに七海がかぶりつこうとすると、悠仁はやっと、ちょっと笑う。
「またパン」
わずかでも彼女の笑顔をみて、七海はこころに花が咲いたようだと思った。できたらもっと、笑わせてやりたい。
「好きですからね」
「知ってるよ」
「好きです」
「サンドイッチ?」
「いえ、きみのこと」
悠仁は、ぐっと口を閉じる。
それからまた、怒ったような顔をした。
「ハッキリ言うけど」
「どうぞ」
「チョロいと思ってんだろ」
ドリアは手付かずのままだ。スプーンはまだナプキンに巻かれている。
「おれなんか落とすの、チョロいと思ってんだろ。店で金つかって、売上つけてやって、優しいこと言って、好きだって言えば、すぐヤレるって思った?」
「そんなこと…」
「そう?ちっとも思ってないって言える?夜職で、小さいアパートに住んで、決して楽な暮らしじゃなくて、こんな小娘チョロいって思ってんだろ?かわいそうだと思う?」
悠仁は、机のうえのこぶしをぎゅっとにぎりしめた。
「言っておくけど、この暮らしは、おれが自分で、イチからつくりあげた、だいじなものだから。かわいそうなんかじゃないから。絶対にそんなこと思わないで」
はあっ、と息を搾り吐いた彼女の薄い肩が、震える。七海はそれを見て、虎杖くん、と彼女のことを正面からまっすぐ、見た。
「今日、あなたたちの仕事ぶりを、開店から閉店まで見てました。店のはじっこで」
「……パン、かじりながらね」
「ええ。見てました、ずっと。みなさん、プロでした。エミさんも。みんな。お客さんたちは、疲れた顔して入ってくるのに、帰る時には笑顔です。立派なもんだな、と思いました。きみに向いてる」
悠仁は、じっと七海をみている。
「向いてると思いました。きみの笑顔はひとを元気にする……わたしも、何度も元気にしてもらっていたから、わかります」
「………向いてると、思う?」
「思います、きみもプロでした。呪術師は、あんなふうに、あまりひとに感謝されることなんてないから。羨ましいと思いました」
そう言うと、ありがとう、と言って悠仁はうつむいた。笑ってくれ、と思う。笑って。
「みんな、疲れてるんだよ。ナナミンも言ってたでしょ、いつも。労働はクソだって」
「今だって言ってますよ。きみに使用を許可した覚えはなかったのですが。使用料をいただかなければ」
「お金とるの?ごめん、すごい使ってる。ウケがよくて」
冗談です、と言えば、悠仁はナナミンの冗談は冗談にきこえないんだよなあむかしから、と笑ったあと、真剣な顔をした。
「みんな疲れてて、ちょっとでも元気になってくれたらいいなって思う。いつか…これはほんとにいつになるかわかんないけど。いつか、東京に戻って、ナナミンとか、先生とか、呪術師のみんなが飲みにきてくれて、元気になって帰っていけるような、そういう店ができたらいいなって…」
そんなふうに思ってる、とだんだん小さくなる声で、けれどしっかりと、そのように言った。
七海には、それはとてもいい考えのように思えた。
「とりあえず、食べたらどうですか?」
「………うん」
向かい合って、彼女はドリアを食べ、七海はサンドイッチを食べる。
もくもくと食べ、やがて店員が、すみません、と申し訳なさそうにやってきた。
「閉店の時間で」
「えっ、もう?」
「働き方改革で…」
そういう時代か、とふたりで顔を見合わせて、ファミレスを出た。
「わたしの仕事より、ファミレスのほうが余程ホワイトですね」
思わず七海がため息をこぼすと、悠仁はあはは、と笑う。
「今日は?任務は?」
「今日はないですが、明日早朝からなので。朝の新幹線で帰ります」
「そう」
悠仁は歩きながら、少し考えて、ナナミン、と呼ぶ。
「ウチ、くる?新幹線の時間まで」
「……いいんですか」
「言っとくけど、絶対にヤらないからな」
「もちろん、約束します」
「ふふ」
タクシーは使わずに、歩いて悠仁のアパートまで向かった。夜中の空気は決して清廉とは言えなかったが、そう悪いものでもなかった。濡れた地面に、悠仁のスニーカーのきゅっきゅっという音と、七海のこつ、こつ、という革靴の音が響く。
「ナナミン、おれのこと、好きだって言ってくれてありがとう」
歩きながら、悠仁は言う。
「おれ、ずっとずっと、ナナミンのこと好きだったよ。あのときは、とても言えなかったけど」
七海はそれを、同じように歩きながらきく。
「あのときおれは子どもすぎて、色々なことからにげることも立ち向かうこともできなかった。ただ流されてここにきただけだ。あのときおれはナナミンが好きで、それはたいしたことではなかったのかもしれなかったけど、おれのあのとき持ってた荷物のなかではたいしたものだったんだ」
「いまは?」
「え?」
「いまは、どうですか。好きになってくれますか、また」
悠仁は、ううん、と濡れた道をみている。
「どうかな。わかんないな、まだ」
わかんない。可能性は、ないわけではない。
七海は勇気を出して、悠仁の小さな手を掴んだ。掴んで、手を繋いでみようとする。
悠仁は嫌がらなかった。こっちは見なかったけれど、ふりほどいたりしない。
そのまましばらく歩いて、悠仁のアパートにつく。小さな小さな、彼女の城だ。お姫さまひとりだけの、城。
「まあ、ゆっくりしてってよ。なんにもないけど」
そんなことを言いながら、彼女は鍵をあける。なんにもないことない。きみがいるじゃないか。
ドアを開けて鍵をかける彼女に、狭い玄関で、七海は抱きしめていいですか、ときいてみた。手は繋いだままだ。離し難くて、かわりに抱きしめでもしないと割にあわない。
悠仁は困った顔をして、いいともだめだとも言わない。
だから七海は彼女を抱きしめた。手を繋いだときみたいに、そのまま嫌がったりしない。力をこめると、悠仁はおずおずと七海の背中に手をまわした。七海はさらに力をこめる。
「おれ、ずっとうまく泣けなかったんだ」
小さな声で悠仁が言う。
「ひとりになって、誰もいなくて、ちゃんと自分で生きていかないといけなくて、でもさいしょ、なにもかもうまくいかなかった。3・2・1・ドカーン!キラキラー!ってこなごなになってきえてしまいたいって思った日もあるよ。でも、ドカーン!なんて起きないし、キラキラー!とも人間は消えられないことは知ってるから。さんざん呪いの果ては見てきたから。泣いてもなにしても人生は続いていくし、それなら泣かないでやっていくしかなかったんだ」
でも、と続ける。
「でも、いまなら泣けると思う。ごめんね、いま、泣いてもいい?」
「もちろん」
言ってやると、しばらく悠仁は黙り、しだいにしゃくりあげ、そのうちわあわあと泣きはじめた。
はじめて五条に引き合わされて、そのあとやるせないことになって、うなだれていた彼女を思い出す。あの時ですら七海のまえでは泣かなかったのに、いま彼女はわんわんと、子どもみたいに泣いていた。
とん、とん、と背中を撫でて、叩いてやる。泣き場所になれてよかった。そう心から思う。
わんわんがひっくひっくになって、すんすんになるまで、七海は背を叩いて、それから靴をやさしく脱がせ、手を引いて奥に連れて行った。
もう一度正面から抱きしめながら、虎杖くん、と名前を呼ぶ。
「きみが好きです。泣いてるきみにこんなこと言って、つけ込んでると思われるかもしれないけれど。でもどうしてもきみの彼氏になりたいし、きみにはわたしの彼女になってほしいから、卑怯でもなんでもいい。いま言います、きみが好きだ」
涙で濡れたほうせきの瞳が、七海をじっと見ていた。
「きみがいなくてもたぶん生きていけるし、この一年そうやって生きてきましたけど、きみがいるほうがいいなと思います、ほんとうに。ずっと一緒にいようとか、軽々しくて嘘っぽいし。いつ死ぬかわからないですし。でも来週映画にいきましょうとか、来月旅行にいきたいとか、そういう約束をきみとしたい」
あはは、と悠仁は笑った。
「5億年後もきみを愛するとかサムいこと言われるよりぜんぜんいいよ。5億年後なんておれたち未確認生物の細胞かもしれないのにさ………ねえ、ナナミン。ありがとう」
頬に涙の筋をいくつもつけたまま、悠仁は最高にかわいい笑顔で笑った。
「じゃあさ、いいよ。おれ今日からナナミンの彼女になるよ。よろしくね」
ちいさな約束がつもってつもって、ふたりだけのずっとになったらそれはそれはしあわせだとおもう。
七海は胸がいっぱいになって、もう一度悠仁を抱きしめた。彼女の首筋のにおいを思いっきり吸い込んで、ああ…とため息をつく。
「参りました…」
「なに?」
「押し倒しくて仕方ない…」
「ヤんないよって約束したじゃん」
「わかってます…わかってます。しませんよ。きみの元カレじゃあるまいし…」
「ええ?」
悠仁は眉を寄せて、ヤってないよ、とあっけらかんと言う。
「ヤってないよ、元カレとは」
「そっ…」
そうなんですか?!と七海は大きな声を出してしまった。いま何時だと思ってんの、ここ壁薄いから静かにして!と尻を叩かれた。
「おれ、そんなこと一言もいってないでしょ」
「そ…それも…それもそうです、ね…」
はあー、と七海はため息を深く吐く。ますます抱きたくなってしまった。
「いろいろ触られたりはしたけど、最後まではしてないから」
「ちょっと!なんでそんなこと言うんですか!」
クソッと悪態をつくと、悠仁はだめだった?ごめんごめん、と悪びれなく言う。
「言わなくていいんですよ、そんなことは…クソ…腹の立つ…」
「触る?ナナミンも」
「さ、さわ…」
触る?いやいや…触ったら…
「いえ、やめておきます。触ったら、最後までしたくなるだろうし。ぜったいしたくなる。避妊具を持っていません。わたしはきみがもし妊娠したって一向に困らないけど、きみは夢もあるし、まだまだやりたいこともあるだろうし、困るでしょう」
「ナナミンは、困らないの?」
びっくりしたように悠仁は目を丸くした。
「おれのこと、ほんとに好きなんだね」
「だからそう言ってるじゃないですか…!」
「ちょっと、声でかいって」
そんなふうに、ぎゃあぎゃあ言って、笑って、朝まで過ごした。
すばらしい夜になった。本当は触りたかったけれど、七海はとてもがまんした。悠仁のことを、本当に心から好きだからだ。
「七海さん」
高専の渡り廊下で、伏黒に声をかけられた。
「おや、こんにちは」
「こんにちは。もう帰ります?そこまで一緒に行ってもいいですか」
「もちろん」
連れだって、最近の任務についての話をし五条の悪口を言い合ったところで、伏黒がそういえば、とまるでいま思い出したように言った。本当はそっちが本題であったことを隠せていない若さが、七海には好ましい、と思う。
「そういえば、虎杖と付き合うことになったらしいですね」
「はい、まあ」
「こんどあっちで任務だからまた泊めてくれって連絡したら、断られました」
伏黒は鼻に皺を寄せる。
「カレシが嫌がるからって」
「あたりまえでしょう」
今度は七海が渋面をつくる。
「どこの世界に彼女の家に他の男が泊まるのをよしとする男がいるんですか」
なにか言いたそうにする伏黒に、たとえ親友だとしてもです、と念を押した。
「だいたいきみ、宿泊手当はどうしてたんです。虎杖くんの家に泊まって、浮いた宿泊費。そんな金に困っているわけでもないでしょう?」
「それは…」
伏黒は、言うか言うまいか、ちょっと迷った様子で、しかししぶしぶ、白状しだした。
「浮いた金で、いつも虎杖と、焼肉食いに行ってました。一宿の礼ってやつです」
だって、と伏黒は言い訳みたいに言う。
「俺が飯食わせてやるって言ったって、あいつ、そういうのいいって、素直におごらせてくれねえし。俺の方が稼いでんのに。でも、あいつにとっては、そういう問題じゃないんです。俺たちは友達だから、そういうのが嫌なんだと思ったし。それなら宿を提供してもらうかわりに、俺が肉食わせてやる。それだったら、まあ。そんなかんじで…」
「そうでしたか」
彼らの友情は若くてまぶしく、七海にはそれが、やはり羨ましく感じた。宿泊手当着服の件は、この場限りで忘れようと思う。
「でも、よかったです」
唐突に、伏黒が立ち止まって、七海を見上げた。
「なにがですか」
「いや、虎杖に、七海さんがいて、よかったなって」
どういうことですか、と問えば、えーと、と伏黒は言葉を探し探し、こんなことを言う。
「女って、なんか、強いじゃないですか。俺たち男なんかより、ずっとしっかりしてて、なんでも笑い飛ばして、やわらかくてしなる絶対折れない金属みたいな。すげえな、かなわねえな、っていつも思うけど。でも、なんでこんなことで、って俺たちが思うことで、すっげえ弱くなったり、脆くなったり、単純にからだも小さいし。とつぜんポッキリいっちゃったり。やっぱりどっかで支えてやらねえといけないなってところもあって…わかります?」
「それは、きみのお姉さんのはなしですか?」
今度こそ、伏黒は、めちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
「いま、虎杖の話をしてるんです、俺は」
「失礼」
しばらく嫌そうな顔のまま黙って、ようやく気をとりなおしたように、虎杖は、と伏黒は続けた。
「でも、虎杖は、友達だから。俺はあいつを支える役ではなかったから。だから、心配だったんです。でも、あんたがいるんだったら」
安心できました、と彼は言った。
そこで別れて、七海はひとり、家路につく。
家に帰ってもし彼女がいたら、こういうときどんなにいいだろうと思う。七海がその気になれば、すぐにでも呼び寄せられるし、七海の金で店を持たせることもできる。そうやって、そばに置くことはたやすいことだ。
でも悠仁は、彼女の世界をとても大事にして生きているのだから、そんなことをすればもうすぐにでも、七海からは離れていってしまうだろう。
伏黒の言う通りだと思った。彼女たちは、弱いようで強いし、強いようで弱かったりする。でもやっぱり、強い。
仙台であの夜ぐうぜん、黒いウサギを見つけた時のことを思い出す。あのとき会えて、本当によかった。ウサギは七海に簡単には飼わせてくれないウサギだったが、すっかりこころのなかに棲みついてしまった。大事にしていきたいと思う。
「とりあえず……遠距離恋愛…」
遠距離恋愛なんて、じぶんに縁がある言葉だとはいままで到底思えなかったが、彼女とならそういうのもいいかもしれない。そう遠いわけじゃないし、いつだって会える。来週は、映画に行く約束をした。
なにを着ていこうかな。今からまっすぐ帰るんじゃなくて、新しいシャツでも選びに行くのもいいかもしれない。
了