今、この瞬間を「ちょっと寝かせてくれねぇか?」
ドアを開けるなりボスキにそう言われ、ナックは思わず言葉を失ってしまった。
警戒するように数度廊下を見渡してから、返事を待たずにボスキはナックをそっと押しのけて三階執事室へと上がりこむ。
「……私はまだ許可を出していませんが」
確か普段ならこの時間、二階の執事達は模擬戦か設備点検に当たっていた筈だが──
事情に察しがつき、ナックは呆れたように溜息をついて腕を組む。あからさまに嫌味たらしい態度を取られ、ボスキは不服そうに口を尖らせながらも構う事なくベッドへと腰を下ろした。
「折角、今日はラムリが真面目に仕事してくれていると思ったら……。仕方ありませんね、私のベッドでも使って下さい。先程シーツを取り替えたばかりですから」
「……わりぃな、ハウレスに見つかるとうるせぇんだよ。ここでサボってること、くれぐれも黙っててくれよな?」
ボスキは軽く手を上げて悪戯な笑みを浮かべる。まるで悪びれる素振りのない様子に、ナックはまた一つ嘆息をつく。
──毎度の事ながら、本当にこの人はいつも勝手でこちらの事情などお構いなしなのだ。
「何か飲みますか? ハーブティーか、冷たい水でも……」
招かざる客とは言え、客は客。一応の礼節として最低限のもてなしはすべく声をかけるが返事がない。ベッドの方を振り返ると、いつの間に布団に潜り込んでいたボスキは既に寝息を立てていた。
いつもの事ながら、それにしても寝付きがいいにも程がある。呆れを通り越して感心すらしてしまえる。
ナックは静かにベッドの端へと腰を下ろし、深く目を閉じて熟睡する男の顔を見下ろす。彼の頬には小さな擦り傷が確認出来た。
──昨日、突如街に現れた天使の群れを偶然居合わせた彼が一人で捌いたと聞いている。
『別になんてことはない』と気だるげに嘯いていたが、どうせまた悪魔の力にでも頼って無茶をしたのだろう。彼はそういう人なのだ。
……こちらだって伊達にルカスの補助をしている訳では無い。口では余裕だと偽っていても、普段より顔色が悪い事くらいは一目瞭然である。
最近は古傷への痛み止めの量が増えていた事も……。
自分が言えた立場ではないが、もう少し己の身体を労って行動してもらいたいものだと、ナックは常々願っていた。これ以上無茶をされては、またルカスの負担やベリアンの心労が増えるという事を、この人はちゃんと理解しているのだろうかと。
──それに……である。
「……ここにも貴方の心配をする者がいる事、どうか……忘れないで下さい」
耳元への微かな囁きは、ボスキの寝息にかき消される。
手袋を外したナックは素手でボスキの頬に触れ、頬にかかった髪を払うようにそっと撫でた。
毛先の隅まで手入れの行き届いた、長く艶やかな濡羽色の髪。こうして触れる事はおろか、じっと眺める事すら恐れ多いと思っていた、極上の絹糸のようなそれの感触を確かめれば自然と感嘆の息が零れ落ちる。
──我に返り、慌ててナックは口を押さえる。しかし余程疲労が蓄積されていたのか、安心しきっているのか……ちょっと触れた位では、目覚める気配はまるでない。
再び吸い寄せられるように、頬に、髪に触れた指をゆっくりと滑らせ、僅かに開かれた薄い下唇の端を優しくなぞる。
一見、日頃の傍若無人で破天荒な振る舞いと、一般的に粗暴と形容される性格による印象が先行してしまうが、よくよく見ればその顔立ちは実に端正かつ中性的で、同性の自分から見ても迷わず美しいと表現できるものだと改めて実感する。
端正な顔の半分を覆った無機質な仮面も、初めて見る者には彼の印象と相まって、より畏怖の念を抱く事だろう。しかし無機質が故の造形の美しさと不釣り合いさが、逆に彼の妖艶さを引き立てていた。
──彼は自身の過去を語ろうとしないが、後ろ暗い人生を送ってきた者として、決して平坦ではない道を歩んで来たであろう事は容易に想像がつく。
他人を拒絶するかのように、常に不機嫌そうに眉を寄せては周囲を威圧する人相の悪さも、それまでの経験がさせる警戒心の表れなのだろう。
かつて自身も悪魔執事になったばかりの頃、まるで品定めをするような、心の奥底まで見透かされるような冷たく鋭い眼光で射抜かれた時は、思わず肝を冷やしたものだった。
しかし──緊張感から解き放たれているであろう今、この瞬間は何とも穏やかな表情で。
威嚇するような鋭い目付きさえ鳴りを潜めていれば、経験の積み重ねが滲み出ていた筈の相貌も実年齢より幼い印象を受けるものだったと初めて気付かされた。
それは余程気を許した相手にしか見せる事はない表情だろう。……ならば自分も、その御眼鏡に適ったという事なのだろうか。
(……ボスキさん……)
そっと心の中で名前を呼ぶ。
勿論その声は届かない。届いてはいけない。届いて欲しくない。
今……自分が抱いている感情は彼にも、誰にも知られる事なく、己の内にだけ秘めておかなければならないのだから。
だから──
「これで一つ、貸しですからね?」
そう呟いてナックは目を細め、自分の前で身を委ねて眠るボスキを心配と愛おしさの入り混じった表情で見遣る。
こうして、この美しい面差しに触れ、気兼ねする事なく間近で凝視出来る機会など、そうそうないだろう。
何せ彼にとって今の自分は、職務放棄を幇助した“共犯者”なのだ。規律を犯したリスクに見合うだけの貸し位、求めても罰は当たらない筈だ。
自分やルカス達にこれ以上迷惑と心配をかけるな、と説教する権利だって勿論ある。
──今頃、ルカスはグロバナー家定例会議の最中である。まだすぐには戻らないだろうが、先に貴族の依頼に出向いたラムリの方が帰宅するかもしれない。
あるいは、設備管理係不在に気付いたハウレスが先に捜しに訪れるかもしれない。
いずれにしろ、彼の共犯者で居られる穏やかな時間はそう長くはないだろう。だからせめて少しでも長く……今、この瞬間を──